旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

海峡下の電機の系譜【Ⅴ】 北の要衝・津軽海峡を貫く青函トンネル(3)

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6.青函トンネル前史

6-4 日本最大の海難事故・洞爺丸台風の悲劇

 戦後の復興とともに、青函連絡船の役割はますます重要なものへとなっていきました。

 旅客・貨物ともに需要も増加の一途を続け、これを捌くための船は必要でしたが、なにしろ戦争末期に受けた空襲によって、12隻中10隻が沈没して壊滅的な打撃を受けたため、思うようにいかないのが現状でした。

 廃止になった関釜連絡船や稚拍連絡船からやって来た船を加え、さらに三隻の新造船も加えてなんとか輸送力を確保はしたものの、転属船はそれぞれの航路に適した構造だったことで、青函連絡船の特性には合っていたかというと、それは疑問の余地が残るといっていいでしょう。

 青函連絡船が特に欲していたのは車両航送ができる構造をもつ船で、これには三隻の新造船と戦争を生き延びた二隻の車両渡船で賄っていました。とはいえ、旅客輸送もまた需要が増していたので、こちらにも対応が迫られていました。

 こうした状況の中、車両渡船のデッキに乗客を収容できる構造物を増設しました。いわゆる「デッキハウス」とよばれるもので、第七、第八、第十一、第十二青函丸にこの改造を施します。

 また、戦後に浮揚して修理が行われて復帰した第六青函丸にも、このデッキハウスが増設されて、なんとか旅客の輸送力を確保していたのでした。

 しかし、こうした状況をいつまでも続けているわけにはいかず、特に戦時標準船として建造された船は、資材を節約して工作を簡易にしたことに加え、戦争中の酷使により老朽化も進んでいたことから、新造船が望まれるようになります。

 こうした状況を踏まえ、国鉄GHQから新型の車両渡船4隻と車載客船4隻の建造許可を得ます。

 

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▲戦後に建造された車載客船・洞爺丸。戦前に建造された車載客船・翔鳳丸の設計を基にしているが、船体形状H型戦時標準船のものを流用していた。それでも、戦後復興の要と期待されていたが、後に日本の海難史上最悪の悲劇を襲う。(Not stated / Public domain Wikipediaより引用)

 

 新造船として華々しくデビューした8隻の船、特に車載客船である洞爺丸型は、戦前の翔鳳丸と同様に上等船客向けには寝台と浴室を備えた特別船室をはじめ、一等喫煙室など外航客船と同様の設備を備え、さらに等級にかかわらず広々とした空間と大きな窓を備えたことで明るい船室となっていました。

 青函連絡船は新造船を加えて一気に14隻体制になり、戦前のそれを超える陣容となって、戦後の復興に向けた輸送をはじめました。

 そのような中で、車両航送も従来の貨車だでけではなく、乗客を乗せた客車をも載せて航送をするようになります。特に連合国軍に接収された寝台車などでしたが、やがてそれには日本人も乗ることが可能になりますが、それを利用できるのは一等寝台車に乗車できるごくごく一部の人たちだけで、多くは一般の船室を利用していました。

 戦後の復興も加速を続け、青函連絡船の利用者も増加をし続けていました。そのような中、1954年に青函連絡船を再び悲劇が襲いかかります。

 昭和29年台風第15号、いわゆる「洞爺丸台風」が青函連絡船を襲ったのでした。この台風は中心の最低気圧が956hPa(当時の単位はmb)と非常に強く、そして日本列島に接近したときには110km/hの速さで移動するという特異なものでした。そして台風は、九州を縦走した後、中国地方から日本海に抜けて北東方向に進んでいきます。

 ところが、通常の台風であれば北へ進むほど海水温が低くなるので、その勢力は衰えていくものですが、この台風ばかりはそうはいきませんでした。そして、北海道西岸に達したときに最盛期となり、中心気圧も最も低い956hPaとなり、さらに110km/hの速さで進んでいたのがここに来てスピードを落とし、40km/h以下にまでなったこと、20m/s以上の暴風域があったことで、北海道各地に大きな被害をもたらしたのでした。

 この台風によって、津軽海峡も大きな被害を受けることになります。

 特に青函連絡船は、鉄道との連絡輸送を担っているため、数多くの便が運航されていました。しかしこの台風では晴れ間が見えたことで、「台風の目」に入ったと思い込んでしまったことから被害を大きくしてしまったのでした。

 戦後の新造船である洞爺丸はその最大の犠牲を出してしまいます。ただでさえ、この日は台風の接近による混乱で出航が遅れ、本来は14時40分出航の予定が大幅に遅れてしまい、18時39分に出航しました。しかし、出航し函館港外にでると間もなく猛烈な風が洞爺丸に襲いかかってきました。

 当然ですが、海面は大荒れに荒れて船はまともに航行できなくなります。やむなく港外で投錨して仮泊し、暴風をやり過ごそうとしますが、荒れる海面は船尾にある車両搭載口から海水が浸入し、やがてそれは洞爺丸の排水能力を超えるものとなってしまいます。

また、この浸水が車両甲板の下にある機関室にまで達してしまいます。洞爺丸は石炭を燃料とする石炭炊きボイラーによる蒸気タービン駆動だったので、機関室では機関員たちが燃料である石炭をくべていたのでした。
 そこへ海水が浸水してくれば、当然ですがこうした作業もできなくなり、何より石炭ボイラーの火が消えてしまい、航行できないどころか電源の供給すらできなくなります。

 電源の供給が絶たれた洞爺丸は、浸入する海水を排水する術を失ってしまいました。こうした後、洞爺丸は函館近傍の七重浜座礁させましたが、座礁の仕方に問題があったために強風にあおられ転覆、ついに沈没してしまいました。

 この時、洞爺丸は乗客を乗せた営業航海中の船でした。洞爺丸には乗員乗客1.337人が乗っていましたが、このうち1,155人が死亡または行方不明という、日本で最大の、世界的にみてもタイタニック号に次ぐ海難事故になってしまったのでした。

 また、この台風では洞爺丸だけではなく、青函連絡船の多くの船が被害を受け、多くの犠牲者を出してしまいました。洞爺丸以外には4隻の船舶が沈没するなどしましたが、これらは乗客を乗せずに港外へ避難したために遭難したものでした。とはいえ、乗員の多くが犠牲となり、これをあわせると犠牲者は1430人になり、一夜にして4隻が沈没、尊い命が失われてしまったのでした。

 この洞爺丸事故は、日本中を震撼させただけでなく、世界中からも驚かれたといいます。特に洞爺丸の犠牲者は、当時としては戦争中を除いてタイタニック号に次ぐ犠牲者の数だったこともあったといえるでしょう。

 これを契機に、国内では船舶による鉄道連絡輸送から、トンネルまたは橋梁による輸送へと転換していくことの重要性が認識されるようになりました。

 特に、船舶は天候に左右されやすく、安定した輸送が難しい側面があること、さらにはこのような事故が再び起きれば多くの犠牲を出しかねないなど、安全性にも課題があるといえるでしょう。そうした意味において、鉄道連絡船から鉄道を直結させてこれを代えていくいう考えは、ごくごく当たり前のものであるといえます。

 

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