越後の夏旅(1990年8月) | 鉄道で行く旅

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今回は1990年8月(平成2年)の夏休みの旅です。

このときは大阪から東海道新幹線と上越新幹線(上野駅発着時代)の越後湯沢経由で越後田中駅に向かいました。

飯山線の越後田中駅付近(1990年8月)

キハ40系の塗装は当時の飯山線色です。車側の下部に大きな文字のフランス語で「VOITURE AMITIE(友情の列車)」という文字が書いてありました。この文字は1995年頃に消され、塗装も1997年頃に消滅したのですが、2017年にキハ110の一部車両でJR初期「飯山線色」リバイバル塗装として復活したそうです。(←私はまだ見ていません)

 

【1990年の春に撮った参考画像です】

この同じ年の1990年の春(今回の記事の撮影日の約3カ月前)にも飯山線に乗車しました。ところが、そのときは大阪から急行ちくまのB寝台で長野駅に出て、飯山線全線と只見線全線に続けて乗車しました。いわゆる『乗り鉄』をしただけでしたので、乗り継ぎ時間の都合で下車した只見線只見駅以外の途中駅では降りていません。

1990年春に飯山線の列車内から撮影した森宮野原駅のJRの日本最高積雪地点です。標識は7.85mを示しています。

 

1990年春に全線を乗車した只見線の越後須原駅です。越後須原駅は1992年に列車交換施設が撤去されていますが、このときは列車交換駅でした。後方の残雪がある山は守門岳(すもんだけ)です。

【1990年春の参考画像はここまでです】

 

1990年8月の2度目の飯山線訪問の記事に戻ります。

少年時代にNHKの「新日本紀行」の「豪雪地帯を走る飯山線(←記憶のまま書いています)」の映像を見たことから、一度は下車してみたかった越後田中駅での下車が旅行の目的でした。(1990年8月)

越後田中駅の当時の駅名標です。シンプロントンネルとは少し違いますが、やっぱり感動の瞬間の一コマです。

 

1990年当時の越後田中駅の駅舎です。現在の駅舎は、さらにコンパクトな駅舎に建て替えられているようです。

 

多くの人が歩いた痕跡が残る、当時の待合室の床です。コンクリート床ではなく昔ながらの漆喰(しっくい)を塗り固めたような床でした。

 

待合室の『家の光』

越後田中駅の待合室に置いてあった近隣からの差し入れと思われる本や雑誌です。『家の光』が置いてありました。

私が初めて就職した会社の和歌山県出身の先輩の家業が農家だったため、その先輩から「家の光はJA(農協)グループが出版している家庭雑誌なので一般書店には置いていない」ということを教わった思い出があります。それまでは『家の光』を全く知りませんでした。

 

せっかく出かけた飯山線ですが、すでにC56の姿はありませんでした。(参考画像・2019年12月撮影)

昔、リバイバル上映で見た映画ですが、舟木一夫と和泉雅子が出演していた日活映画「北国の街(1965年公開)」の撮影地が飯山線の沿線でした。映画の舞台の中心地は十日町ですが舟木一夫は小千谷高校に通学しており、和泉雅子は小千谷の女子高校に通学しているという設定でした。

その映画の中では、貨車と客車の両方を連結する「混合列車」をC56が牽引していました。また高校生であるところの舟木一夫が満員の通勤通学列車の旧型客車のデッキの乗降口にぶら下がって通学していました。今では信じられない光景ですが、この映画の時代にはそれほど不自然ではないシーンでした。映画「北国の街」は「青春映画」というジャンルであり「コメディ映画」ではありませんでした。

 

1990年8月の旅の話に戻ります。

越後田中駅付近で少しだけ列車を撮影していました。

無警報無遮断の第4種踏切の標識にピントを合わせています。車両はキハ52です。

この日はフェーン現象のため、記録的な猛暑でした。当時の記録を調べたところ新潟県の最高気温が37.8度になっていました。

 

背中が焼けつくような日差しの中で撮影した信濃川と飯山線のディーゼルカーです。

この津南町には、信濃川が生んだ九段に及ぶ段数を持つ日本一の河岸段丘があります。

 

上の画像の部分拡大です。キハ40系の車体にVOITURE AMITIE(友情の列車)」の文字が書いてあります。

この後、越後川口駅と浦佐駅を経由して、浦佐から新潟まで新幹線を利用し、その日の夜は新潟市内のホテルに宿泊しました。

 

翌日です。

2日目は帰路なので、おそらくフィルム代をケチって残りのコマ数を気にしながらの撮影だったのか、鉄道写真を撮っていませんでした。その2日目は新潟駅から越後線に乗って出雲崎に向かいました。

このときに吉田駅を過ぎてからの越後線の架線が直接吊架式になっていることを目で確認しました。

出雲崎駅で下車しました。この日も猛暑でした。

駅から歩いていった記憶がないため、おそらく出雲崎駅から海岸までの往復はタクシーを利用したはずです。

 

真夏の日本海です。出雲崎に行ったのは、この数年前に水上勉さんの「良寛」を読んだからだと思います。

 

1922年(大正11年)に建てられた良寛堂です。

 

出雲崎の良寛像です。良寛は江戸時代後期に出雲崎で生まれた人です。(1758年-1831年)

 

良寛は曹洞宗の僧侶になり、歌人・漢詩人・書家としても有名です。号は大愚でした。

無欲一切足 有求万事窮 (欲無ければ一切足り 求むる有(あ)れば万事窮(きゅう)す)

 

出雲崎から越後線で柏崎に出て、その後は特急北越と特急雷鳥を乗り継いで大阪まで帰りました。

↓1990年の翌年の1991年5月に高岡駅で撮った画像です。

左が485系のスーパー雷鳥で右が485系の北越です。特急北越の先頭車はクロ480の1000番台です。

 

特急雷鳥です。

 

【特別付録】

思い出の『北陸の旅はだんらんで』

サシ481改造サロ481の500番台の特急雷鳥用和風グリーン車「だんらん」です。一般車のカーテンのところが雪見障子になっていました。

北陸の旅はだんらんで』という大きなスローガンが東海道本線の吹田駅付近に掲出されていたことを覚えています。

これに乗って北陸の温泉まで行くという家族旅行を計画したことがあります。ところが家族から猛反対(北陸に行くのならクルマがいいよという理由)を受けてしまったため、それは実現せず、短命に終わった「だんらん(1985年3月~1989年3月)」に乗る機会は一度もありませんでした。「だんらん」の失敗理由は、個室ではなく相部屋のような低い衝立の仕切りだったことに加えて、家族客やグループ客には「座敷」がそれほど好まれなくなってきていることを旧国鉄がつかんでいなかったという点だと思います。

(おわり)