旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

海峡下の電機の系譜【Ⅴ】 北の要衝・津軽海峡を貫く青函トンネル(2)

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6.青函トンネル前史

6-3 戦禍に苦しんだ青函連絡船

 第一次世界大戦後、車載客船の建造・配船により、徐々に輸送量を増していった青函連絡船は、その後も輸送量は増加の一途を辿り続けていきます。それだけ、当時の交通は鉄道が重要な位置を占めていたことであり、それを隔てる海峡を横断する鉄道連絡船もまた重要であったことの証左といえるのでした。

 それに対応するため、本格的な車両渡船である第一青函丸を皮切りに、次々と車両渡船を建造・就航させていきました。第二次世界大戦が始まるまでには、車載客船である翔鳳丸型4隻と、車両渡船である第一~第三青函丸の3隻を就航させ、さらに第四青函丸を建造していました。

 

f:id:norichika583:20200628175728j:plain▲青函丸型車両渡船の2番船・第二青函丸。乗客を乗せるための設備がない、純粋な車両渡船であることがよくわかる。船尾の車両甲板には扉がないことがわかる。(Unknown author / Public domain Wikipediaより引用)

 

 ところが、第二次世界大戦が始まると、それまで内航海運によって運ばれていた貨物が、鉄道へと集中するようになりました。これは、内航海運で使われていた船舶が開戦と同時に海軍などに徴用されたことで貨物輸送が困難になったことと、潜水艦などによる攻撃を恐れて陸上輸送へ転換したことが原因でした。

 また、戦時になり石炭など北海道で産出される燃料などの物資が増産され、戦争遂行に必要な軍需物資も増えたことで、青函航路だけでなく国内の鉄道貨物輸送が極点に増えたことも一因でした。

 そうした中、鉄道省は桁違いに増加した貨物輸送に対応するため、車両渡船をさらに増やす必要に迫られていました。しかし、戦時になると鉄などの原料になる鉱物資源は軍需物資となって戦前のように容易に使えるものでなくなりました。こうした物資を極力抑えた上で、量産性を優先させるために工程や艤装を簡略させた戦時標準船と呼ばれる規格船だけが建造を許されることになりました。そして、この船舶建造の許認可は、従来の逓信省から海軍省へと移管され、その実務は海軍艦政本部が担うようになると、車両渡船の建造も思うようにはいかなくなってしまいました。

 しかし、既に飽和状態に陥っていた貨物輸送を滞りなくさせるためには、貨物を積んだまま貨車を航送できる車両渡船は必要で、そのことを鉄道省は艦政本部に理解するように努力を重ねましたが、これがなかなか思うようには進みませんでした。さらに悪いことに、艦政本部は戦時標準船の一つであるD型貨物船なら許可できるという始末で、一見すると青函丸と比べて搭載量も多く、何より資材を節約できる船として最適と考えたのでした。

 鉄道省としては、そのまま鵜呑みにするわけにはいきませんでした。青函丸型車両渡船は、鉄道車両を航送することに特化した設備をもつ船で、車両甲板に敷かれた船内軌道をはじめ、短時間で荷役ができるように最適化された船でした。対するD型貨物船はそんな設備がないただの貨物船です。貨車が運んできた貨物をわざわざ貨物船に載せ替えるのは、多くの時間と労力がかかってしまい、ただでさえ捌き切れていない貨物をさらに岸壁に積み上げてしまうことになります。そんなことになれば、物資を必要としている軍部からせっつかれ、ひどければ威圧的な態度で文句を言われてしまうのは目に見えていました。

 そこで、車両渡船であれば荷役時間は1時間半で済み、D型貨物船の17時間以上と比べても効率的で、なにより軍部が要請する貨物を可能な限り多く運ぶことができる、と説得に当たったのでした。

 こうして、艦政本部もようやく納得し、第四青函丸を戦時標準船のレベルにまで改設計したW型戦時標準船として認め、これの建造を認めることになったのでした。

 W型戦時標準船として規格された車両渡船は、戦時中に次々と建造されていきました。

 第五青函丸を皮切りに、年間3隻程度のペースで増備が進められていきます。

 しかし、他の戦時標準船に比べれば必要な設備が残されたとはいえ、それでも資材節約の観点から戦前の船に比べれば工作は簡略化され、安全性もある程度犠牲にならざるを得ませんでした。そのうち、大型の船舶であるにもかかわらず、沈没のリスクを軽減するための二重底は廃止されてしまい、これが後に大きな悲劇を生む遠因にもなっていきました。

 次々と竣工するW型戦時標準田は、第五~第十二青函丸となって、次々に送られてくる貨物を満載した貨車を載せて、津軽海峡を休む間もなく往復し続けていくことになります。といっても、すべての青函丸が就航できたわけでなく、中には竣工して浦賀船渠を出発し、津軽海峡へ回航中に事故を起こして沈没してしまう船(第九青函丸)や、津軽海峡には着いたものの米軍機の襲撃で被弾し沈没した短命の船(第十青函丸)もありました。

 こうして、戦前から活躍していた車載客船と車両渡船、戦時になって建造されたW型戦時標準船をあわせて13隻体制になり、押し寄せてくる膨大な貨物と乗客をなんとか運ぶことができるようになり、飽和状態も解消されていきました。

 1945年7月14日、終戦まで残すところ1か月になろうかという時、青函連絡船は戦争による大きな痛手を被ることになります。

 この日の早朝、アメリカ海軍の艦載機が青函連絡船を目標とした攻撃を行ったのでした。これは、北海道にあった軍需産業の拠点である室蘭市などを目標にした「北海道空襲」で、青函連絡船も軍需物資輸送の大動脈であることから米軍の目標にされたのでした。

 

f:id:norichika583:20200628180234j:plain▲1945年7月15日の「北海道空襲」で米軍機の攻撃を受ける青函連絡船・初代「津軽丸」(翔鳳丸型車載客船3番船)。この後、津軽丸は攻撃による火災が発生し沈没した。この時、津軽松には乗組員99名のほかに、乗客70名が乗船していて、営業航行中に攻撃を受けた。(Unknown author / Public domain Wikipediaより引用)

 

 この攻撃で、当時稼働状態にあった12隻のうち11隻が攻撃を受け、翔鳳丸型車載客船全4隻が沈没、第一青函丸を除くすべての車両渡船も攻撃により沈没するという大損害となり、青函連絡船は事実上壊滅状態になりました。

 さらに悪いことには、生き残ったたった二隻の内、第七青函丸は戦後直後に函館港の防波堤に接触して航行不能に陥り、終戦後まともに稼働できたのは第八青函丸だけという有様でした。

 終戦となり貨物輸送は一段落付いたものの、今度は旅客輸送が逼迫していく異なります。戦争が終わったことで動員体制が解かれ、復員する人たちが押し寄せてきたのでした。

 しかし、青函連絡船はまともに動くことができる船がたったの二隻しかなく、それも旅客を乗せることができない車両渡船だけだったので、事実上廃止になった関釜連絡船から転属していた客船二隻と貨物船一隻、さらに同じく事実上廃止になった稚拍連絡船の貨客船・宗谷丸が就航しました。

 これに加えて、新造のW型戦時標準船の第十一・第十二青函丸と稚泊連絡船用に建造されたH型戦時標準船・石狩丸の三隻の車両渡船も就航して、ようやく体制を整えて戦後の復興とともに青函連絡船も新しい時代に向かって航海を始めたのでした。

 

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