D51ー797 | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

D51ー797


各地での非常事態宣言も今日、全面解除される予定ですが、普段の暮しが戻るのは、まだまだずっと先にはなるでしょう。

ゴールデンウィークが終って20日以上経って、連休中の自粛が最大値の効果を上げた結果となりました。

自粛解除が始まって、この方法が正しかったのかどうかは、やはり同じく2週間~20日を経過しないと、今の正しさは答えが出ません。


プロ野球も開幕に向けて動き出しましたし、その他にもイベントの開催について、模索が始まっているようです。

鉄道界でも会社内で方法論が思考されているらしいですが、今のところ具体的なことは表に出てきていません。

地域振興と観光集客を目的とされた列車も、先のことは不透明で、JR西日本山口線の"SLやまぐち号"の運転再開も未定なままです。


長らく蒸気機関車の記事も書いていないし、そろそろ欲求不満も溜りつつあるので、新山口駅前にある、D51の動輪について語ってみます。

新山口駅新幹線側の駅前に、動輪が保存されているというのは、随分前から知ってはいましたが、実際に初めて訪れたのは2018(平成30)年でした。

それは5月6日、雨の降るC56-160号機のラストランの日でした。


当時の記事でも記していますが、D51ー200号機が牽引する通常の"やまぐち号"は、どんよりとした空模様の中、津和野へ向けて発車して行きましたが。

"ありがとうC56号"が新山口駅へ到着する頃には、重く冷たい涙雨が強く降りました。

その待ち時間に雨の中、小走りに行ってみたのですけど、その時には写真のように残念な状態でした。



駅前広場の整備工事中で、白い囲いが建てられており、隙間から第1動輪と第4動輪が、辛うじて見える程度。

傘は持っていなかったので、ずぶ濡れとなりながら、第4動輪は文字通り白幕の隙間から覗き盗撮(笑)

第1動輪は、頑張ればそばまで行けそうだったので、近寄って撮ってみました。


これは、これ以上頑張っても意味は無いので、またいずれ来れば良いと、雨以外に当たる度に落ちて来る木々の葉からの水滴の雨で。

服を着たまま泳いだのか?みたいな状態となりながら、駅の中へと戻りました。

しかしその年に再訪することはなく、新山口駅には何度も訪れていたのですが、保存動輪を次に訪れたのは、1年以上経った2019(令和1)年の11月23日。



昨年の"やまぐちSLフェア"からの帰りに、新幹線ホームへ上がらずに反対側へ抜けて、訪れました。

それがこの"新幹線開通記念・小郡町 日本国有鉄道"の記念碑の写真です。

冒頭のD51 797のプレートと共に撮りましたが、ここからはその時の写真です。


このD51ー797号機は、落成当初は山陽本線の広島エリアで活躍し、その後は呉線、伯備線~山陰本線、そして最後は山口線~山陰本線と職務をこなした機関車。

広島、岡山、米子、下関と中国5県で生涯を過ごし、長門機関区でその生涯を閉じました。

廃車後はしばらく長門区へ留置されていたようで、1975(昭和50)年に小郡駅へ新幹線の駅が開業するにあたり、動輪の保存機関車として白羽の矢が立ちました。


この記念碑ができたのが山陽新幹線が全通した1975(昭和50)年10月1日なのか、それとも後に造られたものかは判りません。

ただ、製作当時は機関車から外されたプレートを今のコンクリート台座に埋め込んでいたそうですが、2003(平成15)年9月末~10月2日の間にかけて盗難に遭い、現在の物はレプリカとなっています。

7月22日には「第2回SLまつり」も開かれており、その時に目をつけられていたのかも知れません。


4つの動輪が乗るレールは1966(昭和41)年製のN50キロレールで、こちらも貴重な文化財です。

と、前置きも長々とつづりましたが、恒例の履歴書を記していきたいと思います。

1943(昭和18)年3月26日に三菱重工業神戸造船所にて製造№366として落成し、広島鉄道監理局広島機関区へ4月1日付けで新製配置されました。


各種テストや試運転を経て4月7より使用開始され、広島機関区の組織改編によって4月20日付けで広島第一機関区の所属となります。

終戦は広島で迎えましたが、運用の関係で8月6日には広島市内へいなかったため、被爆はしていません。

ポツダム宣言受諾後日本の鉄道は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下におかれ、国私鉄共に連合軍専用列車などの輸送は全てにおいて優先とされ、戦後復興低迷の原因となっていました。



日本国有鉄道法が施行される1年前となる1948(昭和23)年7月改正は、戦後復興の勢いを加速させるもので、全面的に列車の配列や時刻を見直し、戦後初で鉄道省最後の白紙ダイヤ改正でした。

ダイヤ改正から5ヶ月強経った12月25日には、糸崎機関区へと転属して山陽本線の列車も担当しつつ、呉線の輸送力強化の任を与えられます。

そして近代化の足音が聞こえ始めた1955(昭和30)年7月13日、山陽本線の電化を見据えた配置転換で新見機関区へと転属します。


1958(昭和33)年7月1日~31日の1ヶ月、第一種休車指定と解除が繰り返され、1959(昭和34)年には後藤式集煙装置が取り付けられました。

長野式を搭載していた新見機の中で、後藤式を搭載していたことは異彩を放っていましたが、1960(昭和35)年12月6日にはタブレット受けも取り付けられました。

新見区時代には岡山から米子を中心にした山陰本線の業務をこなし、伯備線では有名な三重連も演じて1973(昭和48)年まで、約18年間を過ごします。



1973(昭和48)年4月3日付けで山口線管理所へ転属し、山口線最後の蒸気機関車による運行体制を支え、貨物列車や旅客列車を牽引しました。

新幹線開業を見据えた動力近代化を推し進めていた国鉄は、9月30日付けで山口線の定期列車と、小郡駅構内入換の無煙化を完了し、10月1日より蒸気機関車を廃止。

797号機は予備機として山口線管理所へ残り、津和野~益田間の臨時列車を時折牽引することがありました。


詳細時期は不明ですが、しばらくして山口線管理所に車籍を残したまま、長門機関区に常駐するようになり、10月30日をもって正式に長門区へ車籍は移り、山口線から蒸気機関車の完全撤退となりました。

長門区でも山陰本線の動力近代化の波は押し寄せており、約1年3ヶ月の間ですが下関~浜田間や美祢線で最後の勤めを果たし、1974(昭和49)年11月を以て蒸気機関車の定期運用は終了しました。

定期運用終了後も予備機として構内で勤めをこなし、1975(昭和50)年1月24日付けで廃車となりました。


長門区は当時、全国から検査の残った機関車が集められており、中央本線や関西本線などからの重装備転属組も多く所属していましたが、797号機は広島エリアの山陽本線・呉線を始め、伯備線での三重連そして最後の山口線の蒸気機関車であったことから、ここ新山口駅前にて動輪が保存されることになりました。

山口線管理所は以前は津和野機関区と呼ばれており、山口線から蒸気機関車が消えて約6年後に、やまぐち号として再び蒸気機関車の煙りは帰って来ました。

D51に関しては、797号機が津和野を去った後、200号機が帰って来るまで約45年を要しましたが、コロナ禍の影響で運行は休止され、再びやまぐち線へ汽笛が鳴り響く日が早く帰って来るように・・・。


臨時快速"ありがとうC56"号・C-56-160号機最後の新山口駅入線

尚、いつものように現役の写真はJE2DMLさまから拝借させていただいております。

最後のムービーはタイトル通り、C56-180号機ラストランで、新山口駅へ入線するシーンです。

因みに長門区の山陰本線SLさよなら列車は、1975(昭和50)年1月12日にD51-720号機+D51-612号機による重連で、長門市~下関間を往復しました。

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タップダンス、見たことある?

タップダンスの日


今日はタップダンスの日。

タップダンスと言えばチャールズ・チャプリン。

ヒゲダンス は志村けんさんですね。

足首だけで、爪先とかかとで音楽を奏でるんですから、凄いですよね。

「タップの神様」と呼ばれたビル・ボージャングル・ロビンソンの誕生日にちなみ、毎年5月25日が「National Tap Dance Day」となっているんだそうです。

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