皆さんこんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

次に整備するキハ58系急行は「だいせん」「いなわしろ・いわき」「アルプス」のどれかになりそうですが、まず最有力な急行「だいせん」について、ちょっと調べてみたいと思います。

 

1970年代後半から廃止となる1986年11月までの急行「だいせん」のうち、一番基幹となる浜田行きの「だいせん1号」を見てみたいと思います。

1970年代後半から、山陰地区の急行の縮小が行われる1985年3月ダイヤ改正の間の編成をモデルにします。

 

編成は

<キハ58+キハ28>+<キハ58+キロ28 2500+キハ58>以上浜田行き浜田区+<キハ58+キハ28>+キハ28>+キハ58>以上大社行き米子区+<キハ28+キハ58>以上豊岡止まり豊岡区

 

となっています。急行「赤倉」と同じように、キロ28 2500番台が指定席のキハ58の電源車となる編成です。ちなみに余談ですが伯備線の電化された1982年7月のダイヤ改正でグリーン車は浜田行きから米子止まりとなり編成中の位置が変わり、実車も米子に転属しています。

 

というように基本米子局の9両に豊岡担当の豊岡回転車2両という組み合わせです。ではこの急行を模型化するのに、いったい何次車のキハ58系を用意すればよいのかというのが問題になります。そこで米子局と福知山局のキハ58系製造次数分布を見てみたいと思います。ここで驚愕の事実が判明します。(ちょっと大げさですが) 調査年は、モデル化を想定している1978年10月と、廃止直前の1986年10月です。

 

まずは編成中9両を占める米子局の車です。

キハ58から見てみます。1978年10月では

 

↑模型ドンピシャの9・10次車は全体の19%おり、まずまずです。11次車は通風器が8個になったグループですが冷房化で撤去されているケースが大半なので、この11次車としても使えます。すると全体の33%となります。またモデルチェンジ車も模型化されていますので、単品で入手できる車両で十分編成を組むことができます。0番台冷房車は19%にとどまり、これが無くても問題ないでしょう。KATO・Tomixともに模型化の際はやはりこの山陰地区を睨んでのロット選定であったのでしょう。

 

グラフで見ると

↑赤丸で囲んだ平窓車と、紺色のモデルチェンジ車を合わせれば、米子配置車の半数近くを占めます。

 

ちなみに模型化の年代からは外れますが、福知山線電化により「だいせん」が廃止される直前の1986年10月時点では、

↑1982年7月の伯備線電化と1985年3月の山陰西部急行縮小により両数が3分の2ほどになっていますが、0番台と400番台前期車の減少が大きく模型単品で再現できる車両の割合はあまり変わりません。

 

↑0番台等比較的初期の車が減少しているのが分かります。

 

次はキハ28です。

まずは模型化する年代の1978年10月です。

↑キハ58より状況は芳しくありません。単品の模型に該当する9次車は4両しかおらず、全体の12%に過ぎません。変化をつけるため9次車を他のタイプにしようとすると、8次車以前であれば運転席側窓のバランサー点検蓋を埋めなければならず、10次車以降であれば給水口の位置を車体中央付近に移設しなければなりません。どちらもヘビーで全塗装を強いられます。すると、高岡色セットのキハ28を大量に買い込んで急行色に塗り戻すということになってしまいます。

 

↑灰色が模型に該当する9次車です。ちなみにキハ28のモデルチェンジ車はいません。よって9次車の4両から選ばざるを得なくなります。しかもモデルチェンジ車はいないので、これを使うこともできません。

 

次に廃止される直前の1986年10月時点では、

↑1985年3月のダイヤ改正で若番車から離脱・転属し、9次車は1両も残っていません。またモデルチェンジ車もいませんので、この単品の模型では末期の急行「だいせん」は再現できないという事になります…。

 

↑13次車(紺色)の残存率が高く、半数を占めています。また給水口が車体中央に寄った後期グループで大半を占められているのが分かります。しかもモデルチェンジ車はいません。

 

同じ地区でも、キハ28とキハ58で製造次数が同じ割合で分布するとは限りません。このあたりもキハ58系を調べてゆくと面白いポイントですよね。

 

では次に、福知山局を見てみたいと思います。急行「だいせん」に関しては豊岡回転車のキハ58・28 1両ずつしか使いませんのであまり調査の必要性はありませんが、米子局とは全く違った分布をしていて非常に興味深いのでご紹介します。

 

まずは模型の時代設定に相当する1978年10月のキハ58からですが…

↑なんと、模型単品に該当する9・10次車は1両しかいません。しかもこれは福知山配置の642番で、だいせん付属には使えません。というか0番台の多さに驚きです。その他400番台も前期車が多く、これだけで8割以上を占めています。福知山のこの時代の急行を再現するには、0番台車が必須になってくるでしょう。

 

↑先ほどの米子局と比べると、何か可哀そうになってくるような分布です。はっきり言うとオンボロの集まりという状態です。

 

これが、福知山線電化直前の1986年10月時点ですと

↑9・10次車は4両に増えており0番台も若干減り状況が改善しています。またモデルチェンジ車が大幅に増えています。これは、「60-3改正」で急行「きのくに」が廃止されて和歌山区の状態の良い車が大量に流れ込んだためです。そのため実際は0番台の一部は保留車になっていることと思われます。なお、この後「61-11改正」で福知山線電化により急行が大幅に削減された際は若番車が一気に整理され、JRには400番台の中期車以降が多く継承され、やっとまともな状態になりました。

 

 

↑400番台中期車やモデルチェンジ車が増え、0番台が押しやられた分布になっています。ちなみにこのあと「61-11改正」後はこの0番台車の大半が淘汰されまともな分布になっています。

 

次にキハ28を見てみましょう。まずは模型化の時代設定である1978年10月です。ヒサンですよ…

↑300番台は福知山にいた2441の1両しかいません。大半が0番台で占められています。模型単品に該当する9次車はもちろんいません。ただ、モデルチェンジ車が6両いますので、これを使えば何とかなりそうです。国鉄も福知山局は初期車ばかりなので奮発してモデルチェンジ車を投入したのでしょうか。ちなみに豊岡区に限ってみると、唯一両のモデルチェンジ車である3019を除き、他は全部0番台でした。

 

↑もはや分布にもなにもなっていません。あぁ、0番台とモデルチェンジ車が必要だね という事になります。

 

これが、福知山線電化直前の1986年10月時点ですと

↑山陰西部の急行が削減された「60-3改正」で米子局から2両の9次車(2394・2395)が転入しました。その他0番台の淘汰が進み1978年の約半数になっています。また電車化された和歌山から大量のモデルチェンジ車がなだれ込んでいます。

 

↑模型単品に該当する9次車が2両来ました。しかし300番台が少数派であることには変わりないようです。

 

いかがでしょうか? こう見ると米子局と福知山局で待遇がかなり違うことが分かると思います。これには種々の理由があり、考えられるのは…

 

1.新製当時まず0番台から製造され、その後長大編成対応車が増備されたため、長大編成を組む急行を担当していた区所には優先的にキハ58 400番台・キハ28 300番台が増備されました。当初は長大編成対応車と0番台は運用が分かれていたくらいです。(そのための番台区分ということも言えますが) そして区によっては従来いた0番台は全部他区へ転属するというケースもありました。(急行アルプス担当の松本区など) その後0番台車にも長大編成対応工事が施工され運用上の区別は無くなりましたが、新製時の番台区分の配置区所毎のバラツキはそのまま後まで残ってしまいました。

 

2.キハ55系を主に使っていた準急の格上げに関するものです。キハ58系が新製された当初はもちろん当時の急行列車に優先的に充当され、準急は従来通りキハ55のままというケースが多く見られました。その後1966年3月に走行距離100km以上の準急は急行へ格上げされ、「ヨンサントオ改正」で準急は廃止され急行に統合されました。しかし1968年以降は急行型気動車の増備は終了し全ての元準急の急行列車の置き換えまでは至りませんでした。そのため主に短距離急行を担当していた区所では引き続きキハ55系が急行に使用されるというケースが多々ありました。1970年代後半に入り急行の特急格上げによりキハ58系に余剰が出始めると、真っ先にこういったキハ55系が急行用として残っている区所へ転用されました。しかし余剰車を転用する場合、その区所にいる若番車から他区へ転出するケースが多く、受け入れ側では0番台車ばかりが転入するという事態になります。新しくて状態の良い車をなかなか手放さないですよね。でも受け入れ側でも、「キハ55よりはマシか」ということで使うことになります。そのため、上記1とも関連しますが、準急が存在した時代から「急行」を多く受け持っていた区では中後期車の配置が多く、元々「準急」を多く受け持っていた区では0番台が多いという傾向があります。

 

しかしキハ58系の増備は1961年から1968年までの8年弱という短い期間でしたので、0番台だとか400番台中期車だとか言っても、経年の差は2~3年しかありません。国鉄がJR化される頃には全部ボロというような状況でしたが、「普通列車への転用」という天職を与えられてしまったため、思いのほか存命しましたね。

 

いろいろな理由や事象があったにせよ、この米子局と福知山局の待遇の差は面白いものがありました。ということで、次模型化する予定の急行「だいせん」はどのような編成にしようかな。皆様お楽しみに!!

 

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