伊豆急行 ー③・2100系 -02 | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

伊豆急行 ー③・2100系 -02


伊豆急の2100系 Rー4編成"黒船電車"です。

今回は伊豆箱根鉄道と伊豆急行を通して最終回のUPで、この6回を通して1番華やかな写真となりました。

撮影場所は伊豆急下田駅ですが、そのお陰で特急列車の共演がいっぱいです。



伊豆の鉄道2社を訪れたのは今年の3月ダイヤ改正前。

185系と251系の写真を優先的に記事化したとは言え、もう5ヶ月以上も前の出来事となってしまいました。

まずは黒船電車と185系"特急踊り子"と、651系"伊豆クレイル"の並びから。



651系は常磐線の元"特急スーパーひたち"用の車両でしたが、ここ伊豆急線への入線は特急仕業ではなく、リゾート快速としてのお勤めでした。

この2枚は185系抜きで、651系とツーショットとなるように撮ってみました。

伊豆クレイルをUPした時にはまだ処遇が不透明でしたが、その後、予定臨としては3月29日で終了して、4月4日と6月28日に静岡D.Cのアフターキャンペーンで運転される予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大による非常事態宣言を受けて運行中止となり、3月29日が事実上のラストランとなりました。



続いては記事の最初にある写真と別方向からの185系とのツーショット、そして251系とのスリーショット。

251系も"特急スーパービュー踊り子"として活躍しましたが、3月ダイヤ改正で後継の"特急サフィール踊り子"へバトンタッチし、引退してしまいました。

国鉄分割民営化の後、JRの特急型車両として誕生した形式が次々と廃車されていく中、国鉄型特急車両である185系と381系がまだ、現役で走っていることは、奇跡と受け止めなければいけないのかも知れません。



ホームからガラス越しに黒船電車の車内を撮ってみました。

隣に251系が止まっているので、後ろの風景が遮断されてごちゃごちゃせず、いい感じのバックスクリーンとなってくれました。

もう1部では解体作業が進み、営業列車としては存在しない251系が、黒船電車の車窓からどう見えるの?みたいな、結果的にいい記念ともなりました。



黒船電車のサボと車体のロゴ。

かつては"特急リゾート踊り子"として運用されていた2100系だからか、サボには【普通】の文字が入ってます。

観光列車やリゾート列車が数多く運転される伊豆急線なので、利用客が迷わないよう『普通列車ですよ~』との表記をしているのかも知れません。



もしも貸し切ったら、貸切とか団体とかっていうサボが入るのでしょうか。

帰りは大宮行きの"スーパービュー踊り子10号"に熱海まで乗りましたが、伊豆高原駅で行く時には見かけなかったRー3編成の"KINME TRAIN"を見かけました。

金目鯛は伊豆の名産で、魚の赤色をイメージカラーにした電車ですが、この旅では出会えなかったものの、雨の夕暮れを通過中の車内からスマホで撮りました。

▼本日限定!ブログスタンプ

一度は飲んでみたいお酒、教えて!

あなたもスタンプをGETしよう


さて、今回は黒船電車の写真をUPしましたが、元々は江戸時代までは外洋船全てを指すことばとして"黒船"が使われていました。

明治時代後も流通語の俗称として外洋船のことを黒船と呼ばれましたが、それは船体を構成する木材が防腐剤によって黒く見えることから、そう呼ばれるようになりました。

黒船の公文書による最初の記述は1587(天正15)年で、1603(慶長8)年に編纂された日葡辞書にもポルトガル語の和訳に黒船と記載されています。



尚、船体木材に使われていた防腐剤は松ヤニやタールなどではなく、ピッチという精製物でした。

木材を空気を遮断して過熱すると、発火・燃焼することなく熱分解反応が起り、水・二酸化炭素・可燃性ガス・揮発性有機化合物などが生成され、残留物としてして炭素や炭酸塩が残ります。

この作業のことを"乾留"と言い、残留物から得られる物質がピッチとタールで、タールは粘度の高い液体ですが、ピッチは固体の性質を持つ粘液です。



常温では硬く個体のように見え、叩くなど強い衝撃を与えると割れたり砕け散ったりますが、分類上はれっきとした液体で、水の約2300億倍の粘度があります。

2300億倍と言われてもピンと来ませんが、同じ口径の漏斗に水とピッチを同量入れると、水は1滴目から2滴目が落ちるのに約0.5秒なのに対し、ピッチは8年かかったという実験結果があり、オーストラリアのクイーンズランド大学で1935(昭和10)年の第1滴目から2000(平成12)年に第8滴の滴下が確認されたという実験結果もあります。

これだけ粘度の高さがあると、防腐効果だけでなく継目からの浸水も防ぐので、ピッチはキャラック船・ガレオン船・スヒップ船・ヤハト船・フリュート船など、全ての外洋船に使われていました。



そんな中で本来の黒船ということばの意味以外に、アメリカ東インド艦隊が初めて日本へ訪れた時の"ペリー艦隊"を個別に指す場合が多いのは・・・・。

やはり歴史教科書で1853(嘉永6)年の蒸気船2隻を含む浦賀沖停泊において、初めて黒船ということばを使うことによる弊害と思われます。

ただ、この黒船来航事件を機に日米和親条約の締結へと至り、幕末そして明治維新へと繋り、近代国家日本へと歩み始めたことを考えると、黒船=ペリー艦隊でも許されるような気もします。




ペリー艦隊は江戸湾入口の浦賀(神奈川県横須賀市)沖に停泊し、久里浜(神奈川県横須賀市)にてアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡されることとなり。

その後、下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、和親条約の細則を定めた下田条約(全13箇条)が締結されました。

下田港は1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に国際港として開港し、1934(昭和9)年には開港80周年を記念して第1回黒船祭が開催されました。



長崎港は鎖国中だった江戸時代全般に渡って唯一の国際港でしたが、ペリー艦隊の接待においては長崎から取り寄せたワインなど洋酒の他に、日本のお酒として焼酎や日本酒も振る舞われたようです。

当時のアメリカ人の口に、初めて日本のお酒を口にした時、どのような感想だったのか是非、聞いてみたいものです。

ちなみに私はラム酒が好きですが、今飲んでみたいお酒と聞かれても・・・・・お酒の分類ではないですが、沖縄の泡盛コーラかなぁ。

ー毛利藩 藩庁門・山口市滝町 山口県庁ー


映画パイレーツ オブ カリビアンのブラックパール号が速かったのは、時代を先取りしてピッチを使っていたから真っ黒い船体だったのかも知れませんね。

ただ、帆には使えないので・・・・あと、将来の宇宙船の保護シールドにも活用できないかと一部では研究されているそうです。

最後、このリンクは直接"黒船"と関係のある記述ではありませんが、2018年3月22日に"毛利藩 藩庁門"として、少しだけ幕末について語っていますので、興味のある方はどうぞ。

広島ブログ
読者になってね…for blog top page.