旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

海峡下の電機の系譜【Ⅳ】 交直流機の決定版・EF81の参入(4)

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5-6 EF81の最終形・リピートオーダーの450番代

 1987年の国鉄分割民営化では、各社に必要な車両を必要と思われる最小限の数を継承させました。

 電気機関車の多くを継承したJR貨物には、交直流機はEF81だけが割り当てられました。というより、国鉄時代に開発された交直流機自体が少なく、EF30やEF80は黎明期の車両であるため様々な制約があり、また経年も高くなっていたため継承の対象外でした。

 一方、EF81はその汎用性の高さから、旅客会社にも割り当てられました。

 一部では寝台特急を牽く運用もあり、合理的な車両運用と効率性の高い列車を設定するには、何度も機関車を付け替えるという旧来の国鉄のやり方では、多種多様な機関車をもたざるを得ません。しかしこのやり方では機関車を維持するためのコストもかかり、わざわざ民営化して効率的な経営を目指すという思惑も水泡に帰してしまいます。

 そのため、貨物会社に割り当てられたEF81では、貨物列車を賄いきれない場合は旅客会社にその運転を委託する形を採り、なんとかEF81の所要数を確保することにしました。こうしたこともあり、常磐線日本海縦貫線では、旅客会社に所属するEF81が貨物列車を牽き、そのハンドルは旅客会社の機関士が握るという変則的な運用が存在したのです。

 しかし、いくら委託によって賄うといっても、それには限度がありました。なにより旅客会社としては、自社の機関車は自社の列車に使いたいのが本音でしょう。しかも、機関士まで貨物列車のために回さなければならないというのは、運用の上でも複雑になりがちです。

 貨物会社の立場でも、委託をすればその分だけ委託料を支払わなければなりません。ただでさえ、貨物会社は「線路使用料」として旅客会社に対する支払があるので、持ち出しは可能な限り抑えたいものでした。

 それに追い打ちをかけるようにして、バブル経済の進展とともに貨物の輸送量は増加を続け、それを捌くべく貨物列車は増発を続けました。特に、旅客会社への委託ができない関門間では、手持ちのEF81では足りない状況が続いていました。

 こうした状況を踏まえ、貨物会社はEF81の増備を決めました。EF81は国鉄時代の1968年に開発されたので、設計そのものは比較的古い部類に入っていました。1979年まで量産が続けられていたとはいえ、既に10年以上も経っていたので、それを再び生産するとは工業製品として見た場合、あまり例のないことでした。しかし新型機を開発するには時間もコストもかかることや、そのような悠長なことをいっていられないほど逼迫していたのでした。なにより、これまで使いこなしてきた信頼の置ける車両であれば、現場としても受け入れやすいという事情もありました。

 こうして、鉄道車両史上、あまり例を見ないリピートオーダーとして、先ずは日本海縦貫線用として500番代が、続いて1991年には関門特殊仕様として450番代がつくられました。

 

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 450番代は、基本設計は国鉄時代につくられた基本番代・300番代とほぼ同一とはいえ、電装品を中心とした機器類は時代とともに新しいものも取り入れられました。主電動機は出力こそ変わらないものの、より効率性を増すために軸受にはローラーベアリングを使ったコロ軸受に変更したMT52Cとしました。

 また、貨物列車のみを牽くことを前提としていたので、従来のEF81には客車の電気暖房へ電源を供給するために、主整流器のサイリスタインバータは省略され、同じく電源供給用の回路やジャンパ栓も省略されました。

 450番代には関門用特殊仕様として欠かせない、重連総括制御装置も装備されています。これがなければ、重連運用には機関士が二人必要になってしまいますし、何より関門トンネルでを通過する貨物列車は、車種を問わず機関車の重連は必須です。

 さらに、450番代をもっとも特徴付けたのは、車体前面のデザインでした。

 従来のEF81や民営化後に生産された500番代は、国鉄電機の非貫通型標準ともいえる長細く側面にまで入り込んだ「パノラミックウィンドウ」と呼ばれる前面窓に、前灯は上部左右1個ずつのシールドビーム灯、尾灯は下部左右に1個ずつというものでした。

 ところが450番代はそのデザインを打破するかのように、前灯と尾灯は一体的なケースに収められ、しかも角形になり大きく変わりました。そして、ライトケースに収められた前灯と尾灯は、前面下部左右に振り分けられて配置され、綿々窓上には庇が設けられるなど、柔和な顔つきから精悍なマスクへと変化しました。

 さらに、塗装やナンバープレートの位置も大きく変えられました。

 塗装は同じリピートオーダー機であるEF66 100番代で採用された車体上部を濃淡のブルー、車体下部をライトグレーとしたJR貨物標準色となり、ナンバープレートも前面は運転席窓下にオフセットする形で配置され、側面も助士席側扉脇のルーバー窓下に同じくオフセットする形で配置されました。また、ナンバーは切り文字ですが国鉄時代のように分厚いものではなく、薄いものが使われその書体も国鉄オリジナルフォントから角ゴシック体へと変わりました。

 1992年にはさらに増備として453~455号機がつくられましたが、車体デザインはもとの国鉄時代と同じものに戻ってしまいましたが、これは500番代の構体を流用したためともいわれています。

 新世代の車両に相応しく、運転台には本格的な冷房装置が設置され、機関士の乗務環境を大きく改善しましたが、代わりに従来からあった助士席は廃止されました。もっとも、貨物列車は一人乗務が前提となっていたので助士席は必要なく、何らかの理由で(例えば筆者のように添乗や、機関士見習が乗務する場合など)二人目が乗るときには補助席程度でも十分と割り切ったことによって実現できたものでした。

 いずれにしても、バブル期の逼迫する貨物輸送量を捌くべく誕生した450番代は、EF81ファミリーの中で最も車齢が若い車両です。とはいえ、既に30年近くが経っているので、それなりに老朽化も進んでいることでしょう。

 唯一の救いは、製造当初から幡生ー門司・北九州貨物ターミナル間という短距離運用が主だったため、走行距離は他のEF81に比べて少ないと推測されます。九州島内専用機ともいえる交流機ED76が老朽化によって退いていく中、その代わりとして九州における貨物列車の先頭に立ち、関門での任をEH500に託していくのは300番代や400番代と同じですが、その活躍はもうしばらく続くことでしょう。

 いずれにせよ、交直流機の決定版ともいえるEF81は、その汎用性と性能の高さは、過酷な環境ともいえる関門トンネルでの運用も難なくこなせたのだといえるでしょう。そして、そのDNAは新世代機である交直流機にも受け継がれていきます。

 

6.関門海海峡編の終わりに

 長らく関門海峡を渡ってきた電機たちのお話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 関門海峡自体はその幅は短く、道路では中国自動車道九州自動車道を結ぶ関門橋を架けることができ、関門トンネルは今日ほど技術が発達していなかった戦前につくられたことからもそのことを証明しているといえます。

 翻って鉄道にとって海峡を越えるというのは、非常に困難が伴うもので、かといって両岸を他の交通手段で代替するのは労力も時間も、そしてコストもかかります。鉄道はそうしたことを解決できる手段なので、海峡下をトンネルで結ぶというのは重要なことだといえます。

 とりわけ関門海峡は筆者にとって思い入れのあるところです。

 高校を卒業し、貨物会社に入社した最初の任地でもある門司であったことが大きく影響しています。寮の部屋からは関門海峡を望むことができ、夜になればライトアップされた関門橋も見ることができました。

 また、仕事で門司機関区などに出勤すれば、そこには幼き頃に雑誌や本でしか見たことがなかった機関車たちが、目の前で、それも手で触れることもできるところから見ることができました。中でもEF81は筆者にとっては思いが深く、添乗で門司と幡生を往復したときは、トンネルを抜ければそこは「本州」だったことに改めて驚き、同時に故郷である川崎に在る新鶴見のPFの姿を幡生で見たときには、何ともいえぬ思いがこみ上げてきたものでした。

 いずれにせよ、日本の大動脈の一つともいえる山陽本線鹿児島本線を結び続けた門司の電機たちは、人や物流にとってはなくてはならない存在ともいえます。

 今日では新鋭機EH500にその役割を譲りましたが、EF81も当面は活躍が続くとは思われますが、最期の日まで無事故で走り続けてくれることを願うばかりです。

 (次回はEH500ですが、こちらは津軽海峡編と一緒にお届けします。)

 

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