東京発寝台特急の挽歌 第2章 ~熊本・長崎行き「みずほ」と海を渡る特急バス「ありあけ」号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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熊本・長崎行き寝台特急列車「みずほ」は、定刻18時05分に、ごとり、と東京駅の9番線を離れた。

 

 

俊敏な加減速を見せる電車と違って、14両の寝台車を電気機関車1台が引っ張る客車列車の発車は、今日の発動機の加減はどうだろう、と様子を窺っている職人のような慎重さがある。

寝台車1両の重さはおよそ32~37t、ブルートレイン1編成で500t近い重量を、強い衝撃が加わらないように引き出すのだから、機関士が慎重にノッチを操作せざるを得ないのはよく理解できるし、鈍重な走り出しは、長距離を駆ける寝台特急列車の貫禄にも思える。

いったん速度を上げてしまえば「みずほ」の走りは滑らかで、帰宅ラッシュが始まったばかりの有楽町、新橋、浜松町、田町、品川といった国電の駅をかすめ、大井町以南の広々とした直線区間に差し掛かると、走りっぷりに一層磨きが掛かって小気味よい程である。

 

かすれたような音色の「ハイケンスのセレナーデ」が流れて、車掌の案内放送が始まる。

 

『本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。寝台特急「みずほ」、熊本・長崎行きです。御利用の際には、乗車券の他に特急券と寝台券が必要です。列車は14両連結しております。先頭から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが14号車です。1号車から8号車が熊本行き、9号車から14号車が途中鳥栖で切り離されて長崎へ参ります。2号車が個室寝台、3号車が4人用個室のカルテット、そして1号車と4号車、6号車から14号車がB寝台となっております。なお、1号車と14号車は禁煙車両となっております。1号車と14号車でのお煙草はお控え下さい。5号車は食堂車です……』

 

カルテットが加わったり、禁煙車両が設けられたり、昭和60年に「あさかぜ」に乗車してから、寝台特急の編成も変わったものだと思う。

「みずほ」のように途中で行き先が分割される寝台特急は初めてだから、乗り間違えていないか、わざわざ通路に出て号車番号を確かめたりする。

 

 

僕は、「みずほ」で熊本まで行くつもりである。

 

「あさかぜ」に乗った後に、僕の興味は主として北海道に向けられて、「はくつる」「ゆうづる」「あけぼの」といった東北方面の寝台特急ばかりに乗っていた。

九州も汽車旅で巡ってみたくなって、僕は「九州ニューワイド周遊券」を購入し、その露払いとして「みずほ」を選んだ。

昭和63年6月の週末、鬱陶しい梅雨空が広がる蒸し暑い夕刻のことである。

 

『この先の停車駅の到着時刻を御案内致します。横浜に17時27分、富士19時55分、静岡20時23分、名古屋22時23分、岐阜22時47分、京都は日付が変わりまして0時17分、大阪0時46分。大阪を過ぎますと深夜運転となりまして、広島までお降りになることはできません。広島には明朝4時58分、岩国5時37分、徳山6時30分、小野田7時30分、下関には7時10分に到着となります。門司8時18分、小倉8時30分、博多9時26分、鳥栖9時53分、鳥栖には9時53分の到着です。鳥栖から先は、熊本と長崎行きに分かれます。1号車から8号車までの停車駅は、久留米10時06分、大牟田10時30分、終点の熊本には11時09分、11時09分の到着です。9号車から14号車の停車駅は、佐賀に10時24分、諫早11時42分、終点の長崎には12時04分の到着となります』

 

僕にとって、この時が初めての九州上陸という訳ではない。

昭和60年の師走に、東京から新大阪まで新幹線を利用し、大阪から福岡行き夜行高速バス「ムーンライト」号に乗り継いで、九州に足跡を記している。

帰路には、2階建て車両を連結した100系新幹線で博多から東京まで乗り通しているけれど、寝台特急で関門海峡を越えるのは初めてだった。

 

 

僕が「みずほ」に乗り込んだ昭和63年に、東京発着の「九州特急」の運転本数は3年前と変化がない。

時刻表における3年前との見逃せない相違は、巻頭の「九州特急」の一覧に、関西と九州を行き来する寝台特急がひとまとめに加えられたことである。

関西発着の寝台特急は、3年間で、それだけ数を減らしたのだ。

 

「九州特急」で取り上げるべきなのは、東京駅の発車時刻が微妙に異なっていることであろうか。

 

16時40分:長崎・佐世保行き「さくら」

17時05分:西鹿児島行き「はやぶさ」

18時05分:熊本・長崎行き「みずほ」

18時20分:宮崎行き「富士」

18時50分:浜田行き「出雲」1号

19時05分:博多行き「あさかぜ」1号

19時20分:下関行き「あさかぜ」3号

21時05分:宇野行き「瀬戸」

21時20分:出雲市行き「出雲」3号

 

どの列車も、発車時刻が後ろにずれこんでいるにも関わらず、途中停車駅や終着駅までの所要時間が早まっている。

僕が昭和60年に乗車した「あさかぜ」1号は、18時45分に東京を発ち、広島に6時28分に到着しているけれど、昭和63年には東京19時05分発・広島6時19分着と、所要時間が30分も短縮されている。

今回乗車している「みずほ」も、昭和60年には東京を17時05分に発ち、熊本11時05分着・長崎11時54分着というダイヤであったが、昭和63年には、東京の発車が1時間繰り下がったにも関わらず、熊本と長崎の到着時刻は殆ど変わりがなく、1時間近くも速くなったのである。

 

牽引するEF66型電気機関車や、連結された客車に変更はなく、走行性能に変わりはないはずだが、在来線の特急列車が30分もスピードアップするとは並大抵のことではない。

それとも、昭和60年には、のんびりと余裕をもって運転されていたのだろうか。

航空機の大衆化は「九州特急」が衰退した最大の理由だが、30分から1時間程度、所要時間を短縮しても歯が立つはずがない。

 

夜行高速バスを意識しているのか、とも思ったが、「九州特急」と競合しそうな路線は、

 

平成元年開業:新宿‐福山・尾道・三原線「エトワールセト」号、東京‐広島線「ニューブリーズ」号、横浜‐広島線「赤いくつ」号

平成2年開業:品川・新宿‐岡山・倉敷線「ルブラン」号・「ルミナス」号・「マスカット」号、新宿‐福岡線「はかた」号、横浜‐岩国・徳山線「ポセイドン」号

平成3年開業:東京‐山口・下関線「ドリームふくふく」号

平成5年開業:品川・横浜‐岩国・徳山線「アルバ」号、品川‐防府・萩線「萩エクスプレス」号

 

くらいで、いずれも平成になってからの登場である。

 

 

昭和60年から昭和63年にかけての3年間で最大の出来事と言えば、昭和62年4月の国鉄分割民営化であろう。

 

実際に鉄道を利用しても、車掌さんや駅員さんが若干愛想が良くなったかな、と感じる程度で、著しい変化を感じ取った記憶はない。

「みずほ」はJR東日本、JR東海、JR西日本、JR九州と4社に跨がって運転される訳で、途中で乗務員が交替したかもしれないけれど、不都合は感じなかった。

ただ、この旅で見かけた鉄道車両の殆どが「JNR」マークを残したまま、新たに「JR」のロゴが大きく貼られている外見に、移行期であることが強く意識された。

 

国鉄がJRに生まれ変わったことと、「九州特急」が地道に時間短縮を果たしたことの因果関係は分からない。

結果として、JR各社は夜行列車に見切りをつけることになるのだが、その前にそれなりの試行錯誤を重ねていたのかもしれない。

 

 

3年前の「あさかぜ」1号よりも40分ほど早いだけの、ほぼ似たような季節と時間帯で東海道を下っているため、曇り空ながらも日が長く、根府川付近で黄昏の相模灘を眺めることも出来たし、静岡あたりまでぼんやりと薄明かりが残されていた。

 

「あさかぜ」1号が停車した熱海や沼津、浜松を通過するあたりは、同じ「九州特急」でも、停車駅の儲け方が随分と違うものだと思う。

1時間先行している「はやぶさ」の停車駅も「みずほ」と殆ど変わらず、熱海、沼津、浜松の利用客は鹿児島本線沿線に乗り換えなしで行けないようになっているのは、なぜだろう。

長崎に向けて1時間半近く先行している「さくら」も、沼津は停車するけれども、熱海と浜松は通過している。

このあたりの停車駅の設定には、何らかの理由があったのだろうか。

 

「あさかぜ」1号では、20時過ぎに停車した熱海か沼津のあたりで食堂車に出掛けた。

今回は、2泊3日の大旅行である代わりに、節約を旨とせざるを得ない懐具合なので、食堂車の利用は諦めて、東京駅で仕入れた駅弁を夕食にした。

僕は、駅弁を買って然るべき時間まで待てたことがなく、大抵は席に腰を落ち着けるや否や、我慢できなくなって平らげてしまう。

「みずほ」でも、発車前から弁当の蓋を開けて、多摩川を渡るまでには食べ終わっていたような気がする。

倹約旅行であるから、「あさかぜ」のような個室寝台ではなく、開放式B寝台を選んだが、早々と駅弁を食べていても、2つの2段ベッドが向かい合っているこの区画には、上段にも、向かいの上下2段にも相客は現れず、誰の目も気にする必要はなかった。

 

後悔先に立たず、と臍を噛んだのは、名古屋や大阪あたりでお腹がすいた、という話ではない。

駅弁を食べながら、いつか経済的に余裕が出来たら必ず食堂車で食事をするぞ、と誓っていたのだが、まさか、寝台特急列車から食堂車が消える日が来ようとは、夢にも思っていなかった。

 

 

寝台特急「みずほ」の前身は、昭和35年の年末年始に運転された東京-熊本間の臨時「あさかぜ」である。

翌年には同じ区間を結ぶ不定期列車が「みずほ」を名乗ることになるが、不定期と言いながら毎日運転されるほど、当時の寝台特急の利用客は多かったのである。

昭和37年に「みずほ」は目出度く定期列車となり、昭和38年からは熊本行きと大分行きの編成が組み合わされて運転されたが、昭和39年に大分編成が「富士」として独立し、再び熊本行き単独に戻る。

一方、昭和33年から東京‐鹿児島間で運転されていた寝台特急「はやぶさ」の一部の編成が、昭和43年から長崎行きとして分割されていたのだが、昭和50年に「はやぶさ」は鹿児島行きに統一され、代わりに「みずほ」の一部が分割されて長崎を行き来することになったのである。

 

昭和53年に「あさかぜ」の車両を更新する際に、同じ形式の車両で運用されていた「はやぶさ」「富士」「出雲」の食堂車を、終点まで連結せずに途中駅で切り離し、1日早めて折り返す運用にすることで、「あさかぜ」用の食堂車を捻出するという苦肉の策が講じられたというエピソードがある。

この時から、国鉄は食堂車を増備しない方針を固めていたのである。

昭和50年代後半の「みずほ」の食堂車は、メニューを削減し、紙皿と紙コップを使用したセルフサービスという簡易営業で省力化が図られていたと言われているから、食堂車はペイしないものと判断されていたのだろう。

 

平成3年に「みずほ」の食堂車は営業を終了して売店に変わり、平成5年には「はやぶさ」「富士」「さくら」の食堂車も後を追う形となって、「九州特急」から食堂車の姿が消えたのである。

 

平成6年12月、「みずほ」は廃止された。

食堂車の終焉は、そのまま「九州特急」の衰退を象徴していたことになる。


そうと知っていれば、万難を排してでも「みずほ」で食堂車を体験しておくべきだった、と、僕は数年後に悔やむことになる。

次に僕が「九州特急」を利用する機会は、食堂車全廃後となってしまったのである。

それとも、「みずほ」で食堂車を利用しても、簡素化されたサービスに幻滅しただけだっただろうか。


 

「みずほ」とは、素敵な響きの言葉だと思う。

古事記で日本の国名を表した「豊葦原瑞穂国」と聞けば、瑞々しく美しい稲穂が実る我が国の風土が、自然と心に浮かぶ。

戦前から特別急行列車の愛称として使われていた「富士」と「さくら」が、我が国を象徴する山や花として選ばれたのであるならば、「みずほ」も同様の意味合いを持っていると思う。

 

ところが、「九州特急」としては、鹿児島系統の「はやぶさ」と長崎系統の「さくら」の補助的な役割に甘んじて、EF66型機関車や新型客車への更新は他よりも遅く、それでいて食堂車の簡素化や列車の廃止にはさっさと踏み切られてしまう、気の毒な列車だった。

 

 

そのような未来のことなど思いも寄らない僕は、食堂車に行けないことをそれほど残念にも思わず、「みずほ」の旅を満喫していた。

 

列車の揺れに身を任せているだけで、何もすることがない無聊の時間が流れていく。

2段式B寝台の良いところは、ベッドに座っても頭がつかえないことである。

昔の3段式では、こうはいかない。

時には寝台に横になってみるものの、なかなか寝つけず、日付が変わって大阪に停車する時分まで起きていたような気がする。

熊本の到着がお昼近くなのだから、夜更かししても何の差し障りもない。

何と贅沢な時間だろう、と思う。

 

いつしか眠りに落ちて、ふと目を覚ますと、広島に停車したところだった。

ホームの時計の針は午前5時を指そうとしていて、空はまだ暗い。

東京ならば明るくなっている頃合いだから、随分と西へ来たと思う。

 

3年前はここで降りたのだったな、と懐かしく思い出しながら、今回はまだまだ先へ乗り続けていられることが、こよなく幸せに感じる。

「あさかぜ」1号では三原付近で眺めた瀬戸内の夜明けが強く印象に残っているけれど、そこを通り過ぎてしまったことだけが、少しばかり残念だった。

 

 

ところが、「みずほ」の車窓は、更に素晴らしい演出を残していたのである。

広島を発車すると、窓外を櫛の歯を引くように飛び去っていく木々の合間から瀬戸内海が顔を覗かせるようになり、どっしりとした宮島をはじめとする大小の島影が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいる。

岩国から柳井にかけての線路は波打ち際に敷かれているので、陽の光を浴びて輝く海原を渡っているかのような感覚である。

 

徳山付近で、海辺は幾何学的なコンビナートで埋め尽くされ、列車は再び山中に分け入っていく。

下関が近づくと、右手の山並みが後退し、山陰本線や道路が次々と線路に寄り添ってくるから、紛れもなく本州の最果ての気配が漂い始める。

倉庫が建ち並び、合間に大きな船を浮かべた港やドックが垣間見える。

行く手に山塊が立ち塞がっているけれど、それは関門海峡の向かいの九州である。

 

 

ポイントをがたがた鳴らしながら下関駅の構内に進入すると、青色の直流電気機関車とは一線を画した赤色の交直流両用のEF81型機関車が、何両も待機している。

 

もともと関門トンネルは直流電化であったのだが、九州内の線区は全て交流電化が推進されたことで、門司駅構内も交流に切り替えられ、関門トンネルの門司側の出入口で交直流の切り替えが必要になった。

僕が子供の頃は、関門トンネル区間を担当する牽引機関車と言えば、海水による腐食を防止するためにステンレス製で製造された銀色のEF30型交直流両用電気機関車が定番であった。

交直流電気機関車ならば、下関と門司の間だけではなく、九州の起終点の駅までそのまま担当すればいいのに、と不思議だったのだが、昭和35年の開発当時の技術では、直流・交流の双方に対応可能な高出力の電動機を搭載することが出来ず、EF30型の交流運転での最高時速は、門司駅構内だけを想定して時速30kmだったのである。

EF30型の名誉のために付け加えれば、直流での出力は従来の機関車よりも強く、EF30型の牽引で関門間の所要時間を短縮した列車も現れたという。

 

関門トンネルが完成したのは太平洋戦争中の昭和17年であるが、子供の頃に書籍でEF30型機関車の写真を眺めながら、それほど浸水があるものなのか、と驚いたものだった。

 

 

残念なことにEF30型は昭和62年に全機が引退しており、下関で5分停車する「みずほ」には、東京から1096kmを走り抜いたEF66型に代わって、EF81型が先頭に立つ。

発車すると、加速するにつれて線路沿いにひしめく建物が窓の上にせり上がり、すぐに車窓が暗転して、トンネルの壁に反響する走行音が轟々と鳴り響く。

関門トンネルの長さは下り線で3614mであるから、「みずほ」は僅か2~3分で呆気なく九州に上陸し、門司駅に停車した。

 

百万都市である北九州と福岡の間は、街並みが途切れることなく続いているのだろう、と漠然と想像していたので、確かに窓外を過ぎ去る建物は多いけれど、起伏の多い地形は意外だった。

なだらかでありながら、植生が剥げて土が剥き出しになっている山肌も多く、どこか荒々しさを感じさせる山並みを眺めながら、鉄鋼と石炭で近代日本を支えてきた爪痕なのかもしれない、などと考えていると、見知らぬ土地に来た気分が湧いてくる。

 

さあ、九州だぞ、と居住まいを正していたのだが、茫洋と過ごしているうちに眠気が襲ってきて、僕は再びベッドに横になった。

二度寝が遠慮なく出来るのは、寝台列車を選んだ旅人の特権である。

熊本着が、朝1番に羽田を離陸する航空機よりも遅い時間という浮世離れしたダイヤなのだから、世間一般では実用的ではないのだろうが、午前中をのんびり過ごせる到着の乗り物は、僕が大いに好むところである。

降りるのは終点だから、寝過ごしたって構わない。

熊本で、まさか車庫まで連れて行かれる訳ではないだろう。

車掌さんに発見して貰えるよう、念のためにベッドのカーテンは開けておいたが、結局、この区画には終始他の客は乗り込んで来なかったので、気兼ねはいらない。

 

このように優雅な時間を縮めてまで、あくせくと目的地に急がなければならない理由が何処にあるのだろうか、などと考えているうちに、本当に深々と眠ってしまい、

 

「お休みのところ恐れ入ります。間もなく終点ですよ」

 

との声にハッと目を覚ますと、車掌さんがニコニコしながら僕を見下ろしていた。

いささか慌てて身繕いをするうちに、列車は見る間に減速して、今にも泣き出しそうな空模様の熊本駅に滑り込んだ。

 

 

「みずほ」から降り立った僕は、

 

熊本13時01分発 急行「火の山」3号 大分15時32分着

大分15時42分発 特急「にちりん」27号 西鹿児島21時04分着

西鹿児島7時09分発 特急「スーパー有明」14号 熊本9時54分着

 

と豊肥本線、日豊本線、鹿児島本線で南九州を回り、翌日熊本に舞い戻った。

この日は、夕方に長崎空港を発つ羽田行きの航空機で東京へ帰る心づもりであったが、「スーパー有明」14号にそのまま乗り続けて、鳥栖駅で長崎本線の特急「かもめ」に乗り換えれば、周遊券が有効で余計な出費もなく長崎へ行ける。




 

ところが、僕は、長距離バスを利用する計画を立てていた。

この頃の僕はいっぱしの鉄道ファンだったはずなのだが、バスに浮気するだけの理由があったのである。

 

バスに搭載する音響機器のメーカーであるクラリオンが、「バス機器ニュース」と名付けたカラー写真を主体とする冊子を不定期で発行している。

その高速バス特集号が昭和62年に発行され、東京神保町の書泉グランデの鉄道コーナーで見掛けた僕は、思わず購入してしまった。

 

鉄ちゃんでありながら、昭和59年の浪人生時代にたまたま利用した「東名ハイウェイバス」でバス旅に魅了され、東京-京都間を運行する夜行高速バス「ドリーム」号や、東京-山形間を走る「東北急行バス」夜行便、大阪-福岡間の「ムーンライト」号などに乗りに出掛けていたので、バスファンの虫は、その頃から萌芽していたのだろう。

神保町は我が国随一の古書店街として知られているが、三省堂や書泉グランデ、書泉ブックマートなどの大型店舗も建ち並び、初めて訪れた時には、1つのビルが丸ごと書店として成り立つとは、東京は何と凄いところなのか、と感嘆したものだった。

加えて、趣味の書籍を扱うコーナーの充実ぶりには、一発で魅了されてしまったのである。

神保町に足繁く通っては、書泉グランデのエレベーターから神保町の街並みを見下ろしていた学生時代が、今でも懐かしい。

 

鉄道関連の書籍やビデオなどが占めるフロアに、バス関連の書籍を集めた棚が1つだけ肩身が狭そうに設けられていて、立ち読みをしている客もその区画だけには殆どいなかったが、そのコーナーに真っ先に足を向けるようになったのは、クラリオンの「バス機器ニュース」を購入して、圧倒されてからのことだった。

 

 

高速バスを好きになっても、扱う書籍が殆ど見当たらないことを物足りなく感じていた僕は、長距離バスのカラー写真を網羅した内容を目にして、これこそ僕が欲しかった本ではないか、と小躍りしたのである。

当時、夜行高速バスと言えば「ドリーム」号と「ムーンライト」号、東北急行バスに、品川-弘前線「ノクターン」号が加わった程度で、昼行高速バスでも「中央高速バス」新宿-駒ケ根線・飯田線や、「北陸道特急バス」名古屋-金沢線が新設されたばかりという黎明期だった。

 

その「バス機器ニュース」に、熊本と長崎を有明フェリー経由で結ぶ特急バス「ありあけ」号の記事が掲載されていたのである。
 

 

「ありあけ」号が1日5往復で運行を開始したのは昭和43年のことで、その後増便を重ね、昭和50年には1日14往復という盛況を呈した。

一方で、昭和36年から熊本と長崎を佐賀線経由で結んでいた国鉄の急行列車「ちくご」が昭和55年に廃止されている。

熊本と長崎の間の流動がバスで賄える程度に減少したのか、長大編成の列車に比して1便あたりの利用客数が少なくても採算が合い、頻回の運転が可能なバスに見合った路線環境だったのか、それは判然としないけれど、「ありあけ」号は熊本と長崎を結ぶ唯一の交通機関として君臨した。

 

 

しかし、平成元年に九州自動車道と長崎自動車道を経由して両市を結ぶ高速バス「りんどう」号が運行を開始し、1日6往復、8往復、10往復へと見る間に増便されたのと対照的に、「ありあけ」号は平成3年に6往復へ減便されたのを皮切りに本数を減らし、平成7年には1日1往復に成り果てた挙げ句、平成9年に廃止されてしまう。

「りんどう」号の所要時間は、遠回りにも関わらず4時間~4時間10分で、さすがは高速道路と舌を巻いてしまうけれど、「ありあけ」号と大した差がある訳ではない。

これならばフェリーを介する「ありあけ」号の方が楽しいのに、と残念に感じたものだった。

 

僕が熊本から長崎へバスで移動したのは、「りんどう」号が登場する前年で、「ありあけ」号の最盛期だった。

「りんどう」号ならば、バスを選んだかどうか、微妙である。

 

 

午前11時16分の発車時刻きっかりに熊本駅前に姿を現した長崎行き「ありあけ」号は、九州産業交通の古びた一般観光車で、座席の間隔が狭く、シートもくたびれている。

狙っていた最前列の席を先に並んでいたおばさんに取られてしまい、少しばかり不機嫌な面持ちで乗り込んだ時には、バスなど選ぶのではなかったか、と後悔しなかったと言えば嘘になる。

 

十数人の客を乗せて熊本駅前を発車した「ありあけ」号は、市電と並走しながら熊本城に近い熊本交通センターに向かう。

古桶屋町、細工町、米屋町、魚屋町、鍛冶屋町、洗馬町と、城下町の名残りを感じさせる町名の街並みを進むにつれて、高いビルや店舗が増え、熊本駅よりも熊本交通センター周辺の方が賑わっていると知ったのは、「ありあけ」号のおかげだった。

熊本のように駅が離れている街では、バスの方が、その土地をよく見ることが出来る。

 

JR九州も、中心街に直接乗り入れる長距離バスとの競合を意識するようになって、熊本駅の立地条件に危機感を抱いたらしく、非電化区間でありながら、市街地に近い豊肥本線水前寺駅まで電車特急「有明」をディーゼル機関車に牽引させて乗り入れさせたことがあった。
 

 

「ありあけ」号が熊本から長崎まで費やす時間は4時間余り、鉄道では鳥栖で特急を乗り継いで3時間半程度であるが、そのような時間差は僕にとって重要ではない。

バスの乗車券を購入するだけで船旅まで経験できるのだから、これほど楽しい選択肢はないと思ったからこそ、「ありあけ」号を選んだのである。

 

「ありあけ」号は、20名足らずの客を乗せて、国道3号線を北西へ向かう。

九州を横断する1級国道であるから交通量が大変に多いが、熊本市を抜けて植木町に入る頃には、沿道の建物も減り、九州山地の裾に抱かれた田園地帯が伸びやかに開けた。

車内にはネクタイを締めたビジネス客が多く、「ありあけ」号が熊本と長崎を結ぶ唯一の直通交通機関として活躍している証左であるのだろうが、通路を挟んだ反対の席には、小学校に入ったばかりと覚しき女の子が母親と座っている。

 

窓にかじりついたままの女の子は、

 

「田圃が綺麗だね」

「あっ、お母さん、今、白い鳥がお空を飛んでいたよ!」

「ねえねえ、あの赤い花は何?」

 

などと、さえずるように絶え間なく喋り続けているから、僕の視線も、自然とそちらを向きがちになる。

白い鳥、との言葉につられて思わず空を見上げたが、周りで取り澄ましていた乗客までが一斉に顔を上げたから、思わず俯いて笑いを噛み殺した。

日本一の鶴の飛来地として有名なのは遥か南の鹿児島県出水市であり、白鳥が渡来するのも北日本ばかりで、九州には滅多に飛んで来ないと聞く。

そもそも、鶴や白鳥が我が国で過ごす季節ではない。


一昨日の夕刻に「みずほ」に乗り込んで以来、南九州をひと巡りする間に会話を交わした相手と言えば、車掌さんや鹿児島のホテルの係員さんくらいで、何となく人恋しくなっていたので、母娘のやりとりは一服の清涼剤だった。

 

この旅では、雨に降られることこそなかったけれど、重苦しい梅雨の雲が低く垂れ込めた陰鬱な空模様が続いた。

対照的に、地上の風景は鮮やかな濃い緑色に覆われ、水田には田植えを終えた稲が青々と生え揃っている。

梅雨なのだから、たくさん雨が降って、今年も豊作に恵まれるといいな、と思う。

まさに瑞穂の国の旅である。

 

題名も忘れてしまうような掌編であるが、尾瀬あきらのバイク漫画で、オフロードバイクを駆って林道を走破している若者2人連れが土砂降りに見舞われる場面のことを、梅雨になると思い出す。

 

「ひどい降りになったな」

「うむ、これで田畑が潤う」


少年漫画には、ほぼ全ての漢字にふりがなが振られていて、この漫画では「田畑」に「でんばた」と書かれていたから、若い男性が「デンバタが潤う」などと言うものか、と首を傾げたことが、いつまでも記憶に刻まれている。

 

 

熊本に本社を置くバス事業者である九州産業交通は、県内各地の営業所に「〇〇産交」と名付けるのが習わしらしい。

玉名市の玉名産交に停車してから、国道3号線を離れた「ありあけ」号は、12時半頃に同市の長洲港に到着した。

僕は車でフェリーに乗り込むという経験が皆無だったので、興味津々で身を乗り出した。

 

駐車場に入ると、係員が手慣れた様子で、船を待つ車列の最後尾に「ありあけ」号を誘導する。

間もなくフェリーが姿を現し、岸壁に船首を着岸させるや否や、大きな扉がゆっくり倒れ始める。

それほど大きな船には見えないので、そんなに積んでいたのか、と目を見張るほど、乗用車やトラックが次々と吐き出されてくる。

長崎駅前を10時45分に発ってきた、長崎県営バスの熊本行き「ありあけ」号の姿も見える。

 

最後の車が降船を終えると、係員の手が大きく振られて、何台かの乗用車とトラックに続いて、「ありあけ」号が静々と乗船口に進み始める。

当時の有明フェリーは第一~第十有明丸で運航され、どの船も全長57.0m・幅12.8m・排水量721t・積載車両数は乗用車換算で75台と共通仕様で、それまで船と言えば5000tクラスの青函連絡船や佐渡汽船、東海汽船大島航路くらいしか乗ったことがない僕には、小ぶりに感じられた。

乗船口も、本当にバスが入るのか、と心配になるほど狭く、渡板をガッシャーン、と鳴らして大きく車体を揺さぶりながら船内に進入する際には、思わず首をすくめたものだった。

 

 

暗い船倉でブレーキが掛けられると、係員さんが車止めをタイヤにはめて回り、運転手さんが、

 

「乗船中はバスを降りて船内でお過ごし下さい。お荷物は置いて行っても構いませんが、貴重品は必ずお持ち下さい。発車は13時40分ですので、遅れないようお戻り下さい」

 

と案内しながら扉を開けた。

 

狭い階段を昇って甲板に上がると、湿り気が多いものの、海を渡ってくる風が爽やかである。

水平線には、14km彼方の島原半島がうっすらと見える。

出港は13時ちょうどで、40分ほどの船旅である。

九州本土と島原半島に囲まれた内海を行く航路であるから、波は穏やかで、欠航も少ないという。

 

 

トイレに向かうと、「ありあけ」号で一緒だった母娘と入れ替わりになった。

 

「ちゃんとおしっこ出たと?バスに戻ると2時間くらいトイレに行けんとよ」

「あんまり出なかった。だってバスに乗る前に行ったばかりだもん」

「ほらあ、手を洗うの忘れてない?これからお昼食べるんでしょ」

 

ちょうど昼食時であり、カモメが舞う海を眺めたり、気儘にを身体を伸ばしながら、有明フェリーで過ごす時間は、女の子にも程よい気分転換になるだろう、と思う。

このようなバスを気軽に利用できる地元の人が、羨ましくなる。

 

多客期にも「ありあけ」号は優先的に乗船させて貰えるらしいが、混雑している場合は、熊本駅と長洲港、長崎駅と多比良港の地上区間だけを運行する臨時便を走らせて、海上輸送をフェリーに委託することもあるという。

 

「間もなく多比良港に到着します。どなた様もお車にお戻り下さい」

 

とのアナウンスを聞いてバスに戻ると、エンジンが切られて冷房も作動していないから、車内は溜息が出るほど蒸し暑かった。

 

 

多比良港は島原半島の北岸に位置している。

フェリーを降りた「ありあけ」号は、島原半島を1周している国道251号線を西へ向かう。

 

島原半島の大部分は雲仙岳に占められていると言っても良く、僕は、三峰五岳と呼ばれる山並みを「ありあけ」号から眺めることを楽しみにしていた。

ところが、雲仙岳の北麓は奥行きが深く、左手に目を凝らしても、その先に1300m級の山々がそびえているとは思えない傾斜地がどこまでも続いているだけである。

沿道にはほぼ切れ目なく建物が並んでいて、低く垂れこめた雲と相まって、国道251号線の道行きは意外と雲仙を拝ませてくれない。

代わりに僕の心を和ませてくれたのは、渺々と広がる有明海の眺望だった。

 

静かになったな、と横に目を遣ると、フェリーではしゃぎ過ぎたのか、母娘とも居眠りをしている。

 

「ありあけ」号は、雲仙市と諫早市の境にある愛野の交差点で島原半島を抜けて国道57号線に折れ、諫早駅に立ち寄ってから、長崎半島中央部の山中を貫く国道34号線を経て、15時40分に長崎駅前に着く。

多比良港からおよそ1時間半あまりの行程が残されているが、それでも旅の終わりは近い。

 

 

ふと、「ありあけ」号が熊本駅前を発車した時刻が、寝台特急「みずほ」の熊本到着時刻の5分後であることに気づいた僕は、この旅で、「みずほ」から「ありあけ」号に乗り継いだかのような錯覚に陥ってしまった。

阿蘇カルデラを横断した急行「火の山」も、日向灘を眺めながら6時間も乗り通した特急「にちりん」も、「スーパー有明」の新型783系ハイパーサルーン車両も、それぞれ楽しかったけれど、それにも増して「みずほ」と「ありあけ」号の印象が強烈だったのだ。

熊本から大分、宮崎、鹿児島を回った行程が、夢か幻であったかのようである。

 

混乱している僕を乗せて、「ありあけ」号は、起伏が少ない有明海に沿う国道を、坦々と走り続ける。

「ありあけ」号が長崎駅前に到着する1時間後の16時44分には、上り寝台特急「みずほ」が長崎駅を発車する。

東京駅への到着は翌日の11時ちょうど、月曜午前の講義をサボって「みずほ」長崎編成に乗る手もあるな、と考えないでもないけれど、これ以上こんがらがる前に、さっさと飛行機で帰った方が良さそうである。

 

 

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