cho-kai-san811のブログ

連れ合いを失った老人のたわごとです。心機一転何らかの生きがいを見つけて前向きに生きたいと思っています。

終戦前後の思い出ー1

終戦時私は5歳、宮城県仙台市で祖父母に育てられていた。父は千葉県で航空機のエンジン製造工場に勤務しており、父母と妹弟は千葉市検見川の会社の社宅に住んでいた。祖父は鉄道省仙台駅の保線区に勤務し戦時の鉄道網確保の責務を担っていた。父の弟は独身20代半ばで徴兵されて南方に派遣されていたが、終戦の前年に戦死公報が入った。祖母の悲しみは尋常ではなかった。父は二人兄弟であった。記憶に残っている強烈な光景は、仙台市が爆撃されたときの光景である。仙台駅の南はずれにある鉄道官舎に住んでいたが夜になり空襲警報が発令され、祖母と一緒に庭に掘った防空壕に入っていた時に、直ぐ近くの専売公社工場に最初の爆弾が投下された。すごい地響きの連続で、祖母は50歳代であったが私の手を引いて爆弾が降るなか少し離れた寺院に避難した。爆撃機が狙った目標は、仙台駅構内に建設された機関車の掩体壕であったと思われる。それが外れて専売公社の工場に落下したのだと思う。他日の2回目の爆撃の時は、掩体壕の直近に着弾し機関車も被害を受けた。子供ながらに爆撃された後を見に行ったところ、爆弾の不発弾が転がっていた。祖父に話したら怒られた。子供は機関車の掩体壕に近寄ってはならない、と。米軍は仙台爆撃の前に高空から偵察を行い、爆撃目標を決定していたと思われる。機関車を目標とする爆弾以外は焼夷弾で市街地を焼き払った。その後、祖母と私は終戦まで福島県の田舎にある祖母の実家に疎開した。終戦の知らせは、終戦の翌日に祖母の実家で聞いた。