JTB時刻表復刻版の1988年3月号が先月発売されたので、私も購入してみました。
時刻表完全復刻版 1988年3月号 (JTBのMOOK)
この1988年3月号は「青函トンネル(津軽海峡線)」「瀬戸大橋(瀬戸大橋線(本四備讃線))」が相次いで開業し、文字通り日本列島が1本のレールで繋がった、記念すべき時刻表でありました。
そのような新規開業路線がある一方で、国鉄の分割民営化(1987年4月)後まだ1年も経っておらず、随所に国鉄時代の名残を残している、そんな時代の時刻表でありました。
当時の鉄道以外の状況に目を向けてみますと、時はバブル経済の真っ直中で、輸送需要の拡大が続いていましたが、その一方、空港や高速道路といった鉄道以外の交通インフラが、現在の水準に比べてまだ未発達な地方も多く、それだけまだ中・長距離輸送において鉄道がカバーすべき領域が多かった時代であり、その輸送需要をさばくべく、鉄道側で苦心していた跡もみられる、といったそんな時代の記録でもありました。
前置きがながくなりましたが、1988年3月ダイヤ改正当時の時刻表の一部をご紹介し、当時の状況を考察しながらみていきたいと思います。
(※)以降の画像は「JTB時刻表完全復刻版1988年3月号」からの引用、囲みは管理人によります。
「時刻表完全復刻版1988年3月号」が発売されて最初の週末。青函トンネル&瀬戸大橋が開業した時代にタイムトリップして、妄想旅行に出かけましょう!https://t.co/draXSu0wlV pic.twitter.com/BKXyFWdg3X
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時刻表完全復刻版 1988年3月号 (JTBのMOOK)
この1988年3月号は「青函トンネル(津軽海峡線)」「瀬戸大橋(瀬戸大橋線(本四備讃線))」が相次いで開業し、文字通り日本列島が1本のレールで繋がった、記念すべき時刻表でありました。
そのような新規開業路線がある一方で、国鉄の分割民営化(1987年4月)後まだ1年も経っておらず、随所に国鉄時代の名残を残している、そんな時代の時刻表でありました。
当時の鉄道以外の状況に目を向けてみますと、時はバブル経済の真っ直中で、輸送需要の拡大が続いていましたが、その一方、空港や高速道路といった鉄道以外の交通インフラが、現在の水準に比べてまだ未発達な地方も多く、それだけまだ中・長距離輸送において鉄道がカバーすべき領域が多かった時代であり、その輸送需要をさばくべく、鉄道側で苦心していた跡もみられる、といったそんな時代の記録でもありました。
前置きがながくなりましたが、1988年3月ダイヤ改正当時の時刻表の一部をご紹介し、当時の状況を考察しながらみていきたいと思います。
(※)以降の画像は「JTB時刻表完全復刻版1988年3月号」からの引用、囲みは管理人によります。
●青函トンネル(津軽海峡線)
この時のダイヤ改正の二大プロジェクトのうちの一つ、青函トンネル開業当時の津軽海峡線の時刻表です。
赤囲みの「北斗星」「日本海」といった寝台特急が目を惹きますが、それに加え青函間輸送としては快速「海峡」が定期8往復、臨時1往復が設定されていました。
青函トンネル開業時のブームで、この快速「海峡」も増結につぐ増結で、長大編成を連ねて運行されていたのを記憶されている方も多いかと思われます。
黄色囲みの急行「はまなす」も、このダイヤ改正で運行開始しましたが、当時は指定席・自由席のみの編成でしたが、後に寝台車やカーペットカー、ドリーム-カーが連結されるようになりました。
●瀬戸大橋線(本四備讃線)
かたやもう一つのプロジェクトとなったのが瀬戸大橋線。
赤囲みが瀬戸大橋線で、予讃本線(現・予讃線)のページの下に配置されていました。
当時は、快速「マリンライナー」が1時間間隔で運転されていたほか、特急列車も「しおかぜ」5往復、「南風」3往復、「うずしお」1往復と、現在の「しおかぜ」「南風」各1時間間隔からみれば、実にささやかなものであったことが分かります。
時刻表上の列車の並びをみてみますと、瀬戸大橋線と予讃本線で統一されておらず、下り場面の場合、瀬戸大橋線が上に来る方が自然で、また列車の掲載列も両路線で調整されていませんでした。(例・南風3号、しおかぜ5号)
このあたりが調整され、現在のように、「下り場面で瀬戸大橋線が上」「瀬戸大橋線と予讃本線で列車の並びを調整する」のは、1988年5月号からとのことでした。
ところで、瀬戸大橋線が開業したのは1988年の4月10日で、それまで(3月13日〜4月9日)の宇野線及びJR四国各線の時刻表は、黄色のページに掲載されていました。
赤枠部分のとおり、宇野線及び宇高連絡船が掲載されていました。
改正後に快速「マリンライナー」として運用される213系は、「備讃ライナー」として運用されていました。
また、瀬戸大橋線は、茶屋町〜児島間が3月20日に先行開業しており、その時刻変更も掲載されているのがわかります。
一方、下段の四国内の時刻表をみてみると、急行「あしずり」が2本、ほぼ2時間間隔で設定されていました。
当時の土讃本線(現・土讃線)では、特急「南風」は4往復のみで、「土佐」「あしずり」といった急行列車が幅をきかせていました。
この4月10日のダイヤ改正では、瀬戸大橋線の開業に加え、高徳本線(現・高徳線)の急行「阿波」が特急「うずしお」に置き換えられる等の、大々的な改正が行われました。
こと「青函トンネル」「瀬戸大橋」の二大プロジェクトに象徴されるこの1988年3月及び4月のダイヤ改正ですが、改正の規模でいえば、瀬戸大橋線の絡んだJR四国の方が、より大規模な改正だったのではないのでしょうか。
ダイヤ改正での変化が象徴的だった、高徳本線の例を引用してみます。
・改正前
・改正後
この改正時に「阿波」と改称された牟岐線直通の急行列車も、およそ2年後に特急「うずしお」に統合され、現在は特急「むろと」として運行されています。
●当時まだ多数あった臨時夜行急行列車の一例
2008年3月ダイヤ改正まで運行された寝台急行「銀河」(赤枠)がありますが、注目は青枠の臨時急行「銀河」であります。
定期「銀河」に加えて、以下の臨時「銀河」が設定されていました。
現在ではにわかに信じられない話かも知れませんが、当時は東京〜大阪間を結ぶ夜行高速バスは、JRバス「ドリーム号」(名古屋・京都・大阪各1往復)のみしかありませんでした。
そのため、「東京を夜に出て、翌朝に大阪に到着する」(あるいはその逆)というニーズに対応する公共交通機関が非常に限られていました。
春休みやゴールデンウィークといった繁忙期になると、定期「銀河」だけでは需要をさばくことができず、また、当時はバブル経済真っ直中の好景気であった、ということもあり、上述のとおり全車両指定席の「銀河」が運行されていたものと考えられます。
運行日をみても、大阪に10時前に到着する「銀河83号」はともかく、8時前に到着する「銀河81号」はそれなりに多い運転日が設定されていたことからも、そういった当時の状況をうかがうことができるのではないのでしょうか。
東京〜大阪間に、数多くの夜行高速バスが運行されるようになるのは、この改正後しばらくしてからのことでありますので、これまた貴重な記録であるといえます。
●伊丹空港しか無かった時代、そして大阪発着の北米・欧州路線の多くが経由便だった時代
ここまでは国内の鉄道路線をみてきました、少し視点を変えて、国際線航空ダイヤを見てみます。
大阪発の北米、欧州路線の一部です。
当時の「大阪空港」は、今の「伊丹空港」でありました。
伊丹空港の航空需要の高まりから、泉州沖に建設中だった関西新空港が開港するのは、この時刻表が発行されてから、6年半の後の1994年9月となります。
それまでの間、国内線・国際線双方を伊丹空港のみで旅客をさばいていたわけですから、相当逼迫していたことがわかります。
ここで注目してみたのは、国際線の大阪空港発着便の一部です。
上述の引用画像で示したのは、大阪発着の北米・欧州路線です。
注目は赤囲みの部分で、ここは、経由地が記されているのですが、ほとんどの路線で目的地までにどこかの空港を経由していることがわかります。
このように、大阪発着の北米・欧州路線では、ほとんどの便で成田空港を経由していた上に、欧州路線では更にアンカレッジを経由することとなっていました。
そのため、所要時間も特に欧州路線では大阪から20時間程度と、現在の10時間程度からみると、はるかに長い旅路だったことが分かります。
当時は、ソ連(現・ロシア)のシベリア上空を経由することが難しいことから、その次に距離が短いアンカレッジ経由の「北回り」が、日本と欧州を結ぶ路線では主流でありました。(他に、アジア各地を経由する「南回り」がありました。)
その後、シベリア上空を経由するルートが一般的になるは、この翌年以降で、アンカレッジ経由便は順次直行便に切り替わっていき、これほどまでに経由地に「ANC」が並ぶ時刻表は目にすることはなくなりましたが、そういった当時の国際事情も、この時刻表から垣間見えるのも面白いところです。
●表紙と裏表紙・・・裏表紙にはあの証券会社が
最後に表紙と裏表紙です。
この「復刻版」は、カバーを外すと当時の表紙が再現されています。
左側が「復刻版1988年3月号」の表紙、右側はそれから30年後の「2018年3月号」の表紙です。
見て分かるとおり、青函トンネル30周年記念ということで、同じ構図で、トンネルを出てくる列車の写真が表紙となっています。
この30年間に、旅客列車は在来線から新幹線に代わりましたが、津軽海峡を結ぶ使命を果たしていることが、この2枚の表紙からも分かります。
そして復刻版の裏表紙はこちらです。
裏表紙に広告を掲載していたのは、「山一證券」(当時)でありました。
「山一證券」(当時)という証券会社は、バブル崩壊後の損失に関する不正会計処理などを原因として、1997年(平成9年)に自主廃業することとなりました。
「社員は悪くありませんから」と、当時の野澤社長が号泣しながら頭を下げたシーンは、いわゆる「バブル崩壊」を象徴するシーンとして、「平成」という時代を振り返る際に、必ずと言っていいほど取り上げられるシーンであります。
しかし、この広告が出稿されていた当時は、バブル絶頂期で、山一證券も高い利益を上げていたものと思われます。
当時は今のような路線・時刻検索サービスというものがあるはずがなく(インターネットのサービス自体ありませんでした)、現在とは比べものにならないくらい、時刻表の「情報誌」としての価値は高かったと考えられます。
そんな時刻表の裏表紙でありますから、広告料も相当高かったことは容易に推測されますが、そこに「山一證券」が出稿していた、という事実一つからも、この当時がバブルの絶頂期であったことを物語る、一つの記録といえるでしょう。
(参考)
上述のとおり、1997年に自主廃業した山一證券(当時)ですが、その後、その商標権を継承した新しい法人として「山一證券」(現在)が2005年に設立され、現在も引き続き証券業務を行っているとのことです。
山一證券−完全独立系のブティック型M&Aアドバイザリー・ファーム
以上のように、JTB時刻表復刻版1988年3月号をご紹介しました。
「青函トンネル」「瀬戸大橋」が相次いで開業し、日本の鉄道路線が一本に結ばれ、まさに「新たな鉄道の時代」の幕が開ける、そんな元気な時期の時刻表であったかと思います。
各ページの時刻表を眺めるだけでも、そういった当時の各路線の様子が思い浮かぶようでありますが、上記に記した以外にも、様々な点で現在との比較ができるかと思われますので、是非とも本書を実際に手にして、そういった当時の様子を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。
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この時のダイヤ改正の二大プロジェクトのうちの一つ、青函トンネル開業当時の津軽海峡線の時刻表です。
赤囲みの「北斗星」「日本海」といった寝台特急が目を惹きますが、それに加え青函間輸送としては快速「海峡」が定期8往復、臨時1往復が設定されていました。
青函トンネル開業時のブームで、この快速「海峡」も増結につぐ増結で、長大編成を連ねて運行されていたのを記憶されている方も多いかと思われます。
黄色囲みの急行「はまなす」も、このダイヤ改正で運行開始しましたが、当時は指定席・自由席のみの編成でしたが、後に寝台車やカーペットカー、ドリーム-カーが連結されるようになりました。
●瀬戸大橋線(本四備讃線)
かたやもう一つのプロジェクトとなったのが瀬戸大橋線。
赤囲みが瀬戸大橋線で、予讃本線(現・予讃線)のページの下に配置されていました。
当時は、快速「マリンライナー」が1時間間隔で運転されていたほか、特急列車も「しおかぜ」5往復、「南風」3往復、「うずしお」1往復と、現在の「しおかぜ」「南風」各1時間間隔からみれば、実にささやかなものであったことが分かります。
時刻表上の列車の並びをみてみますと、瀬戸大橋線と予讃本線で統一されておらず、下り場面の場合、瀬戸大橋線が上に来る方が自然で、また列車の掲載列も両路線で調整されていませんでした。(例・南風3号、しおかぜ5号)
このあたりが調整され、現在のように、「下り場面で瀬戸大橋線が上」「瀬戸大橋線と予讃本線で列車の並びを調整する」のは、1988年5月号からとのことでした。
ところで、瀬戸大橋線が開業したのは1988年の4月10日で、それまで(3月13日〜4月9日)の宇野線及びJR四国各線の時刻表は、黄色のページに掲載されていました。
黄色のページに掲載された四国地区(宇野線・宇高連絡船含む)の4月10日までの時刻表。
赤枠部分のとおり、宇野線及び宇高連絡船が掲載されていました。
改正後に快速「マリンライナー」として運用される213系は、「備讃ライナー」として運用されていました。
また、瀬戸大橋線は、茶屋町〜児島間が3月20日に先行開業しており、その時刻変更も掲載されているのがわかります。
一方、下段の四国内の時刻表をみてみると、急行「あしずり」が2本、ほぼ2時間間隔で設定されていました。
当時の土讃本線(現・土讃線)では、特急「南風」は4往復のみで、「土佐」「あしずり」といった急行列車が幅をきかせていました。
この4月10日のダイヤ改正では、瀬戸大橋線の開業に加え、高徳本線(現・高徳線)の急行「阿波」が特急「うずしお」に置き換えられる等の、大々的な改正が行われました。
こと「青函トンネル」「瀬戸大橋」の二大プロジェクトに象徴されるこの1988年3月及び4月のダイヤ改正ですが、改正の規模でいえば、瀬戸大橋線の絡んだJR四国の方が、より大規模な改正だったのではないのでしょうか。
ダイヤ改正での変化が象徴的だった、高徳本線の例を引用してみます。
・改正前
改正前の高徳本線には、赤枠のように急行「阿波」(高松〜徳島)、「むろと」(高松〜徳島〜牟岐)併せて1時間に1本程度運行されていました。
・改正後
改正後は、従前の急行「阿波」が特急「うずしお」に置き換えられた一方、急行「むろと」は急行「阿波」と改称の上、存続することとなりました。
この改正時に「阿波」と改称された牟岐線直通の急行列車も、およそ2年後に特急「うずしお」に統合され、現在は特急「むろと」として運行されています。
●当時まだ多数あった臨時夜行急行列車の一例
東海道本線下り、遅い時間の時刻表です。
2008年3月ダイヤ改正まで運行された寝台急行「銀河」(赤枠)がありますが、注目は青枠の臨時急行「銀河」であります。
定期「銀河」に加えて、以下の臨時「銀河」が設定されていました。
・銀河81号:
東京23:10発→大阪7:59着
東京発3月18日・19日・25日〜4月2日・28日〜5月6日運転
・銀河83号:
東京23:59発→大阪9:41着
東京発3月18日・19日・4月29日〜5月3日運転
現在ではにわかに信じられない話かも知れませんが、当時は東京〜大阪間を結ぶ夜行高速バスは、JRバス「ドリーム号」(名古屋・京都・大阪各1往復)のみしかありませんでした。
そのため、「東京を夜に出て、翌朝に大阪に到着する」(あるいはその逆)というニーズに対応する公共交通機関が非常に限られていました。
春休みやゴールデンウィークといった繁忙期になると、定期「銀河」だけでは需要をさばくことができず、また、当時はバブル経済真っ直中の好景気であった、ということもあり、上述のとおり全車両指定席の「銀河」が運行されていたものと考えられます。
運行日をみても、大阪に10時前に到着する「銀河83号」はともかく、8時前に到着する「銀河81号」はそれなりに多い運転日が設定されていたことからも、そういった当時の状況をうかがうことができるのではないのでしょうか。
東京〜大阪間に、数多くの夜行高速バスが運行されるようになるのは、この改正後しばらくしてからのことでありますので、これまた貴重な記録であるといえます。
●伊丹空港しか無かった時代、そして大阪発着の北米・欧州路線の多くが経由便だった時代
ここまでは国内の鉄道路線をみてきました、少し視点を変えて、国際線航空ダイヤを見てみます。
大阪発の北米、欧州路線の一部です。
当時の「大阪空港」は、今の「伊丹空港」でありました。
伊丹空港の航空需要の高まりから、泉州沖に建設中だった関西新空港が開港するのは、この時刻表が発行されてから、6年半の後の1994年9月となります。
それまでの間、国内線・国際線双方を伊丹空港のみで旅客をさばいていたわけですから、相当逼迫していたことがわかります。
ここで注目してみたのは、国際線の大阪空港発着便の一部です。
上述の引用画像で示したのは、大阪発着の北米・欧州路線です。
注目は赤囲みの部分で、ここは、経由地が記されているのですが、ほとんどの路線で目的地までにどこかの空港を経由していることがわかります。
・大阪→ロンドン
日本航空(JL)・英国航空(BA)・・・成田(NRT)・アンカレッジ(ANC)
・大阪→パリ
エールフランス(AF)・・・成田(NRT)・アンカレッジ(ANC)
日本航空(JL)・・・成田(NRT)・アンカレッジ(ANC)、曜日によりロンドン(LON)またはデュッセルドルフ(DUS)
大韓航空(KE)・・・ソウル(SEL)・アンカレッジ(ANC)
・大阪→チューリッヒ
日本航空(JL)・・・成田(NRT)・アンカレッジ(ANC)・パリ(PAR)
大韓航空(KE)・・・ソウル(SEL)・バーレーン(BAH)・ジェッダ(JED)
・大阪→ロサンゼルス
ノースウエスト航空(NW)・・・成田(NRT)
ユナイテッド航空(UA)・・・サンフランシスコ(SFO)
・大阪→サンフランシスコ
ユナイテッド航空(UA)・・・ノンストップ
このように、大阪発着の北米・欧州路線では、ほとんどの便で成田空港を経由していた上に、欧州路線では更にアンカレッジを経由することとなっていました。
そのため、所要時間も特に欧州路線では大阪から20時間程度と、現在の10時間程度からみると、はるかに長い旅路だったことが分かります。
当時は、ソ連(現・ロシア)のシベリア上空を経由することが難しいことから、その次に距離が短いアンカレッジ経由の「北回り」が、日本と欧州を結ぶ路線では主流でありました。(他に、アジア各地を経由する「南回り」がありました。)
その後、シベリア上空を経由するルートが一般的になるは、この翌年以降で、アンカレッジ経由便は順次直行便に切り替わっていき、これほどまでに経由地に「ANC」が並ぶ時刻表は目にすることはなくなりましたが、そういった当時の国際事情も、この時刻表から垣間見えるのも面白いところです。
●表紙と裏表紙・・・裏表紙にはあの証券会社が
最後に表紙と裏表紙です。
この「復刻版」は、カバーを外すと当時の表紙が再現されています。
左側が「復刻版1988年3月号」の表紙、右側はそれから30年後の「2018年3月号」の表紙です。
見て分かるとおり、青函トンネル30周年記念ということで、同じ構図で、トンネルを出てくる列車の写真が表紙となっています。
この30年間に、旅客列車は在来線から新幹線に代わりましたが、津軽海峡を結ぶ使命を果たしていることが、この2枚の表紙からも分かります。
そして復刻版の裏表紙はこちらです。
裏表紙に広告を掲載していたのは、「山一證券」(当時)でありました。
「山一證券」(当時)という証券会社は、バブル崩壊後の損失に関する不正会計処理などを原因として、1997年(平成9年)に自主廃業することとなりました。
「社員は悪くありませんから」と、当時の野澤社長が号泣しながら頭を下げたシーンは、いわゆる「バブル崩壊」を象徴するシーンとして、「平成」という時代を振り返る際に、必ずと言っていいほど取り上げられるシーンであります。
しかし、この広告が出稿されていた当時は、バブル絶頂期で、山一證券も高い利益を上げていたものと思われます。
当時は今のような路線・時刻検索サービスというものがあるはずがなく(インターネットのサービス自体ありませんでした)、現在とは比べものにならないくらい、時刻表の「情報誌」としての価値は高かったと考えられます。
そんな時刻表の裏表紙でありますから、広告料も相当高かったことは容易に推測されますが、そこに「山一證券」が出稿していた、という事実一つからも、この当時がバブルの絶頂期であったことを物語る、一つの記録といえるでしょう。
(参考)
上述のとおり、1997年に自主廃業した山一證券(当時)ですが、その後、その商標権を継承した新しい法人として「山一證券」(現在)が2005年に設立され、現在も引き続き証券業務を行っているとのことです。
山一證券−完全独立系のブティック型M&Aアドバイザリー・ファーム
以上のように、JTB時刻表復刻版1988年3月号をご紹介しました。
「青函トンネル」「瀬戸大橋」が相次いで開業し、日本の鉄道路線が一本に結ばれ、まさに「新たな鉄道の時代」の幕が開ける、そんな元気な時期の時刻表であったかと思います。
各ページの時刻表を眺めるだけでも、そういった当時の各路線の様子が思い浮かぶようでありますが、上記に記した以外にも、様々な点で現在との比較ができるかと思われますので、是非とも本書を実際に手にして、そういった当時の様子を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。
●関連ブログ:
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