もはや風前の灯火と化しているDD51形ディーゼル機関車。

今は状況が変わっているかもしれませんが、2020年5月現在で旅客会社、貨物会社合わせて残存しているのは15両 (旅客会社10両、貨物会社5両) ですが、製造総数649両を考えると残存率2%ちょっとで、特にJR貨物所有機は、DF200の置き換えが進んでいるため、いつ全廃されてもおかしくな状況下にあります。また、旅客会社もJR東日本とJR西日本に残っていますけど、当然、定期運用は無く、工臨の牽引や団体臨時列車の牽引でたまにオファーがかかるといった具合。昭和40年代にSLをその勢力で追っ払ったことで、SLファンの憎悪を一身に浴びたDD51。 「ヤキが回ってきたんだ」 と捉える “団塊の世代ヲタ” は多いのではないでしょうか。私は大好きな機関車の一つですけどね。

 

画像は奇跡的に今も残存している中の1両、842号機です。

牽引されるのはおそらくスロ81系和式客車。側面のグリーン帯が消されているので、昭和50年代半ばの撮影と思われます。スロ81は大阪や東京南を始めとする、7つの鉄道管理局が所有しており、いずれもスロ62系から改造されました。このうち、大阪と東京南は12系並みに側面に白帯が2本巻かれていますが、それ以外は前述のグリーン帯が1本巻かれていました。さすがに門司鉄道管理局の車は来ないと思いますので、金沢、名古屋、静岡、長野のいずれかだと思われますが、842号機の縄張りから、総武本線や外房線といった、千葉鉄道管理局内の路線ではないかと思われます。

 

平成生まれのお子ちゃま鉄道ファンにとって、842号機というと 「お召し列車牽引機」 というイメージが強いかと思いますが、実際、842号機は新製から今までお召し列車を4回も牽引しています。そのうちの3回はJRになってからなので、余計に 「お召し機」 と形容するのだと思います。でも、国鉄時代は千鉄局管内で貨物列車を黙々と牽引するのが日課で、SG無しの貨物用機が “本当の姿” になります。

昭和46年2月 (昭和45年度民有車両) に日立製作所で新製された842号機は、佐倉機関区に配置。最初から常磐線用列車無線を装着してたようなので、 「成田臨」 を始めとする成田山新勝寺への参拝輸送にも充てられたと見られます。画像にもそのアンテナが写っているのが見えます。

国鉄時代唯一のお召し列車牽引は昭和48年10月12~16日で、千葉県で行われた秋季国体、 「若潮国体」 に臨席される際にお召し列車が運転されました。原宿⇔新宿間はEF58が牽引しましたが、10月12日新宿→館山、同13日勝浦→本千葉、同15日成東→銚子、同16日銚子→新宿 (佐原経由) で運転され、いずれも842号機が牽引しています。

 

国鉄分割民営化を前にした、昭和61年11月に佐倉から高崎第一機関区に転属し、民営化の際はJR東日本に継承されます。以降の活躍や知名度は皆さんの方がよくご存じかと思いますので、ここでは割愛しますが、 「お召し機だから」 残存したのかもしれませんね。出で立ちもお召し仕様になったり、一般仕様に戻ったりと目まぐるしく変化しましたが、平成5年の全般検査で再度、お召し仕様にされてからはこの仕様で通っているみたいですね。

 

千鉄局管内は殆どが電化されていたにもかかわらず、佐倉機関区の配置機関車はディーゼル機関車ばかりで、無煙化の前は蒸気機関車が配置されていました。鹿島臨海鉄道や京葉臨海鉄道への乗り入れ、千葉にある川崎製鉄の専用線、総武本線貨物線 (通称:越中島貨物線) へスルー運転するために、ディーゼル機関車が配置されたのだと思われます。金町から新金線に乗り入れて千葉や越中島方面に向かう貨物列車は、新小岩操車場で佐倉配置機に付け替えました。蒸機全盛時は佐倉の他に新小岩や千葉にも機関区があって、その中枢だった新小岩操車場はかなりの賑わいだったと聞いています。

そんな新小岩も、機関区や操車場は消え去り、今は方転する貨物列車がしばしの休息をとるヤードがあるだけで、ディーゼル機関車も越中島貨物駅改メ、越中島レールセンターから運び込まれるロングレールの運搬に駆り出されるだけで、当然、DD51の姿は無く、DE10がその任に就いています。

 

【画像提供】

タ様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアル No.972 (電気車研究会社 刊)