民鉄の覇者 東京急行電鉄 47、第一次伊豆・箱根戦争⑤(実践) | 犬と楽器と鉄道模型

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民鉄の覇者 東京急行電鉄 47、第一次伊豆・箱根戦争④(芦ノ湖戦争勃発)
 
芦ノ湖畔の箱根町では、戦時中の燃料統制に伴い、駿豆の遊覧船が寄港しなくなっていた上、熱海と元箱根を結んでいた駿豆も、「停留所に乗客が居なかった」
と言う理由でしばしば箱根町を素通りしていた。
 
元々、堤康次郎は、初めは箱根町に着目していたのである。
しかし、この頃既に土地を買い占める堤康次郎の噂が広まっていた。
 
「堤が買いに来る前に買い占めておこう」
と考える地元の業者も出現していた。
 
さて、康次郎が土地を購入しようとした頃には、箱根町の土地の殆どが他の業者に依り、買い占められていた。
康次郎はある程度の土地を取得したが、「箱根町は止めて元箱根の土地を買う事にしよう」
と、その拠点を元箱根に移してしまっていた。
 
要は箱根町は康次郎から見放されたのである。
箱根町は寂びれる一方だった。
 
「これではいけない」と、箱根町で旅館を経営する有力者達は、仙石原の有志と共同で新たに遊覧船を運航する船舶会社の設立を計画した。
これに目を付けた小田急と箱根登山は、駿豆の対抗馬とするのである。
 
1950年3月、箱根観光船が設立された。
海上運送法の適用下では免許許諾が難しいと観た箱根観光は20t未満の小型船舶に依る運航を目論む。
 
当時、20t未満の小型船舶であれば海上運送法の適用外となったからである。
関東海運局では駿豆との間で営業協定を結ぶ事を要求し、駿豆も当初は反対したが、あくまで安全協定として承諾した。
 
1950年8月、箱根観光船は、湖尻桃源台と箱根町を結ぶ航路の運航が開始され、駿豆の湖上交通の独占は破られる事となったかに見えた。
しかし・・・箱根観光船の利用者は閑古鳥状態であった。
 
多くの観光客は箱根神社のある元箱根へ行くからであった。
箱根観光では、元箱根にも寄港する計画を立案したが、駿豆は安全協定に違反すると反対した。
 
そこで、箱根観光と駿豆の両社立会いのもと、関東海運局に現地調査を依頼する事になり、両社の桟橋が100m以上離れていれば安全上問題ないと言う回答を得た。
1950年12月、駿豆の桟橋から100m箱根神社側に寄った位置に桟橋を設置する事案を神奈川県に申請したのである。
 
しかし、ここは富士箱根国立公園内であり、厚生大臣の許可が必要な区域であった。
元箱根村も桟橋の設置には反対した為、箱根観光は厚生省への申達を出さなかった。
 
さて、観光シーズンが近づいた事に焦った箱根観光は、事もあろうに勝手に桟橋の建設を計画する。
1951年5月、無許可で桟橋が出来上がったのだ。
 
この箱根観光の違法建築を知った駿豆側が激怒する。
流石に、この違法建築は、神奈川県も放置する事は出来なかった。
桟橋の撤去を箱根観光船に命じる。

しかし、箱根観光では桟橋の撤去を拒否した為、神奈川県の強制代執行に依り桟橋は撤去された。
神奈川県は厚生省と相談し、元箱根に共同桟橋を建設する案を提示するが、駿豆は断固として拒絶したのであった。
 
致し方なく、県は駿豆の桟橋の西側に箱根観光の桟橋を設置する事を認める。
1953年6月、ようやく箱根観光船も元箱根に寄港出来る様になったのである。
 
 
(次回は相鉄に地団駄です)