昭和60年3月14日のダイヤ改正は、その前の 「57.11」 改正に次ぐ全国規模の改正になりました。

60.3改正の大きな目玉は、艱難辛苦の上、ようやく上野まで到達した東北・上越新幹線でしょうか。それに連動して、57.11ほどの大ナタではないにしろ、在来線の優等列車にも影響が及びました。57.11改正後も首の皮一枚残されていた急行列車は、この改正で悉く廃止に追い込まれ、ある列車は特急格上げ、ある列車は快速に格下げ、ある列車は特急にも快速にもならず、その使命を終えた等々、急行列車はもはや、特急列車のフォロワーでは無くなってしまいました。

上野駅発着で言うと、上越線の 「佐渡」 「よねやま」 、信越本線の 「信州」 「軽井沢」 、東北本線の 「まつしま」 「あづま」 、常磐線の 「ときわ」 「つくばね」 辺りが姿を消していますが、 「ときわ」 や 「信州」 は特急に格上げして、列車名こそ無くなりましたが、その後も走り続けています。

 

そんな中、57.11改正後、上野駅に乗り入れていた唯一の気動車急行 「奥久慈」 も60.3改正で廃止になりました。

新幹線開通前は、常磐線以外でも行く先が非電化区間だったりする関係で、気動車急行が数多く設定されていましたが、相次ぐ列車の廃止によって、残ったのは 「奥久慈」 と 「ときわ」 だけになってしまいました。 「ときわ」 は、57.11改正後も10往復以上が運転されていましたが、うち2往復は気動車でした。それは 「奥久慈」 を併結するためで、上野-水戸間で併結運転を行っていました。

晩年は常陸大子行きと磐城石川発の0.5往復になり、しかも水郡線内は普通列車という、あまり速達列車としての意味を為していない列車になってしまいましたが、昭和58年9月までは水郡線経由で郡山まで結んでいました。

 

一方、 「奥久慈」 の隣に佇む特急 「白根」 ですが、私にとって 「白根」 は、週末やオンシーズンに運転される臨時列車のイメージが強く、 「そよかぜ」 「新雪」 とともに、 「上野発着臨時特急三羽烏」 と個人的に形容していました。

その 「白根」 がですよ、57.11改正で定期列車に昇格したばかりでなく、本数が一気に増えて何とエル特急になるという、序二段から幕内へ、あるいは巡査から警部補へというような、 「何階級昇格よっ!?」 的な大出世を遂げたのです。使用車両も田町電車区 (南チタ~後のJR東日本田町車両センター) の183系1000番代から、新前橋電車区 (高シマ~現在のJR東日本高崎車両センター) の185系200番代に置き換わりました。

その 「白根」 も、同時期に登場した 「谷川」 や 「あかぎ」 などとともに、60.3改正で廃止されるんですが、その翌日、つまりダイヤ改正以降は 「国鉄特急史上最大の失敗作」 と言われた、 “新特急” に変貌しました。新特急の意味が今もなお、よく解っていないのが本音なんですが、近距離運行の特急に、通常の特急とは別に料金帯を設定して、また定期券でも乗れるように乗車条件を緩和したのが定義のようです。

 

対象になったのが 「谷川」 「あかぎ」 「なすの」 、そしてこの 「白根」 なんですが、 「白根」 は愛称が変更されて、 「草津」 となりました。民営化後は他の特急列車に関しても定期券で乗れるようになった (はず) ので、エル特急も新特急もアイデンティティ失い、JR東日本では平成14年に特急に一本化されました。

短命と思われましたが、しぶとく生き残り、 「あかぎ」 「草津」 が現在でも運行されています。 「谷川」 は、平成9年に上越新幹線の愛称に抜擢されて、ひらがな書きの 「たにがわ (Maxたにがわ含む) 」 となりまして、従前の在来線列車は 「水上」 になりましたが、平成22年に定期列車としての営業運転を終え、臨時列車に格下げされてしまいました。最後の運転が平成29年らしいです。

 

画像は 「さよなら奥久慈」 のヘッドマークが掲げられてることから、3月13日に撮影されたものと思われます。 「白根」 もその次の日からは愛称が変わってしまうので、廃止になる両列車にスポットライトを当てているのが良いですね。でも、全国的に見てもそうなんですが、特に上野駅は 「It’s Over・・」 という感じを強く受けた60.3改正でした。

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

日本鉄道旅行歴史地図帳第2号 「東北」 、第3号 「関東」 、第6号 「北信越」 (いずれも新潮社 刊)

ウィキペディア (昭和60年3月14日ダイヤ改正、特急水上)