2020夏・青春18きっぷ(3回目)明智光秀ゆかりの地・福知山城へ | ウォーリーのブログ

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8月9日(日)。福知山線・藍本駅近くの撮影地で、289系ラッピング列車を撮影した後、再び、福知山線で、福知山駅へと向い、明智光秀が築いた、福知山城へ。

福知山城は、駅から15分程歩いた所に有ります。

福知山城は、室町時代、小笠原長清の末裔とされる、国人福知山地方の塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われ、塩見頼勝は、後に姓を横山に改め、更に城主は、息子である塩見信房へと代替わりし、城名も横山城と成りました。

畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じ、秀吉は山陽道から進軍したのに対し、光秀は山陰道側より入り、丹波国を平定した光秀が、福智山城と改名、近世城郭へと修築し、女婿の明智秀満を城主としました。

 

天正10年(1582年)6月、本能寺の変となり、秀満は武功を立てたが、本能寺の変後は、秀満の父が、福智山城が留守居役となっていたらしく、豊臣秀吉軍が押し掛け、秀満の父を捕らえ、京に連行し同年7月2日に処刑され、光秀は山崎の戦いで敗北した後に殺害されました。明智光秀の在城期間は3年間だけであった。

(説明:Wikipediaより抜粋)

 

「本能寺の変」後は、羽柴秀長を始めとした城主を迎え、改修と増築が進められ、江戸時代の有馬豊氏が城主の時期には、略、完成したと考えられます。

由良川に対して伸びる、丘陵を中心に築城された平山城で、城郭及び、城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した「惣構え」の城として完成しました。

江戸時代以降、転封や改易により城主が頻繁に変りましたが、寛文9年(1669)に朽木種昌が常陸国土浦から入部して以降は、明治維新に到るまで朽木氏13代にわたり藩主を務めました。

明治6年(1873)の廃城令により天守周辺の石垣や銅門を残して、大半が失われましたが、昭和に入り、市のシンボルとして、城再建の機運が高まり、市民による「瓦一枚運動」等もあり、有馬豊氏から松平忠房の頃の絵図資料を参考にした、三層四階の望楼型の大天守と二層の小天守が昭和61(1986)に再建整備されて、現在に到っています。

(説明:福知山城パンフレットより)

小天守の向こう側に見えるのが、明智光秀が水害対策で造った明智藪と音無橋

中央部の、緑が目立つ丘が愛宕山、愛宕神社 前田愛宕城 手前は明智藪

右側は、土師川を渡る、山陰本線

土師川を渡って、福知山駅へ向う、特急「きのさき」5号・城崎温泉行き

福知山光秀ミュージアム NHK大河ドラマ「麒麟がくる」、ドラマ企画展をはじめ、最新の調査研究に基づいた、新たな視点で、ドラマの時代考証、「明智光秀の生涯と丹波・福知山」に関する展示で、福知山ならではの明智光秀像を発信しています。

 

光秀の出生から、若き日を過ごした美濃時代に始まり、越前での浪人時代、歴史的資料に登場する、織田信長と足利義昭の両属時代、そして信長時代から、本能寺の変までを、時代を追って展示されています。

 

私が一番、興味を持ったのは、やはり、本能寺の変。「明智光秀は、なぜ本能寺で主君・織田信長を討ったのか?」

光秀怨恨説 信長非道説(暴君討伐説) 光秀野望説 朝廷黒幕説 長宗我部元親関与説 足利義昭黒幕説 斉藤利三実行犯説 イエズス会黒幕説 堺商人黒幕説 複数実行犯・複数黒幕説・・・。10説が紹介されています。

 

信長非道説(暴君討伐説)信長は気性が激しく、激情する事が多く、天下統一を目指す過程で、数々の残虐な行為を行った。

比叡山の焼き討ちでは仏に仕える僧侶はもとより女子供なども容赦なく殺し、一向一揆

では農民など数万を惨殺した。又、敗れて自刃した、武田勝頼の首を足蹴にしたり、近江六角氏の残党をかくまった恵林寺の僧侶を山門とともに焼き殺した。義に反する事を平気で行う、信長に対して不信感をもった、光秀は、あまりの非道を許す事が出来ず、正義の為に信長を討った・・・。

 

本能寺の変は、日本歴史上、謎の多いクーデターだと思います。諸侯の前で度重なる、いじめを受け、武士の面目を潰された、光秀が、其の恨みから(光秀怨恨説)、信長の非道、暴走を止める為に、正義の為に信長を討ったと・・・。私はそう思います。

主君を裏切った悪者と思うより、丹波国を平定して、福知山の人達の為に尽くした良い殿様だったと思いたいです。

(福知山光秀ミュージアム内は、撮影禁止の為、画像は無く、文書のみの説明)

(諸説の解説 福知山光秀プロジェクト推進協議会作成のパンフレットから)