広島駅周辺の広電電車 2020-4 -④ | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

広島駅周辺の広電電車 2020-4 -④


今回も、猿猴橋町界隈で4月5日に撮影した、広電電車の写真です。

毎回、この広島駅周辺の広電電車シリーズは、日本史・・・と言うか郷土史の側面が強いのですが、今回はちょっと語ってます。

前回の記事では不完全燃焼だったので、猿猴橋から西国街道について、できるだけ簡略化したのですが、それでも歴史に興味の無い人には、長~い文章かも知れません。


この図は国立公文書館内閣文書庫蔵の安芸国広島城所絵図という、1644(寛永21)年頃の広島地図の内、八丁堀・銀山町・稲荷町・的場町・猿猴橋町の界隈を切り取ったものです。

そこに現在の広島市地図から、広島駅周辺の線路を貼り付けて、広島電鉄の市内線を描いてみました。

江戸時代の地図の尺度が現代ほど正しくないので、多少の誤差がありますが、イメージ的にはこのような配置となります。



3800型のこの2枚の写真は、地図では猿猴川を渡って急カーブを曲り、直線へ立ち上がって猿猴橋町電停へ向かう位置です。

地図へ何も描かれていないのは、江戸時代にはこの付近は広大な野原だったからで、広島駅も鉄道基地も、砂州ではない原野に造られた事が伺えます。

今ではビルが建ち並んでいて、とうてい想像もつきませんね。



地図は文字が見にくいと思いますが、稲荷町付近には町家が広がっており、その中に"寺"の文字が1軒見てとれますが、これは浄土真宗の広寂寺というお寺で、現在も同じ場所にこのお寺はあります。

さて、荒神橋を渡って来るのはMAX・5100型で、急カーブを曲り広島駅へ向かうのは5000型GMですが、まだ非常事態宣言が出される前だったのですが、コロナウィルスの影響で車の通行量が驚くほど少くて、スッキリと電車だけ撮ることができました。

特にGMは画角的にギリギリで、猿猴川沿いの桜と、猿猴橋町電停の先にまだ現存する広島駅ビルを、1枚に収められたのは奇跡のようです。



普段は車の交通量がかなり多い幹線道路なので、どこかが車に邪魔されているか、撮影中に後ろから車が来るかで、来年の春には交通量も戻ってるだろうし広島駅ビルも無いので、次はこの場所から絶対に撮れないだろうカットとなりました。

続いては荒神橋の親柱横から、カーブで離合する電車を撮りましたが、ここからだと交通量が戻っても、タイミングさえ合わせれば、撮れるシーンです。

3連GLの3800型と単コロの800型が、兄弟形式で離合してくれました。



荒神町の由来は三宝荒神さまから頂いた町名ですが、猿猴川と猿猴橋町の猿猴(えんこう)とは何でしょう。

それは古代には葦の生えた沼地だった広島の三角州 が、平安時代には湿原となっており、奈良時代に整備された旧山陽道が、この地を避けて造られていたことから端を発するようです。

戦国時代には毛利元就(もうりもとなり)公が、この広島の地へ築城したいと願い、埋め立て事業で城と城下町を造ったのは、安土桃山時代に孫の毛利輝元(もうりてるもと)公となってから。



それまで戸坂~大町を迂回していた西国街道(旧山陽道・中世山陽道)を、広島城下を通過するように新道が建設され、毛利氏が長州転封された江戸時代以降、広島城下の町は発展しましたが。

地図で判る通り、西国街道の猿猴橋付近は山陽本線が広島まで開通するまで未開の地であり、広島の成り立ちを知る者から、あの川には水の妖怪が棲んでいる・・・・と言う、江戸時代の怪談から来ています。

そう、猿猴とは広島弁でいう河童のことでした。



が、この伝説には他に一説があって、そもそも河童を連れて来て住まわせたのは、毛利元就公だという話しも。

猿猴橋が最初に木橋として架橋されたのは、広島城下の町が造られ始めた頃で、建設当時は猿郎(ゑんろう)橋と名付けられていたことから。

毛利氏旧居城の吉田郡山城には傍に可愛川があり、その川に猿郎の河太郎(がたろう)という妖怪がいて、その妖怪を東の守りに住まわせたことから、猿郎橋と名付けた・・・・と、いうものです。



土蜘蛛などのように日本神話にもよくあるケースなのですが、何らかの集団を毛利元就公はこの近辺に住まわせていたのかも知れません。

毛利元就公は知略の武将でしたし、ひょっとすると歴史の表舞台にまだ記されていない、忍者みたいな一族だったとか。

本当に妖怪が住んでいたのか、諜報部員のような忍者が住んでいたのか、想像してみるのも楽しいです。

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小学校といえば何を思い出す?

小学校開校の日


さて、ラストの写真は猿猴橋町電停へ入線する800型ですが、その上の2枚は線路側から見た猿猴橋と、猿猴橋側から見た電車です。

電車の奥には山陽新幹線の高架も見えますが、この通りが西国街道です。

元々の西国街道(旧山陽道)は湿地帯だった今の広島市街地を避けて、戸坂~大町(どちらも現在JRの駅がある)を迂回していたのは前述の通りなのですが。


西国街道の呼び名を、どの時代を以て切り替えるのかは、まだ決着がついていません。

広島城と城下町を建設するにたり、物資の輸送の必要性から当時の猿郎橋(現 猿猴橋)が架橋されましたが、この時点ではあくまで建設用の専用道でした。

関ヶ原の戦いがあり、毛利氏の長州転封後に広島城主となった福島正則(ふくしままさのり)公の時代に、広島城下を通過するコースが街道整備されました。

福島正則公の改易によって浅野長晟(あさのながあきら)公が広島城主となり、1635(寛永12)年に参勤交代が義務化されると、浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなりました。


これにより、毛利氏と福島氏の時代の城下町ルートは、あくまで城主の私道であり、朝廷が造らせた戸坂~大町ルートが国道であるとの見解から、西国街道の切り替えは江戸時代だったというのが一般的になっています。

江戸幕府の令によって、公に使用されるようになったことが、城下町ルートの国道化=西国街道になったという理屈ですが。

この理論からすると関白であった豊臣秀吉(とよとみひでよし)公が朝鮮出兵の折り、名護屋城へ向かう際に日本軍を率いて城下町ルートを行軍していますが。

朝廷ではなく時の支配者が公に認めた道が国道ならば、毛利氏時代には既に城下町ルートは当時の国道として機能しており、西国街道は広島城完成をもって切り替えられていたとする意見もあります。


そして幕末の長州征伐の際に幕府軍は、城下町ルートではなく戸坂~大町ルートを行軍しているので、その理論からすると西国街道は城下町ルートが明治時代に国道4号線に指定されるまで、城下町を通っていないという見解もあるようです。

私個人的には、豊臣秀吉公が広島城へ立ち寄り、厳島神社を参拝した城下町ルートが安土桃山時代には既に、西国街道であったという論文を支持したいですね。

その理由は、現在の広島城は核攻撃によって倒壊全損し、戦後に規模を縮小して再建された天守閣で、毛利輝基公が築城する際には大阪城をモデルにしていました。

豊臣秀吉公と言えば羽柴秀吉時代の中国大返しも有名な逸話ですけど、この時に秀吉公は織田信長公を備中高松城の水攻めへ招いており、その過程で信長公は暗殺されました。


当初の予定では信長公は備中高松城へ出向いているはずで、そのために秀吉公はその後の東海道のモデルとなる広幅員の道を敷設し、街道松も植えていたそうです。

信長公の威厳を中国地方の人々に見せつけるため、天下人が西下するに相応しい高規格路を造り、そして自分を信長公へ更に売り込むための壮大な建設事業でした。

輝基公が秀吉公に倣って広島城を設計させたのなら、輝基公は秀吉公と同じことを秀吉公自身へも行ったと考えられ、中国5県の領主である威信を見せつけたはずです。

なので、秀吉公が信長公のために造った道から、その規格で下関まで繋げたものと考えられます。


全区間の内、旧山陽道のまま使用する区間は、道幅拡張と路面整備を行ない、新道建設する区間は高規格で設計させたと思われます。

ならば、広島の戸坂~大町ルートと城下町ルートの分岐路において、広島城下を通る道路は既に高規格であったと考えるのが自然です。

だから秀吉公は安心して全軍を城下町ルートで行軍したのだと考えるのが私の持論であり、安土桃山時代切り替え論の支持理由です。

さて、サラリと言い流しましたが、明治時代になって国道制度が制定された時には、国道2号線は東京~大阪港を結ぶ路線で、広島を通る国道は4号線と命名されて、終点は長崎でした。


国道制度制定とは言え、道路整備の近代化や一元管理のために導入されたものの、時代的に自動車による輸送・運輸は皆無に等しい状態。

日本は欧米の列強に追いつき、先進国の仲間入りを国家の目標と掲げていたので、高速大量輸送を実現する鉄道建設に力を入れていました。

なので、東京日本橋から横浜港・大阪港・神戸港・長崎港・新潟港・函館港の6港を結ぶ道路を一等国道として幅員12.7m、その他に二等国道を10.9m、三等国道を9.1mと定めたのみで、江戸時代の各街道がそのまま国道指定されました。

さて、今日は小学校開校の日だと言うことで。


『小学校で好きだった授業は?』の設問への回答とはならないのですけど、教師という人種に幻滅したのが小3の時で、その後の人生に1番影響を与えた事件がありまして。

今なら体罰は大問題ですが、当時は当り前に存在していて、担任(女性)が加害者に加担して被害者の言い分を聞かすに、いきなり殴った(驚)

その後、回りの目撃したクラスメイトらの証言によって、担任の間違いが明るみになるものの、自分を正当化してその生徒には絶対に謝らなかったのですが、正義を通した教師(男性)もいて、その先生は教育委員会から転校(転勤)を強制されたというお話しです。

その後の小学校3年間と中学校3年間においても、大なり小なり似たようなことはあって、教師って裸の王様と言うか、人間としてのレベルは底辺の人種なんだなぁと勉強しました。


今の様々な学校を中心にした事件をニュースで見ると、いまだに学校には全国的に正義というものがないんだなぁと感じます。

まぁ、正義ということばには定義がないので、仮に『それが教育現場の正義だ』と言われれば、開いた口が塞がらないまま言い返すことはできないんだけど。

ということで、本文以降の写真は2009(平成21)年に撮影した広島駅前を発車して猿猴橋町電停へ向かう2000型と、2004(平成16)年に撮影した猿猴橋町界隈の写真、そして広島駅周辺ではありませんが、1999(平成11)年にグリーンムーバーがデビューする前の、試運転の姿です。

猿猴橋町界隈の写真は、厳島神社から海田市まで宮島往環と西国街道を歩いてみた時の写真ですが、わずか16年の間に掲載した建物の9割が建て替えられて、今は存在していません。

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