今日5月6日は札沼線(学園都市線)の北海道医療大学~新十津川間の最終営業日ではありますが、ご承知の通りコロナウイルス感染拡大による非常事態宣言により4月17日の新十津川10:00発5426Dの運転を最後に列車の運転を終了していました。

 

既にコロナの影響で不要不急の旅行の自粛が叫ばれていた最悪なタイミングの中でも、JR北海道は4月11日からの土日に臨時列車を増発し、廃線前のお別れ乗車需要に対応していたのですが…。

(画像2点は4月12日に運転された、キハ40 825+402による臨時列車9428D。4月17日のラストランでも同じ編成が使用された)

 

 

 

そしてG・W期間中の5月2日から最終日の6日の間は、臨時列車を含めた全列車を『全車指定席』として運行し、新十津川を発着する列車を中心に5両編成という最近の『さよなら列車』としては長編成でさばくという計画までされていたのですが、憎き武漢ウイルスのせいでラストランの計画は二転三転し、結局全て幻に終わってしまいました…(涙)。

志村けんの追悼番組で加藤茶が弔辞で述べていましたが、札沼線の件に関しても「コロナのバカヤロー!!」ですよ。

 

この突然のラストランで振り回された鉄道ファンの方も少なくないでしょうが、他県からのウイルス持ち込みによる感染拡大が問題になっている中で、道内勢よりも圧倒的に多い道外ファンが押し寄せ、乗り鉄撮り鉄ともに『三密』状態になる事を懸念して、このような判断に至ったというのは仕方のない事でしょうし、廃線特需で最後のひと稼ぎをしたかったJR北海道にしてみれば断腸の思いだったのかもしれません。

志村けんや岡江久美子が亡くなられた際に衝撃を受けられた方も多いでしょうが、武漢ウイルスの感染症(COVIT-19)で死亡した場合、その最期にも立ち会えず葬儀もできないまま火葬場へ…という悲惨な末路なのですが、今回の札沼線の場合は葬式鉄すらできなかったという事で、どちらにしても武漢ウイルス憎し!ですね。

 

いちおう、私も札沼線(学園都市線)沿線住民なので、正真正銘の最後を見届けたかったのですが(私も休みを取ろうと思えば取れた)、JR北海道の最終運行についてのプレスリリースには『できる限り町外からのご乗車、来駅、沿線での写真撮影等をお控えくださいますよう…』と記載されており、廃線区間の町民ではないために流石にラストランに押し掛けるのは自粛しました。しかし、事前に潜伏してラストラン乗車をしたり、当日朝イチの航空機で道内入りし、レンタカーをブッ飛ばしてラストランの撮影に間に合ったという道外ヲタが実際にいたそうで、おとなしく自粛していた道内ファンにしてみれば決して面白くはありませんでしたね。まぁ、やはりラストランの車内は『三密』状態だったようですが、幸いにもクラスター感染とかの話は聞かなかったので結果的には良かったのかもしれませんが…。

 

 

ここからはそんな札沼線の廃線区間にまつわる写真を載せてみる事にします。

まずは、昨年7月に下徳富~新十津川間で撮影した、キハ40 402による5425D~5426D。

 

 

 

コチラは私としては最後になってしまった4月10日の5425Dに乗車した時のモノで、石狩月形駅で5424D(右)と交換したシーン。

なお、私が乗車した際はマスク・手袋着用など、徹底的に感染防止策を取ってはいたのですが、往路復路ともにBOX席で相席になった客がマスク非着用だったのには辟易しました…。公共交通機関ではマスク着用を義務化して頂きたい!

 

 

そして、新十津川駅に到着後。まさかラストランが1週間後に前倒しされるとは関係者は夢にも思っていなかったでしょう…。

 

 

同じく4月10日の新十津川駅舎。下の写真は札沼線としては3度目の乗車だった1991年8月に撮影したモノで、夕方の最終便で同駅に到着した後でした。樹木の成長と駅舎の外観の変化に年月を感じます…。私もまだガキんちょでしたがwww

 

 

その1991年8月。写真では判りづらいですが、駅名の読みが『しんとつがわ』だった頃で、1日の列車本数が3往復になってから5年が経過していました。

18:54着の727Dで新十津川まで来た私は、折返し最終便となる19:07発の734Dでそのままトンボ返り。当時はこの便が新十津川から唯一札幌に直通しており、石狩当別でPDCのキハ141系を増結していました。

当時はまだワンマン化される前で、通常キハ53形(当時は509・510、元釧クシ)が活躍していましたが夏期なのでキハ40(100番台)が運用に入っていました。この226(札ナホ)は、学園都市線カラーとして原形のまま塗色のみ変更されており、その後ワンマン化改造を経て更新後1821に改番されて現在も苗穂に配置。400番台の代走としても活躍していたのでしょうか。

(フラッシュ撮影ですが、当時はまだ撮影マナーが緩かった時代故にご了承ください)

 

 

 

さてコチラは、石狩当別以北では20年振りの乗車となった2012年10月に新十津川駅で撮影したモノ。

この時点ではまだ3往復運転で、午前の1本のみ札幌直通(5426D)があった頃でした。既に北海道医療大学までの区間が電化開業していましたが、10月27日の完全電車化まではPDCキハ141系などの気動車も混用されていました。新十津川からの5426Dは、石狩当別でキハ141系とキハ48を併結し、556Dとして札幌へ直通していました。

 

 

そして…ラストランから2日後の4月19日にマイカーで新十津川を訪れた時に、線路の終端部を撮影したモノ。

1972年6月18日を最後に、新十津川は途中駅から終着駅となり、留萌本線の石狩沼田まで続いていた線路は廃線となりました。

(※なお、廃線直前の撮影行為につきましては、人と人との接触を避け、ウイルス感染対策を十分に取った上で行動しています)

 

 

その新十津川~石狩沼田間の『さよなら列車』の先頭を務めたのが、当時旭川機関区に配置されていたキハ22 301。

スズランをあしらったヘッドマークを取り付け、キハ22形3両編成で運転されました。

写真は2枚とも苫小牧運転所に転属後の1992年に室蘭本線で運用されていた頃ですが、内外装ともに原形(縦樋なし、板張り床)を保っていた貴重な存在でした。

 

 

コチラも札沼線での撮影ではありませんが、同線で活躍していた気動車として紹介したいのがキハ53形500番台と隣のキハ40。

深川駅での撮影で、旭川運転所(旭アサ)所属のキハ53 504は深名線で活躍していましたが同線の廃線後は苗穂に転属、札沼線でキハ40 400番台登場までのつなぎとして最後のお勤めを果たしています。お隣のキハ40 707(旭アサ)は留萌本線用で、原番号は138でしたが1990年にワンマン化改造された上で旭川へ転属する以前は苗穂に配置されており、つまり札沼線でも活躍していた時期があったという事になります。

 

 

 

そして…最後に紹介するのが、新十津川駅のライブカメラをスクリーンショットしたモノ。

なんと、列車が来なくなってからも夜になれば照明が点灯していたようで、今日19:20頃に見た時はまだ点灯状態でしたが、21時頃に再度見た時には既に消灯した後でした…。

本来はこの日、石狩月形駅22:03着の5437Dで正真正銘のラストランとなるハズだったのですが、見えない敵・武漢ウイルスの脅威によってあまりにも寂しい結末を迎える事になってしまいました。本当に残念でなりません。

 

 

最後になりましたが、札沼線非電化区間の長年の活躍ご苦労様、とねぎらいの言葉を贈るとともに、代替バスの末永い運行をお祈りしつつ、今回の記事を締めたいと思います。

札沼線よ、永遠に…。