不鮮明ですが三菱大夕張鉄道の遠幌駅前にあった「遠幌」の三菱バスの停留所標識。
上に書かれているのは「急行夕張行」「特急札幌行」の文
1962(昭和37)年10月の南部=南大夕張・明石町間道路開通時にバスの運行回数、
結果三菱バスは大夕張から南部以遠は急行・特急バ
1965(昭和40)年頃の写真ですが、停留所の表記はその名残りで
清水沢・大夕張間の路線獲得は三菱・北炭側(夕張バス)の思惑により、紆余曲折した。以下は札幌線開設時の申請書に記載された経緯の抜粋です。
・以下記載文章
当社申請の大夕張~札幌急行バス申請に関する聴聞会に於て、当社と夕張バス間、過去の路線をめぐる経緯についてお尋ねがありましたが、以下に述べます通り、清水沢~大夕張間の沿線は当社の権益であり、この間に発生する旅客の輸送は主体となるべきは過去に於て夕張バスも認めているものと信じております。したがって今回の申請については、上記経緯を尊重するならば夕鉄側としても認むべきではなかろうかと思います。
1.夕張バス(現在夕鉄バスと合併)と南部迄路線延長することに承諾を与えた当時の経緯
昭和27年8月6日夕張バスより当社鉄道に併行するバス路線の承諾を求めて来た。
(1)将来当社もバスを営業することを考えている。
(2)その場合は両者誠意をもって協議解決を計る。解決の一方法として夕張バスに対する当社の出資並びに役員の就任等についても充分考慮することの覚書を取交して当時承諾を与えております。
本件当時当社でも鉄道擁護の立場よりバスの企図しておりましたが偶々二股ダム建設の計画がはじまり南大夕張~大夕張間道路開通の見透しがたたず一方清水沢大夕張間の沿線住人のバス運行に対する要望も考慮し夕張バスの申し入れを無下に拒否する訳にも行かず前述の通り覚書を取り交わして当社バスの運行に対する権利を保留、承諾を与えた次第であります。
2.当社バスの大夕張、夕張間の路線延長当時の経緯。
二股ダム竣工に伴い南部、明石町間道路開通の見通しもついたので当社は昭和36年2月16日付で明石町、夕張駅間23キロ912メートルの路線延長免許を申請致しました。当時夕張バスも南部、大夕張炭山間、9キロ90メートルの路線延長を申請するに至り結局競願の型となりましたが、偶々上記道路の完成が遅延バス運行不可能な時期であった為、結局伊藤バス協会長の幹族により、将来相互乗入れを約することにより、一応双方申請取下げをいたしました。当時双方間に取下げの覚書を結ぶに際し、当社案の第2項「夕張~清水沢間は夕張バスの輸送分野であり、大夕張~清水沢間は三菱バスの輸送分野であることを相互が認めること」に対し、夕張バス側は清水沢を以って判然と輸送分野を区分してしまえば、清水沢~南大夕張間に現在バス運行している事実の陰が薄くなるとして、護路線という事実は認めながら当社案字句の表現緩和を固執結論とし、伊藤バス協会長が「双方共精神的には意見一致しているが単に字句の表現で一致しないだけなのでその経緯を伊藤会長が記録に止め、これを双方保有することとしてはいかが」という提案があり、結局伊藤会長記録(別紙4御参照)をすることで双方申請を取り下げた経緯がありますが、上記の通り大夕張~清水沢間の路線は従前から当社が主体であることは夕鉄バス側としても認めざるを得ない事と考えております。
3.昭和35年8月2日夕張バス横川社長、当時岩間大夕張砿業所長外と会議の際
横川
清水沢~大夕張間の道路開通も近いが、開通のうえは三菱バスも清水沢進出を考えていることと思うが夕張バスとしても大夕張山内乗入れを考えているそのときは、地元業者として共存共栄できるよう、ひとつ協力してやりましょう。
岩間
大夕張バスは美鉄経営のものではあるが当方としては清水沢進出以上のことを考えている。
横川
思い切って札幌まで出るようにしてはどうか。その場合問題となるのは国鉄バス、夕鉄バス、市内バス(夕張バス)の方は差支えないと思うが、中央バスの反対が予想される
岩間
とにかく地元業者が共存共栄できるようやりましょう。
のような談話の取り交わしがあり、当社バスの札幌までの急行バス運行について夕張バスとしては他意がない旨の表現がありました。