暦の上では秋ですが、まだまだ残暑が厳しい日が続いています。こんな時は海水浴でも行きたいなと思っている方も少なくないと思いますが、新コロで “3密” が予想されることを懸念して、海水浴場すら開設されないエリアもあるとか。まぁ、2020年は我慢して、来年に期待したいところではあります。

近年、レジャーの多様化で一頃に比べると海水浴場に行く人も減ったと聞きますが、それでもこの時期のニュースを観ると、海水浴場には大勢の人が訪れていますよね (例年の話) 。首都圏だと房総、湘南、伊豆辺り、関西だと南紀、須磨、赤穂辺りが有名だと思いますが、今では自家用車が移動のメインですけど、かつては鉄道が海水浴客を運んでいたこともありました。海水浴専用列車も設定されたりしてね。今回はそんなお話しです。

 

房総半島が首都圏屈指の海水浴場エリアであるというのは前述した通りですが、昭和40年代以前は高速道路は元より、幹線道路も整備されていなかったので、鉄道を利用するか、舗装されていないあぜ道をバスで行くしか手段がありませんでした。しかし、その頼みの綱であるはずの鉄道、特に国鉄各線もまた、電化は千葉駅までで、そこから先は非電化区間。そのため、様々な気動車を投入して走らせていました。故に 「気動車王国」 と言われる所以です。

夏になると、都心から海水浴場へ向かう臨時列車が多数運転されましたが、急行用のキハ58系、準急用のキハ55系だけでは足らず、通勤用のキハ35系や普段はローカル輸送がメインのキハ10系も駆り出す有様。さらに別の地域から応援車両を捻出して輸送にあたっていました。その頃で面白いのは、本来北海道用であるキハ56やキハ27の早期落成車を一時期的に千葉に派遣させたことや、80系電車や153系電車を充てたことも。電車による臨電は、千葉まで自力走行して、千葉から先はDD13形ディーゼル機関車に牽かれて目的地へ向かいました。連結器の違いから機関車と電車は直接連結出来ませんが、その間に電源車を兼ねたアダプターの役割を果たす車両をつなげていました。

昭和30年代の夏季臨時列車には 「汐風」 「白浜」 「黒潮」 などの愛称がつけられていましたが、起点である両国駅には多数の乗客が押し寄せていたという言い伝えがあります。

 

昭和40年代に入って、房総地区もようやく近代化の波が来るようになり、総武本線両国-千葉間の複々線化工事を筆頭に、同線千葉以東や今の内房線、当時の房総西線を皮切りに一部区間の複線電化工事も始まりました。その頃から夏になると千葉地区独自のダイヤが設定されるようになり (いわゆる 「夏ダイヤ」 ) 、海水浴場への臨時列車も気動車から次第に電車に置き換わるようになり、普段は都心への通勤客を運ぶ 「きいろいでんしゃ」 こと、101系もこの輸送に携わるようになりまして、房総西線木更津-千倉間の電化が完成した昭和44年からはそれまで気動車で運行していた臨時快速 「さざなみ」 を101系が担当するようになります。さらに大船電車区 (南フナ~現在のJR東日本鎌倉車両センター) から113系を、小山電車区 (北ヤマ~現在のJR東日本小山車両センター) と新前橋電車区 (高シマ~現在のJR東日本高崎車両センター) から115系を借り受けて夏季輸送を乗り切っていました。房総西線の全線電化は昭和46年7月のことです。

 

鉄道100年にあたる昭和47年は、総武本線錦糸町 (両国) -東京間の地下新線及び東京地下駅が完成、房総東線の電化、それに合わせて房総西線を内房線、房総東線を外房線とそれぞれ改称し、初めて特急走らせた画期的な年になりました。急行は保安装置の関係から地下線を走らせることが出来ず、両国や新宿発着は変わらなかったのですが、東京駅直通の普通列車として快速を設定しました。ご存じの方も多いかと思いますが、総武線の地下新線は将来的には横須賀線とつなげて直通運転をする目論見があったことから、新設された快速には113系が投入されますが、地下線を走るために、保安装置 (ATC) を備えたマイナーチェンジ車が登場しました。俗に 「1000’番代」 あるいは 「1000番代後期型」 と呼ばれるグループですね。

それまでの1000番代も一応は地下線対応で設計・製造されたのですが、保安装置の見直しによって従来のタイプは地上線専用になり、横須賀線に投入された車両も房総地区に転配されることになります。

そして今回の製造分は、209両という大量増備だったこともあって、コスト削減のために冷房装置は取り付けられず、準備工事に留められました。

 

従来の乱立した列車名を整理して、新たな海水浴客輸送臨時列車である 「青い海」 と 「白い砂」 が設定されたのはこの時からではないかと思われます。早速、新造された113系も 「青い海」 と 「白い砂」 に投入されましたが、一部に101系が宛がわれました。

 

 

 

「青い海」 が内房線、 「白い砂」 が外房線向けの列車で、愛称はつけられていますが、別途料金は徴収せず、オール自由席だったので、海水浴に行かない乗客も乗車出来ました。まぁ、千鉄局や千葉動労のやることですから、本音は別途料金をブン取りたかったんでしょうけどね。

そんな中、成田空港開港用にリクライニングシートを装備したサロ113が新造されました。夏季ダイヤでは、不足する165系を補うため、113系を使った臨時急行が設定されましたが、この編成にサロ113を組み込みました。さらに、 「青い海」 と 「白い砂」 にもサロ組み込みの編成が充当されたりしましたが、これが総武線及び房総地区におけるサロの最初の営業運転となりました。なお、昭和55年から横須賀線との相互乗り入れを実施する総武線快速ですが、それを機に、横須賀線の編成に合わせてグリーン車が2両、通年連結されるようになり、翌年の夏季臨電からグリーン車組み込みの編成になったと思われます。

話は昭和48年に戻って、この頃になると、113系も増えてきて、運用に余裕が生じるようになったので、101系の応援臨時列車は設定されなくなりました。

運転開始直後は取り付けられなかったヘッドマークも、通常の快速と識別するために後年、取り付けられるようになりました。

 

ピークは昭和49年で、それ以降は減少します。遅れていた道路網の整備によって自動車を使う利用者が多くなったのもそうですが、やはり国鉄の毎年の運賃値上げが行われたり、労使問題の悪化によってストライキや遵法闘争が相次いだのが一番の理由ではないかと思われます。そして時代は昭和から平成に入ると、房総地区の鉄道網にとって最大の難敵である高速路線バスが急台頭し、鉄道離れはさらに加速する一方で、平成元年を最後に 「青い海」 と 「白い砂」 の運転は行われなくなりました。千鉄局名物の夏季ダイヤもいつの間にか設定されなくなりましたしね。

 

いつもいつもそうなのかは判りませんが、 「青い海」 は千葉-木更津間で、 「白い砂」 は千葉-勝浦間でそれぞれ快速運転を行っていましたが (勿論、東京-千葉間も) 、よくよく調べてみると、レギュラー運転の総武線快速と全く同じだったりします。 「青い海」 の場合は五井と姉ヶ崎のみの停車、 「白い砂」 は誉田、大網、茂原、上総一ノ宮、大原、御宿に停車で、どちらもそれ以南は各駅停車になります。どちらも後年は東京駅発着になりましたけど、東京-館山間、東京-安房鴨川間ともにだいたい4時間。今の視点から考えたら 「死んじゃうよっ!」 の所要時間なんだけど、多分、それでも車よりかは速いのでは? 伊豆もそうですが、あの頃の房総半島は高速道路、無かったですからね。だから幹線道路 (国道128号線や同127号線) はきっと大渋滞だったんでしょう。

 

私が最初に夏季臨電の存在を知ったのは、小学生とか中学生の時だったと記憶していますが、きっかけは 「青い海」 でした。

「青い海」 の画像ですが、ホームがこれだけ多いというのは、千葉駅でしょうか? この角度からだとグリーン車が連結しているかしていないかは判りませんね。

「白い砂」 の画像は、 「如何にも夏っ!」 という空模様ですよね。

撮影地は勝浦か安房鴨川かのいずれかだと思われますが、ドアが開いているので、電留線で点検等を受けているところを撮ったのではないでしょうか。グリーン車は見えず、さらに冷房準備車を連ねているようです。ですので、昭和40年代後半とか50年代前半とかに撮影されたものと推察します。

 

房総地区には今度、新型電車E131系の投入が決まっており、総武線快速にもE235系の近郊形バージョンが登場して、それまでのE217系を置き換えることが決定しています。スカ色の113系は面影はさらに遠くなろうとしています。

 

【画像提供】

2枚ともタ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアル No.953 (電気車研究会社 刊)

国鉄車輌誕生秘話 (ネコ・パブリッシング社 刊)

国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)