特急サザンで行く旅(前編)大阪府泉南郡岬町~和歌山 | 鉄道で行く旅

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先日、大阪から和歌山まで出かけました。

チケットレスサービスで予約していた特急サザンよりも1本前の列車に間に合ったため、画像と同形車の旧サザンの指定席に乗車しました。

(画像は2018年8月に撮影した旧サザンです)

 

今回の特急サザン乗車時の指定席の車内です。この日は日曜日でした。

この10000系の旧サザン編成は近鉄でいえば12200系のような感じですので、設備の古さは否めないと思います。それでも、車内照明や客室とデッキの間の扉の感じは南海らしい『こうや号』と似たデザインです。

新型コロナウイルス感染症の影響により指定席車は1車両あたり2~3名の乗車でした。自由席はそれなりの利用客がいるような感じでした。

 

ダイセル堺工場跡のイオンモール堺鉄砲町の前を通過しています。

 

上り線の高架工事が行われている高石駅を通過しています。

♪南海電車 高石駅を 東へ6分 ブーラブラ

 

南海電車の車内から見た岸和田城と岸城(きしき)神社の境内にある岸和田戎神社です。

 

箱作付近から見た大阪湾と淡路島です。

 

南海電気鉄道の施設としては2020年3月31日に閉演した南海の「みさき公園」です。

大阪府泉南郡の岬町に引き継がれ、岬町の「みさき公園」として再オープンを予定しているということです。

 

みさき公園駅に着きました。

 

多奈川線に乗り換えました。不思議なことに22年前に乗った編成と全く同じ番号でした。

 

多奈川線の電車の最後部から去っていく「みさき公園」駅を眺めました。

左側の画像の説明です。左の信号柱が多奈川線用の場内信号機で進路が3つあります。右が南海本線上り線の場内信号機で、こちらも進路が3つあります。

 

多奈川線は近鉄と南海が戦時合併していた近鉄時代の1944年(昭和19年)に沿線の軍需工場の通勤輸送のために新設された路線です。最初の途中駅である深日町(ふけちょう)駅の駅舎は地上にありますが、プラットホームは盛土式の高架ホームになっています。

 

深日港駅には後で立ち寄ることにして、一旦は終点の多奈川駅まで電車に乗りました。

 

たぶん30年ぶりだと思う多奈川駅です。現在の運行状況から見ると立派な駅設備です。

多奈川駅のホーム屋根の構造は後で説明する深日港駅の増設屋根部分の簡易版のような感じです。

 

多奈川駅の改札口です。同駅の古い写真と比較すると南海時代に新しい駅舎と新しいホーム屋根に作り替えられたような感じです。

 

第二次世界大戦の終戦直後多奈川駅付近の空中写真です。まだ深日港駅はなく、戦時中までの軍需工場の痕跡が残っています。

 

1961年(昭和36年)の多奈川と深日港付近の空中写真です。深日港や深日港駅ができています。

 

多奈川駅から線路沿いの道を歩いて深日港駅まで戻りました。

ちょうど、いいタイミングで多奈川駅発の電車が引き返してきました。

 

1998年8月に同じ深日港駅で撮った画像です。

 

↑あれから22年後の深日港の様子を見に行きました。

深日港の、その後の情報は下記のとおりです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2020年6月10日12時引用
かつては大阪湾フェリーおよび深日海運が淡路島の洲本港への航路、徳島フェリーが徳島航路を運航していた。徳島航路は大鳴門橋の供用開始後に廃止、淡路航路も関西国際空港の開港に合わせて泉佐野港発着に変更された後、廃止された。
友ヶ島への航路も休止されたため、当港を発着する定期旅客航路は全てなくなった。 

その後、岬町と洲本市を中心とした広域交流と観光振興の促進、地域の活性化、大規模災害発生時の物流・人流のリダンダンシー(冗長性)確保を図るために深日 - 洲本航路の復活に取り組んでおり、社会実験として深日-洲本航路の運航を実施している。

岬町観光協会の「深日港(ふけこう)観光案内所さんぽるた」です。

深日-洲本航路の運航時の乗船券は、ここで売っています。

 

2020年6月10日現在は新型コロナウイルスの影響で運休中ですが、昨年までの実績によりますと、春季から秋季(5月頃から10月末)の土日祝日およびお盆期間限定で、一日4往復の運航を行っているようです。

 

船の出入りがない深日港です。(漁港は別の場所にあります)

そのために多数の釣り人が港内で釣りを楽しんでいました。

 

南海電車の深日港駅に戻りました。

駅前の一等地にある岬町役場です。

 

戦中までの軍需工場だった川崎重工業泉州工場の船溜を改修して1948年に深日港が開港したことから、その最寄り駅として戦後の1948年(昭和23年)に作られた駅です。

 

駅舎と木造屋根の間にある比較的新しい屋根は、深日港との乗り継ぎ客のために南海電鉄が後年に増築したものだと思います。
昔の写真では駅舎と木造屋根の間のプラットホーム上には屋根がありませんでした。

 

木造の屋根の部分が、おそらく開業当初からあるホームの屋根です。

 

これも、乗船客が多かった時代に作られたと思われる深日港駅の臨時改札口です。昔の繁栄が偲ばれます。

 

鉄柵で仕切られており、今は使われていない6両編成用に延長されていた部分のプラットホームです。

 

かつては南海本線から急行淡路が難波から多奈川まで直通運転されていました。

1993年まで「急行淡路号」が運転されており、7000系・7100系・9000系・1000系電車が6両編成で難波~多奈川駅間で運行されていました。

画像は1969年にみさき公園駅で撮影した11001系(600V)初期車の「急行淡路」と「急行淡路」のヘッドマークです。

ヘッドマークに千鳥の絵が描いてあるのは、源兼昌(みなもとのかねまさ)の和歌「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」から着想したものだと思います。

 

1970年代の帰省シーズンの四国航路(連絡特急四国を含む)や淡路航路(連絡急行淡路を含む)の人気は凄まじいものだったという思い出があります。

11001系(600V)の初期車による和歌山港行の特急四国です。

 

架線電圧の1500V昇圧後の初代1000系への改造車による特急四国です。(1983年頃)

 

深日港駅からみさき公園駅まで戻り、みさき公園駅から和歌山市駅まで特急サザンの自由席車に乗車しました。

たまたま、やってきたサザンプレミアムに連結されていた自由席車は9000系のマイトレインでした。(この画像は2019年7月撮影)

 

2回目の乗車でしたが9000系のリニューアル車であるマイトレインの車内です。

たしかに、くつろぎ感があるデザインになっています。

 

びっくりしたのが、このメーカー名です。東急車輛の文字が掻き消されてしまっており(笑)、改造会社名のHITACHIになっていたのでございました。

 

紀ノ川を渡っています。南海本線の上り線の紀ノ川橋梁は1903年(明治36年)の単線開業用に架けられたアメリカン・ブリッジ製のピン結合プラットトラス橋3連が中央にあり、そのトラス橋を16連と3連のガーダー橋が挟む形になっています。現役117年の歴史的な橋梁です。

1911年(明治44年)8月に夏目漱石が和歌山市内で講演を行っていますが、そのときは南海本線の紀ノ川橋梁は単線であり、南海本線も電化工事の途中で、この付近は未電化でした。そういうことから夏目漱石は往復とも、現在の上り線の紀ノ川橋梁を蒸気機関車が牽引する客車列車(大阪朝日新聞社が講演関係者一行のために貸し切った臨時列車)に乗車しています。記録によりますと、夏目漱石は特等(当時の南海は特等・並等の2クラス運賃でした)に乗車し、その列車に連結されていた食堂車も利用しています。

(阪和線の前身である阪和電気鉄道は未開業。南海本線は1911年(明治44年)11月に難波~和歌山市の全線電化が完成)

夏目漱石の「行人」からの引用です。

翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車の食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかも中々別嬪がいますぜ。白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯を遣(や)って御覧なさい」と岡田は自分に注意したから、 自分は皿を運んだりサイダーを注いだりする女を能(よ)く心付て見た。然し別にこれという程の器量を有(も)ったものもいなかった。

 

【2002年6月に取材した夏目漱石と和歌山からの抜粋です】

夏目漱石が利用した新和歌浦の「望海楼」跡地

「望海楼」は、新和歌浦の中で最も由緒のある旅館でしたが、バブル崩壊の頃に倒産しました。
夏目漱石が来た頃の「望海楼」は、当時の東洋一の高さを誇る30mの鉄骨製エレベーター「明光台」を設置するなど、勢いのある旅館だったということです。エレベーターは夏目漱石の「行人」にも登場しています。その後、エレベーターは利用客が伸びず、第一次世界大戦のときに世界的に鋼材が高騰したことから、エレベーター施設を解体して再利用資材として売却したそうです。

 

2002年に訪問した和歌山線の岩出駅です。まだ、この塗装の105系が活躍していました。

 

和歌山県岩出市(2006年に市制施行)にある根来寺に移築保存されている旧和歌山県会議事堂を見に行きました。

当時は岩出市ではなく岩出町で、移築された建物も「一乗閣」という名でしたが、建物の老朽化で入館禁止になっていました。

【大阪朝日新聞社の依頼による漱石の関西での講演会は下記の4回でした】

1.1911年(明治44年)8月13日に明石郡公会堂(現在の中崎公会堂)で「道楽と職業」を講演
2.同年8月15日に当時の和歌山県議会議事堂で「現代日本の開化」を講演
3.同年8月17日に堺市立堺高等女学校(現在の大阪府立泉陽高等学校)の講堂で「中味と形式」を講演
4.同年8月18日に大阪の初代・中央公会堂で「文芸と道徳」を講演

 

写真の建物は、明治44年(1911年)8月15日に漱石がこの中で「現代日本の開化」と題した講演を行った建物(注:この建物が和歌山市内にあったときのこと)です。その講演当日、和歌山に台風が来襲し、漱石は講演を無事に終えたものの、暴風雨に足止めされ和歌浦の宿に帰れなくなりました。漱石は「行人」に、この暴風雨の体験を書いています。
この建物のその後ですが、老朽化に伴い、2016年4月に移築復元工事が実施され、根来寺の近くの「若もの広場」の隣に移転し、2016年4月1日から一般公開されています。(画像の左上)
2017年7月に 国の重要文化財に指定されました。

 

和歌山市駅に到着した特急サザンです。

(つづく)