終戦75年を迎えた8月15日。
宮城県内に遺る戦争遺構を見に奥松島の宮戸島へと足を運んだ。
遺構には自宅から車で1時間程度で到着。
事前にネットで地図を確認していたので迷わず来れたが、戦争遺構だと明記するような案内看板などは現地にはどこにもない。

今回訪れた戦争遺構とは、国内で最後に編成された「第146震洋隊」の特攻基地である。
特攻と言えば大和沖縄特攻や神風特攻隊などが有名だが、それ以外にも様々な特攻兵器が戦争末期に発明されており、震洋もその一つである。資材が不足した日本軍が、ベニヤ板や自動車から転用したガソリンエンジンで作った即席の兵器。船の先端に250kgの爆弾を積んで、敵軍に突撃する。非常に簡素な造りだった。また搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか、学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。彼らは機体が無いために余剰となった航空隊員だった。震洋の戦死者は2,500人以上である。

宮戸島の基地からは戦争末期という事もあり特攻による戦死者は出なかったが、戦死者が出なかったからこそその存在は忘れ去られていってしまったのかもしれない。
しかし戦死者がいなくとも、そうした無謀な作戦の遺構が戦後75年が経った今でも遺っていることはとても貴重で重要なことではないだろうか?
そんな想いもあったことと、前々から気になっていた遺構だったので、終戦日であったこともあり、今回足を運ぶことにした次第である。


車を停め少し歩くと、明かりが一切ない真っ暗な手掘りのトンネルが現れた。
距離にして約60mあるトンネルは、その先にある特攻基地へ辿り着くために突貫で掘られたものらしい。

 


入口の明かりだけを頼りに進むと、なんだか過去へとタイムスリップしていくかのような感じを受けた。


トンネルを抜け少し歩くと、道脇にいくつもの横穴が現れた。
当時のままの姿で残る震洋の格納壕である。
しかし、ここに震洋が格納されることはなかった。
基地が整備され、部隊も結成されたが、震洋が配備される直前に終戦を迎えた。
結果、搭乗員49人は助かった。


さらにほんの1~2分も歩くと松島湾が見えてくる。


そしてすぐさま海へ通じる錆びた線路が目に飛び込んできた。
よく漁港などで見かけられる小型漁船などの船舶を進水させるための「スリップウェイ」と考えるには、それにしてはいささか立派すぎる作りに思える。

他県に現存する震洋の線路幅とも似ており、はたしてこれは・・・??

 


気になるのは、狭いトンネルを通って車の往来もしにくいようなこの場所へ、ここまで大がかりな線路を2路線も作るだろうか?
断定はできないが、おそらくこれは震洋をトロッコに乗せて海に送り出すために敷設されたものかもしれない。


目を海から陸地にやると、そのトロッコが残っている。


1台だけかと思ったら、もう1台は奥の線路の海側に投げ出されていた。
東日本大震災のときに流されてしまったのだろうか?


さらに奥に足を踏み入れると、海に通じる線路とは別に、海と並行して敷設された線路があることに気が付いた。
その線路には先ほどのトロッコも乗っかっている。
どのネット記事にも記載されていなかった事なので驚きの発見だったが、これは「遷車台(せんしゃだい)」と呼ばれる装置だ。
現代では主に鉄道工場や路面電車の車両基地などで見かけられるもので、車庫内の車両を遷車台に乗せ横にスライドし、目的地に続く線路へ接続するというものであり、戦時中にも存在している装置である。
こうした装置は大きな漁港に設置されているならば理解できるが、先述の通り極めて小さな漁港であることを考慮すると、やはりこれは特攻基地としての遺構なのではないだろうか?

気になったので国土地理院の航空写真で古い写真を確認してみる。
その前にまずはグーグルマップで現在の様子を見てみる。
海に伸びる線路は2路線あるのが確認できる。


続いて戦後間もない昭和22年10月24日に米軍機によって撮影されたものだが、残念ながら無料版で見られる写真は不鮮明なために、海に伸びる線路までは確認できなかった。

線路が無いと言えば無いようにも見えるが・・・。
しかし港湾の様子を見ると現代とは大きくは変化していないようだ。
また複雑に入り込んだ宮戸島でコンクリートにより港湾が整備されているのは当時ではここだけのようだった。

 


続いて昭和50年10月25日に撮影されたものを見ると、線路がある場所に船舶が陸揚げされている様子がわかる。
また湾内には結構な船があり、陸上にも建物が数件見受けられる。
比較的新しい航空写真でも線路があるのがかろうじてわかる程度なので、昭和22年の航空写真で線路の有無を判断するのは難しいものがあるが、昭和20年に作られた線路が昭和50年にも現役で使われていたのかと思うと雲行きは怪しい。

これはあくまでも仮定に過ぎないが、奥松島宮戸島の入り込んだ複雑な海岸にはコンクリートで整備された漁港などは戦時中までは存在せず、特攻基地設置によって立派な港湾が整備され、戦後に地元の漁業関係者が漁港に転用した際に、漁船メンテナンスのためのスリップウェイを設置するも、自動車の往来がしにくい場所であったがために漁港は廃止され、スリップウェイだけが残されたと考えるのが正解なのかもしれない。


しかし少なくともトンネルと港湾、格納壕は特攻基地時代に作られたものであることは間違いなく、終戦から75年もの月日が流れた今、海に続く錆びた線路が特攻用のものと思われてもおかしくはなく、戦争時代を後世に正しく伝える事の難しさを感じた次第である。

(引用記事)
FNNプライムオンライン、wikiペディアより