相模鉄道の相模大塚駅からかつて、近隣の厚木基地まで専用線の廃線跡があることはマニアには有名な話である。

 

だが、当時2017年、我々廃線マニアにとって不安な情報が入ってきた。この年、上半期も終わりかけの630日に、今までは米軍施設の一部分であったこの専用線の返還が日米で合意されたという。結局その後実際に返還されたのは9月だったが、そうと知っては、うかうかしていられないと焦燥の念に駆られた7月某日、ほとんど衝動的に相模大塚駅前に飛んだのである。

 

 

専用線が分岐している踏切手前より。なんと入れ替え信号が点灯している!この専用線を最後に列車が走ったのは98年であるから実に20年ほども不毛に光を放ち続けていることとなる。

 

 

そしてこの日は雷を伴った気まぐれな驟雨に悩まされた。上写真を撮った直後、急に滝のような雨が降り出し、ビニール傘を買うため駅前のスリーエフに避難した。幸いすぐに雨は止んでくれたので探索は早急に再開できたが。

 

 

この専用線は鉄道施設がほとんど現役さながらに残存しているとは聞いていたがまさか架線まで張られているとは。警報機も、踏切動作反応灯も蔦を刈ればまだ全然動きそうな感じだ。

 

 

埠頭地区や米軍関連の貨物線でよく見られる英語併記の注意書きが沿線に散在する。

 

 

線路はこの先県道40号線を跨ぐ。やはりここで一時停止をするドライバーは多い。そりゃこれだけ立派な施設が残ってるんだから当たり前か。小田急や相鉄の線路と間違う人ももしかしたらいるかもしれない。

 

 

店先に線路がコンニチワ。ここよりしばらく線路はまっすぐ続く。

 

 

このあたりからPC枕木を使用している箇所も出てきた。まあ日米国交の一端である石油輸送を担う線路としてはしっかりしているに越したことはないだろう。

 

 

やはり20年も休止期間が続くと木も同じだけ成長するものである。モリモリと生茂り線路敷を侵食し始めている。

 

 

専用線はこの先東名高速道路を跨ぐ。この廃止になりかけの古い休止貨物線と日々工事が行われ、どちらかと言えば新しいイメージのする高速道路とはいささかミスマッチな組み合わせに見えるが、考えてみれば東名は高度経済成長の最中、1968年に全通しており1942年に開通したとされるこの専用線と較べても両者にそこまで大きな差は無い。

 

 

それでも錆びたレールと、自動車やトラックの往来で活気を帯びる高速道路とのコントラストは鉄道貨物輸送の頽廃みたいなものを思わせるところがあって、ちょっぴり切ない。

 

 

高速道路を越えると、線路はいよいよ厚木基地に向けて、カーブに差し掛かる。

 

 

東名を越えたあたりから周辺は打って変わって米軍住宅の瀟酒な建物や車が至る所に目につくようになる。住宅街にしてはかなり森閑としていて、突然米兵が現れて、職質とか受けたらどーしよ、とビクビクするオレ。

 

 

向こうに小さく見えるフェンスが厚木基地の敷地内である。このあたりは米軍基地特有の剣呑な雰囲気が漂っており、小心翼翼の小生はこれ以上の接近は出来なかった(しっかりしろよ)

また70年代の学生運動チックなゴシック文字のタテカンもその雰囲気を助長した。そんなわけで逃げるようにその場を去ったのであった。

 

 

帰り、遠くに見える厚木基地のレーダーがぐるぐる回っているのに気が付く。レーダーとの組み合わせを撮影できる廃線跡というのも、中々無いだろう。

 

そういえば、戦後GHQの占領下におかれる時にマッカーサーが来日した際、パイプを咥えてタラップを降りるあの有名な写真、あれは厚木基地で撮られたのだということをふと思い出した。大学受験の時は日本史を選択したのでその写真のことはよく覚えていた。