車両前面に掲げられた大きなヘッドマークも懐かしい、横浜線の103系です。行き交う車両の先頭車が双方、非冷房ということで、103系が横浜線に投入されて間もない頃の撮影と思われます (昭和53年撮影とのこと) 。撮影地は長津田駅でしょうか? 東急のホームから撮ってますね。

横浜線に103系が投入されたのは昭和47年からですが、京浜東北線の車両を塗り替えずにそのまま使ったため、誤乗防止の観点から車両前面と側面に “横浜線” の看板を掲げるようになりました (側面はシール) 。

その後、沿線の宅地化が進んで急激に利用客が増えたことから、4両だった編成を7両にすることにしましたが、具体的には京浜東北線に新車の103系を投入して、炙れた車両を横浜線に転配するというフローでした。昭和49年には山手線からの転配車もありましたが、それも塗り替えをせずにうぐいす色のまま走らせました。この結果、スカイブルーとうぐいすの混色編成が日常的に見られまして、看板も大いに役立つことになるのですが、同時に 「どっちが横浜線のラインカラーだべ?」 という “ハマっ子の素朴な疑問” がしばらく続くことになります。民営化後に投入された205系やE233系が黄緑色の腹巻きで登場していますので、まぁ、うぐいすが横浜線のラインカラーになるんでしょうけどね。

 

旧形国電を使用していた頃から、横浜線は東神奈川から京浜東北線と根岸線に乗り入れていました。103系になってからもそれは変わりませんが、京浜東北・根岸線の保安装置が車内信号式ATCとなることから、横浜線の車両も必然的にATC対応車が求められます。そんな経緯から、昭和54年からATC対応のクハが先頭に立つようになり、それまでの低運転台クハは他線に転属することになりますが、この時も新車は投入されずに、山手線で使っていた車両を転配させるというフロー。この当時の国鉄通勤電車は、「山手線・京浜東北線ファースト」 で、如何なる投入理由でもまず山手線と京浜東北線に新車を投入して、炙れた車両を他線に持っていくという図式が長らく続きました。だから、103系の新車が直接横浜線に投入された実績は無く、南武線や青梅・五日市線同様、いつもお下がりばかりを押しつけられていました。それでも 「焦げ茶色のオンボロ電車よりかはマシ」 と、乗客は目を瞑っていたに違いありません。

 

ところで、横浜線車両の塒といえば、東神奈川電車区 (東ヒナ→南ヒナ) を忘れてはなりません。京浜東北線の新子安-東神奈川間、ちょうど横浜線が新横浜方向から東海道本線をオーバークロスして京浜東北線に合流しますけど、その辺りから海寄りに広大な電留線が現れ、京浜東北線や横浜線の車両が束の間の休息を取っていますが、あれが元、東神奈川電車区という現業機関でした。大正3年に品川電車庫の分車庫として開設され、翌年東神奈川電車区として独立、103系にも 「南ヒナ」 と標記した電車が走っていましたが、昭和56年に検修のセクションを蒲田電車区 (南カマ~現在のJR東日本大田運輸区) に移管して、蒲田電車区東神奈川派出所となります。同時に車両も蒲田に転出させ、車両無配置区となりました。現在は鎌倉車両センター東神奈川派出所となっています。

 

昔日の横浜線を知る方曰く、 「昔は長閑なローカル線じゃった。通勤ラッシュとはいっても、都会の路線よりかは空いてたし。じゃが、今は人が増え過ぎて真っ昼間でも窮屈な車内じゃ・・」 とボヤいていました。まぁ、今だって同じ 「横浜市」 を名乗っても、場所が変われば全く趣が異なります。海あり山ありのエリアを串刺しのように貫く横浜線は、沿線風景も楽しめるのかもしれませんね・・・。

 

【画像提供】

ヤ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアル No.745、875 (いずれも電気車研究会社 刊)

鉄道ファン No.541 (交友社 刊)

キャンブックス 「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

ウィキペディア (東神奈川電車区、鎌倉車両センター)