阪急千里線で走っていた100形は1973年に3月に引退した。最終日がいつだったかは知らないが、もう引退が近いというのはわかっていて、末期には撮影回数が増えていた。その代償としてドイツ語の単位を落とすという失態を演じた。

 それにしても、当時はのどかなもので、沿線で100形を撮影している人にはほとんど出会っていない。ちなみに、千里線の運転は梅田〜北千里間であり、京都線の電車に混じって梅田駅まで乗り入れていた。天神橋筋六丁目の方へ行くのは堺筋線に乗り入れる3300系以後の形式である。

 100形は新京阪のP-6形とも呼ばれ、大阪〜京都の特急に使われた名車である。したがって、197111/21,23に運転された京都線の急行による悼別運転は鉄道雑誌に取り上げられていたが、千里線の運転はスルーされていた。当時は冷房車の投入が進んでいたし、非冷房車の冷房化が進められていたから、昭和初期の旧型車は去るしかなかったと思う。

 正雀工場で最後に部品セールがあり、解体現場も公開されていた。それはネガで確認すると1973年5月20日と26日の二回参加していた。

 当時の動きとしては100形が去った直後の19734/1に京阪神急行電鉄の社名を阪急電鉄に改称している。197311/23には梅田駅の移転工事が完成し、同時に千里線では山田駅が開業した。この駅の周囲は竹薮だったが、その少し東側には山田西や山田東といった歴史の古い町並みがある。当時は乗車券も券売機発行に変わり、自動改札の工事も進められていた。
1973 阪急127関大前
ネガカラーで撮っていた100形。この踏切から右へまっすぐ道が伸びていて、その先に関西大学がある。方向板は下部に識別の三角形があり、千里線は緑色、京都線はオレンジ色に区別されていた。

1973 阪急138
阪急100形が最後の活躍。これは関大前駅の南側になる。梅田行きが発車する。

7300219 関大前
豊津から関大前にかけては急勾配と急カーブの連続する線形である。この付近は小さな停車場ができたり移転したりしていた。

7300223 下新庄
下新庄駅のホーム。北千里に向かう回送も撮っていた。その向こうで新幹線の高架が上を越えている。この路線がかつての東海道本線のルートだった。

7309336 阪急、関大前駅
関大前駅は名神高速の下にある。ホームの両端に地下の改札口がある。

7309334 阪急、関大前駅
昔懐かしい阪急の切符売り場。軟券の乗車券を売っていた。

7309332 阪急、関大前駅
券売機の設置工事が始まっていた。関大前の改札口は地下にあった。

7309330 阪急、関大前駅
これは臨時の切符売り場。

7309403 千里山デイ100保存
デイ100は去ったが、その後1511の車体が沿線の教会で集会所として使われていた。

7400524 阪急、千里山駅
千里山線の終点だった千里山駅はカーブしていた。大阪の近郊住宅地だった。当初は旧型の短編成が発着する駅だった。南千里まで延伸や万博輸送で長いホームになったと思う。

7400532 阪急、千里山南千里
千里山駅の先は風景が一変しニュータウンの中を直線的に伸びていた。竹薮の多い丘陵地帯に千里ニュータウンが開発されていた。

7315201 阪急、山田駅
千里線 南千里〜北千里間に山田駅が開業した。中国自動車道の南側である。後に大阪モノレールが開通して、連絡駅となる。