特急サザンで行く旅(後編)キーノ和歌山&河西橋 | 鉄道で行く旅

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特急サザンで行く旅の和歌山市駅からの後編です。

和歌山市駅で見た加太線の「めでたい電車」です。私が知らないうちに真っ赤な塗装の編成がデビューしていました。

この記事はコメントを拝見した後に記事を書き換えています。2019年3月31日に赤色の編成が増えたそうです。

♪真赤なドレスと 真赤な靴で Dance all night シャレたカクテル グラス片手に Party night ・・・

追記:2022年現在、「めでたい電車」は4編成(赤=なな、ピンク=さち、水色=かい、黒色=かしら)に増強されています。

 

2年前に撮影した「めでたい電車」のピンク色の編成です。(2018年5月)

 

【南海電車の思い出の画像】1987年に撮影した画像です。

加太駅で撮影した1521系です

 

1987年当時の加太駅です。奥にある駅舎本体は今も昔のままのようです。

 

この1987年の初夏の旅は南海電車完乗の旅でした。当時あった和歌山港~水軒の区間は1日2往復だけの運行しかなく利用困難区間でした。和歌山港駅から水軒行の電車に乗車したら、車掌さんが車内放送で「言っておきますけど、和歌山市には行きませんよ!」という叱責に近い言い方の放送がありました。(1987年8月)

 

【1987年6月に撮影した水軒駅の新たなスキャン画像です】

貨物輸送用に整備されたものの、トラック輸送への転換時期であったため、ほとんど使われなかったらしい水軒駅の貨物ヤードです。そういう理由により本来の貨物線から旅客線に転換して開業したという話を聞いたことがあります。水軒駅の開業日は1971年(昭和46年)3月6日でした。

右隅に難波駅から70kmを示すキロポストがありました。(1987年6月)

和歌山港線は、南海電気鉄道が第二種鉄道事業者で和歌山県が第三種鉄道事業者ですので、県議会で廃止が決定されるまで、路線維持のためのレール磨き運行が行われていたような感じでした。和歌山港~水軒の区間の廃止日は2002年(平成14年)5月26日でした。

 

和歌山港線

2016年8月に和歌山港線の廃線区間を歩いたときに見つけた68キロのキロポストの残存物です。

和歌山港線

2016年8月の再訪時の水軒駅跡です。更地になっていて駅跡の痕跡を感じ取ることはできませんでした。

 

左側の当時の貯木置場は、トラック輸送用に使われていました。(1987年6月)

 

営業当時の水軒駅の駅名標です。たぶん機械的にというのか自動的に高島屋の広告が入ってしまう仕様だった、当時の南海電鉄標準の駅名標が使われていました。(1987年6月)

 

2002年10月の「南海電車まつり2002」でオークションにかけられていたときの水軒駅の駅名標です。1987年に水軒駅で撮った駅名標とは文字が違うような感じでした。

駅名標と一緒にオークションにかけられていた2002年の岸和田だんじり祭のヘッドマークの使用中の画像です。(2002年9月)

 

高島屋が入っていた頃の旧和歌山市駅ビルです。(2002年6月撮影)

 

今回の旅に戻ります。

旧和歌山市駅ビルの跡地に「キーノ和歌山」という施設がオープンしました。開業日は2020年6月5日でした。

 

キーノ和歌山は、南海和歌山市駅の駅ビル等を建て替える再開発計画に伴い建設された複合商業施設です。南海と和歌山市の共同事業であり、図書館、商業、業務、ホテルなどの公益施設を含む多様な都市機能を充実させ、交流人口の増加とにぎわいの創出を目指して整備されました。

画像の右側が和歌山市民図書館で、中央奥の少し高いビルがホテル棟です。そのホテル棟の手前から左側が商業棟です。

 

開業延期になっていた「カンデオホテルズ南海和歌山」も、今のところは2020年7月3日(金)にオープンする予定です。

この画像の手前の低層階部分がキーノ和歌山の商業棟です。また左奥のビルはオフィス棟の「南海和歌山市駅ビル」です。

 

テラスデッキの上から見た南海和歌山市駅の改札口です。

新しい施設のオープン直後ということで「キーノ和歌山」の利用客もそこそこいました。

 

キーノ和歌山のテラス部分からの景観です。右奥のところが市堀川(しほりかわ)の雄橋(おのはし)です。

 

1969年に雄橋の手前で撮影した南海和歌山軌道線の電車です。

 

「市駅」電停付近の南海和歌山軌道線の電車です。(1969年)

 

今回撮影した「キーノ和歌山」の和歌山市民図書館の入口付近です。1階には蔦屋書店とスターバックスが併設されています。

 

紀ノ川8号踏切を渡って紀ノ川に向かいます。すっかりローカル線状態になっている和歌山市駅を眺めました。

 

国鉄キハ55系の南海仕様車だったキハ5501形の「急行きのくに」号です。(1985年 和歌山市駅)

 

和歌山市

1971年に撮影した和歌山市駅の電留線です。

 

和歌山市

和歌山市駅が始発駅だった紀勢本線普通列車の出発直前の通票(タブレット)授受です。(1971年)

 

和歌山市

和歌山市駅ホームの機回し線に転線する直前のC58です。(1971年)

 

和歌山市

機回しのための引き上げ線上のDF50です。(1971年)

 

機回しを終えて客車に連結する前のC57147(和歌山区)です。最晩年は北海道の苗穂区の所属機でした。

紀ノ川8号踏切から望遠レンズで撮影した画像です。(1971年)

 

今回の旅に戻ります。

紀ノ川の堤防から見た河西橋(かせいばし)です。2023年に新しい橋に架け替えられる予定になっており、すでに新しい橋の橋脚が完成していました。

 

現在の加太線の「和歌山市~紀ノ川~東松江」の紀ノ川〜東松江の区間は戦時中の1944年10月に貨物輸送のために設けられた新線(松江線)でした。

1984年1月末まで、この新松江線ルート(現:加太線)を使った貨物列車が走っていました。これは工場専用線(貨物列車廃止当時の住友金属工業和歌山製鉄所* 専用線)とつながっていたものです。(新ルート開通時点では重量貨物を輸送することができない旧加太線と併存させていました)

*現在は日本製鉄和歌山製鐵所です。

 

左側の橋が加太軽便鉄道の紀ノ川橋梁を人道橋(二輪車まで通行可能)に転用した河西橋(かせいばし)です。

石組みの橋脚が加太軽便鉄道時代のもので、旧北島駅寄りのコンクリートの橋脚は1950年のジェーン台風に破壊された後に建て直されたものだと思います。元々が軽便鉄道用の低規格橋梁でした。(開業時は軽便鉄道でしたが開業当初から軌間は1,067mmです)

ジェーン台風以降は、この旧加太線の和歌山市駅~北島間は不通(その後の運転再開はありませんでした)になり、手続きの上では休止期間を経て1955年に廃止されました。(この区間の廃止後は北島~東松江間は加太線の北島支線として存続していました)

 

2年ぶりに目にした河西橋です。画像の中央が1950年のジェーン台風で傾いた後、接ぎ木状態で使われている珍橋脚です。

軽便鉄道規格の簡易橋梁なので、こういうものだと思います。

1914年(大正3年)9月23日に加太軽便鉄道が、この区間を延伸したときの供用開始ですから2020年が開通から106年目にあたります。

 

河西橋の途中まで歩きました。

 

今回は、橋の向こうまで歩いて行きませんが、この橋の向こうに北島駅跡があります。

加太軽便鉄道の初代・和歌山口駅だった北島駅(ジェーン台風来襲までの北島駅)は、こちらの場所にあったのだと思います。(2018年5月)

旧加太線のうち、北島支線と呼ばれていた東松江~北島間の廃止は1966年12月1日でした。

 

傾いた橋脚が見えてきました。

 

橋の上から見た傾いている橋脚です。

♪心の中の三叉路で 傾いた道しるべ~ 君の~ 愛が ささえています~

 

2018年5月に河西橋から撮影した紀ノ川橋梁を渡る加太線直通の「めでたい電車(ピンク色編成)」です。

 

河西橋から見た和歌山市駅の駅ビルの裏側です。ホテル棟とオフィス棟が目立っていました。

 

紀ノ川8号踏切まで戻ってきたときに紀勢本線の和歌山市駅~和歌山駅間の区間運転電車の227系1000番台がやってきました。

 

2015年7月に撮影した和歌山市内の市堀川に架かっている中橋です。

製造当初は東海道本線の桂川の上り線の橋梁として架設されたトラス橋です。詳細は不明ですが桂川の上り線のものだとすると桂川では1898年から1912年まで使われたものと考えられます。

その後、牟岐線の勝浦川橋梁(徳島市と小松島市の間)に移設され、徳島県の勝浦川で1913年から1950年まで使われた後、1953年から和歌山市内の中橋と新興橋に再転用されました。画像のように橋梁そのものが道路幅に合わせて拡張されています。

 

2019年8月に撮影した同形のトラス橋(中橋と同じ元牟岐線の勝浦川橋梁)です。これも和歌山市内の大門川に架かっている新興橋です。

 

2019年8月に列車で通過したJR四国の牟岐線の勝浦川橋梁です。

 

2018年3月に撮影した東海道本線桂川橋梁(上り線)の現状です。

 

和歌山に来たついでに総本家駿河屋に立ち寄りました。

総本家駿河屋は一旦破産後に2015年3月から新会社として営業を再開しています。

 

2004年撮影した古い写真ですが、大阪府堺市内にある与謝野晶子(鳳 志ょう)の生家跡です。

与謝野晶子の実家である鳳(ほう)家の家業は堺・駿河屋という和菓子屋でした。(今はありません)

総本家駿河屋は京都伏見と和歌山(旧・紀州家御用菓子司 )の2店ですが、京都から分家した大坂(江戸時代)の駿河屋から、さらに暖簾分けされたのが堺の駿河屋でした。

 

和歌山市からサザンプレミアムで難波まで帰ります。

 

同じ特急料金ですが旧サザン(10000系)とサザンプレミアム(12000系)では車内環境に差があり、フットレストがあるなどグレードが高いサザンプレミアム(12000系)のほうが快適です。

 

サザンプレミアムの車内で和歌山の総本家駿河屋謹製の本ノ字饅頭をいただきました。

身に余る(笑)ようなプレミアムなひとときです。

 

大阪湾と淡路島を眺めながら難波に向かっているところです。

(おわり)