四国ののんびり長距離バス 西四国編 ~宇和島-宿毛線・宿毛-中村線・足摺岬-高知特急バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。


宇和島自動車の幹線バスは、松山-宇和島-城辺-宿毛と、西四国を海岸に沿って縦走しているけれども、全区間を走破する系統はなく、殆どが宇和島乗り換えとなっていて、一部が松山と城辺を直通するのみである。
 
 
松山から宇和島止まりの特急バスを降りた僕の目の前に現れた宿毛行きは、2扉の路線用車両で、松山-宇和島線と同じく前扉の長距離用車両を期待していた僕は、2時間近くも乗るのにこのような月並みなバスなのか、とがっかりしたけれど、よく見れば観光用車両に無理矢理中扉を設けたような大型バスで、シートの座り心地も悪くない。
 
市街地を抜けた国道56号線の両側には、瞬く間に山々が寄り添ってきて、2車線に狭まった道路は、木々の枝がこんもりと覆い被さる切り通しを行く。
来村川の清流を遡りながら山あいに分け入り、国道56号線で最長となる1710mの松尾トンネルをくぐると、津島町である。
 
岩松川を渡り、その支流である芳原川に沿って進む道中は、宇和島までと同じく山また山である。
リアス式の入り組んだ海岸に沿っていけば日が暮れてしまうのは理解できるけれども、そろそろ海が見たいなあ、と、山中を短絡するだけの道路に食傷気味になっていた僕の眼前に、いきなり真っ青な海原が広がったのは、嵐の集落であった。
 
 
ここからは右手に宇和海を望みながら、小高い台地の登り下リが繰り返される。
山がちではあるけれども、地勢はそれほど険しくなく、道端に背の高い棕櫚の木が並び、緩やかな曲線を描く国道を進むバスの走りは、至って快調である。
何と気持ちの良い道なのだろうと思う。
 
爽快ではあるけれども、宇和島市内で乗り込んできた乗客は津島町までに殆どが姿を消し、途中で乗り降りする人も少ないために、バスの歩みが滞ることがないのである。
このあたりは四国でも有数の過疎地域であり、僅かな住民も、移動に自家用車を使うのだろう。
 
 
1度だけ、白装束のお遍路さんが道端を歩いているのを目にした。
その姿は、自然豊かな景観に調和して、一服の絵のようである。
どのような表情で歩を進めているのか、振り返ってみたけれども、編み笠の陰に隠れた顔はよく見えないまま、瞬く間に後方へと遠ざかってしまった。
 
僕は、バスを使って四国を1日で半周するという慌ただしい旅の途上だけれど、お遍路さんは何日かけて結願にたどり着くのだろうか。
四国八十八ヶ所を自らの足でたどる人生が、羨ましく感じられたのは、なぜだろう。
 
ふと、小松左京氏の「妄想ニッポン紀行」の一節で、若かかりし頃の氏が、西国三十三ヶ所を巡礼する老婆に紀伊山中で出会った時の描写が心に浮かんだ。
 
『大樹鬱蒼と繁る杣道の彼方から、突如鈴の音が聞こえ始め、やがて、菅笠に白衣、手甲脚絆に草鞋がけ、胸に頭陀をかけた、小ぢんまりした老婆が、曲がり角から現れた。
脚もとは泥にまみれ、笠も白衣も、折りからの雨上がりの木の下露にしとどに濡れ、網目のごとくびっしりときざまれた顔の皺には汗の玉がたまり、光っていたが、歯のない口にもぐもぐと和讃を誦すその面は、眼の光に何とも言えぬ平穏な浄福の表情をたたえ、すれ違う学生にちょっと頭を下げて行きすぎたが、その笑顔は奇妙に胸にしみついた。
数歩を行って、思わず振り返ると、小さな白い姿は、八重の腰をさらにかがめ、こごしき岩根を踏み締めつつ、黒く濡れた老杉の合間にゆっくり、ゆっくり消えていった。
霧の中にかすかになっていく鈴の音を聞きながら、私は、あの人生の終わりにある腰の曲がった老婆をして、壮者の息も荒らがせる山嶺を越え、人も通わぬ杣道をただ1人、分け入らせるものは何だろうかと、ふといぶかったものだった。
この山嶺の奥、灰色の霧の果てに何があるのか?
如何なる力が、嶮路を越えて、老いた彼女を導き、如何なるものを彼女は求めていたのか?』
 
針木、柿ノ浦、内海、柏、室手、菊川と岬に囲まれた入江に佇む小さな集落をたどり、僧都川の河口に開けた御荘町では、建物が増えて若干車窓が賑やかになる。
ここで、国道56号線は海岸から離れ、東へ針路を変えていく。
海は見えなくなったけれども、これまで右手から車内に差し込んでいた冬の陽が後ろへ移ったことで、太平洋に面する四国南岸に達した実感が湧いてくる。
 
 
城辺トンネルをくぐれば、なだらかな山並みに囲まれた城辺町である。
最初、何と読むのだろう、という疑問とともに心に刻みつけられたこの町の名は、僕のようなバスファンには馴染みであろう。
戦国時代に常盤城、別名亀城が築かれたことが由来とされているが、我が国に城下町は多くても、じょうへん、と名付けられた地名は他には見当たらない。
 
戦前は、大阪商船などの航路が立ち寄る港町であった。
航路は戦時中に全て廃止されて復活することはなかったが、この旅の5年後の平成11年に、大阪・三ノ宮から大洲・宇和島・岩松・柏・御荘を経て城辺まで直通する夜行高速バス「ウワジマエクスプレス」号が開業した。
時刻表を見ながら、宇和島と宿毛を結ぶバスで訪れた町が夜行高速バスの終点になったのならば、再訪してみたいものだ、と思いを巡らせたものだった。
 
残念ながら、その願いは未だに叶えられていない。
「ウワジマエクスプレス」号に乗車する機会はあったのだが、日程の都合から平成16年に走り始めた昼行便を選ばざるを得ず、その起終点は宇和島止まりだったのである。
どうして昼行便を城辺まで運行してくれないのだろう、と恨めしく思ったものだった。
 

 

城辺町の東隣りにある一本松町を通過し、一本松トンネルと正木トンネルを続け様にくぐり抜ければ、出口のすぐ先に架かる増田川の橋が、高知県との境である。
増田川は四国山中に端を発する篠川の支流で、その分流点は国道56号線のすぐ北に位置し、宿毛市内で松田川と合流して太平洋に注ぐ川筋に沿うように、バスは宿毛平野へと駆け下っていく。
 
 
宿毛は、平成9年に土佐くろしお鉄道の終着駅が設けられるまで、鉄道のない街であった。
今でこそ、宿毛を出入りする路線バスは宿毛駅に集まっているけれども、この旅の当時はそうではなかった。
 
宇和島自動車宿毛営業所は、現在の東宿毛駅の北に広がる市街地の、宿毛郵便局の近くに置かれている。
僕は、12時35分に到着する営業所まで乗車したのだろう、と思う。
ならば、次に乗り継ぐ高知県交通の中村行き路線バスに、僕は何処から乗り継いだのであろうか。
これまでの車窓の鮮やかさとは対照的に、宿毛での記憶がとんと抜けてしまっている。
 
同社のHPには、昭和30年代の宿毛営業所の写真が掲載されていて、「国鉄連絡 各駅行」と大書された看板と多くの利用者の姿が、バスが元気だった時代を髣髴とさせて胸が熱くなるのだが、この旅で目にしたはずの営業所の佇まいも、今は忘却の彼方である。
 
 
中村行きのバス停を探して、迷った覚えもない。
 
中村行きの路線バスは、九州佐伯港へのフェリー航路が発着する片島岸壁が始発である。
営業所から片島岸壁までのおよそ4kmを、のんびりと歩いたのかも知れない。
宿毛-佐伯航路を僕は利用したことがないのだが、片島岸壁の光景を目にした記憶は確かに残っているので、この時だったのかもしれない。
 
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当時の時刻表を開いてみても、宇和島-宿毛線と宿毛-中村線のどちらも、停留所の欄に「宿毛」と書かれているだけで、何も語ってくれない。
 
接続が良いのは、片島岸壁を13時15分に発車して中村駅に14時18分に着く便と、14時発-15時03分着、14時30分発-15時29分着の便であるけれど、13時15分と14時発のバスは、記憶している車窓風景からすれば頃合いが早過ぎるような気がするのだ。
今でも脳裏に浮かぶのは、古びた2扉のバスに揺られて、山あいに広がる田園の黄昏をぼんやり眺めていたことだけである。
つまり、宿毛では、それなりの時間を過ごしたのだろうと思う。
 
宿毛からは稗田川、中村側は中筋川が刻んだ幅の広い平地が続き、愛媛県内のような険しさは感じられない。
穏やかな夕景以外の記憶に乏しいバスを降りたのは、中村駅から離れた高知県交通中村営業所で、次に乗る高知行きの特急バスもここに停まるため、都合が良かった。
 
 
応仁の乱を逃れて中村に住みついた一条氏により、京都を模した碁盤目状に区画されて「土佐の小京都」と呼ばれる街並みを散策してみたけれど、昭和21年の南海地震のために古い建物は殆ど残っていないと聞いていた通り、どことなく乾いた印象だった。
 
営業所に戻ってくると、「高知港」と行き先を掲げたバスが、既に乗り場に待機していた。
このバスは足摺岬を15時35分に発車し、中村営業所は17時03分発、高知堺町に20時14分着という特急便で、車体にハイビスカスの花が描かれた前方1扉だけの車両は、小柄ではあるものの、南国を走る特急バスに相応しい。
 
高知と中村・足摺岬を結ぶ特急バスは、昭和45年に大阪高知フェリーの就航と同時に、接続便として特急「足摺」号の名で運行を開始した。
当時は、高知発8時10分と14時、足摺岬発8時と14時の1日2往復が運行され、所要4時間30分と、僕が乗車した時よりも10分ほど速いのは、道路の混み具合の違いであろうか。
 
 
昭和60年の時刻表には、足摺岬と高知を結ぶ特急便とは別に、片島岸壁を6時20分に発ち、宿毛6時30分発、中村営業所7時14分発、高知駅10時20分着という上り便と、高知堺町17時20分発、中村20時40分着、宿毛21時17分着、片島岸壁21時29分着の下り便という1日1往復の特急バスが掲載されている。
 
鉄道ですら、昭和45年にようやく国鉄中村線が到達したという僻遠の地であるならば、もっと以前から県都を行き来する直通バスが走っていたのではないかと思う。
昭和20年代では、高知と中村の間はバスで10時間を要したとする文献を目にしたこともあるのだが、その頃の時刻表を紐解けば、高知-足摺岬-土佐清水と書かれた欄に掲載されているのは、何とあしずり汽船の航路で、運航距離163.0kmを、下りは高知22時発・足摺岬6時40分着・土佐清水8時着の夜行便、上りが土佐清水15時発・足摺岬16時40分発・高知着23時30分着の午後便が1日1往復だけ運航されていた。
高知の人々が「中村は京都や大阪よりも遠い」と嘆いたという逸話が実感される交通事情である。
 
無論のこと、昭和38年に窪川-土佐佐賀間が部分開通した中村線の列車に接続して、土佐佐賀駅から中村、土佐清水、足摺岬を結ぶ高知県交通のバス路線も並んで載っていて、土佐佐賀から中村までを1時間05分、土佐清水まで2時間45分、足摺岬まで4時間20分ほどで結んでいたことが分かる。
 
 
それより以前、高知以西の鉄道が昭和26年に延伸した土讃本線窪川駅止まりだった昭和30年代の記録が、レールウェイライター種村直樹氏の「駅を旅する」の窪川駅の章に描かれている。
 
『窪川が近づくともう夕方。
乗り合わせた地元のおやじさんが、いろいろ知恵を授けてくれた。
「窪川に泊まったって何もないから、待っているバスで中村まで入ったほうがいい。ところがバスは1台だけで、おそろしく混む。がたがた道を2時間はたっぷりかかるので立たされては大変だ。窪川へ着くまでに前から2両目のデッキまで行って、汽車が停まったらすぐ走れ。“窪川走り”と言ってな、宇高連絡船の“高松走り”“宇野走り”と合わせ、“四国三大走り”じゃ」』
 
『“窪川走り”情報は貴重だった。
話を聞くうちにも、通路に積み上げられた大きな荷物を掻き分けながら前へ移動する人たちがあり、謝意を述べてそれに従う。
なるほど窪川では大勢走った。
こちらも負けずに走り、なんとか席を確保したものの、おかげで薄暗くくすんだ駅という印象しか残っていない。
せっかく座ったのに、30分ほど山道をたどったところで道路か橋が壊れており、徒歩連絡で向こう側に待っているバスに乗り継ぐという一幕があって、21時ころだったか、中村へ着いた時には、くたくたである。
現場へ行くまで、車掌は道路の不通個所について何も言わないのに、乗り換えと聞いた地元の人は驚くふうでもなかったから、不通状態がずっと続いていたのか、日常茶飯事だったか、どちらかであろう。
そんな時代であった』
 
 
国鉄中村線は、大正11年に公布された鉄道敷設法に「高知県窪川付近ヨリ中村至ル鉄道」と記載されていることから、古くからの計画であったようだが、完成まで何とも長い時間を要したものだと思う。
 
先行して開通した高知-土佐佐賀間は、特急列車で2時間かかっているが、全線開業の後の土佐佐賀から中村までは特急で20分程度と、バスの3分の1に短縮されていて、中村線が高知県西南部にもたらした恩恵は計り知れない。
それでも、中村線は赤字路線として国鉄再建法の施行に伴い廃止対象に挙げられ、昭和63年に第3セクター土佐くろしお鉄道に転換された。
 
大阪高知特急フェリーも平成17年に廃止され、接続していた高知-足摺岬特急バスもその役割を終えている。
 
 
一方、平成10年の南国IC-伊野ICの開通を皮切りに、高知自動車道の高知以西の区間は着々と整備された。
 
平成14年:伊野IC-須崎東IC
平成21年:須崎東IC-新荘川橋東詰仮出入口
平成23年:新荘川橋東詰仮出入口-須崎西IC-中土佐IC
平成24年:中土佐IC-四万十町中央IC
平成30年:四万十町西IC-黒潮拳ノ川IC
 
と順次延伸し、平成24年に、高知から中村・土佐清水・宿毛を結ぶ高速バス「しまんとライナーさんご」号と、高知-中村・土佐清水・足摺岬を結ぶ「しまんとライナーつばき」号が開業した。
ところが、「しまんとライナーつばき」号は平成27年に運行を取り止めてしまい、一大観光地である足摺岬と県都を直通する交通機関は皆無となった。
 
 
長距離フェリーや接続するバス路線が廃止され、高速道路が整備されたにも関わらず、代わりに走り出した高速バスすら姿を消すという未来のことなど想像できるはずもなかったけれど、定刻に中村営業所を発車した特急バスの車内は、この路線は長続きするのだろうか、と心配になるほど閑散としていて、数人の客しか乗っていなかった。
 
日が短い晩秋でも、ここまで西に来れば午後5時を過ぎてもまだ明るかったが、国道56号線を東へ向かううちに、つるべ落としに車窓は暗転した。
中村の市街地を出ると、すぐに四万十川の長い橋梁を渡って山がちな地形に入り込み、逢坂トンネル、井の岬トンネルをくぐって大方町に入ると、右手に黒潮の海原が広がった。


瀬戸内の松山を出て10時間、ついに僕は太平洋を見ることが出来たのだな、と感慨に浸っていると、切り立った崖の上から海を見下ろす鹿島ヶ浦を最後に、車窓は何も映さなくなった。
 
窪川町との境にある片坂と呼ばれる急坂と、「片坂大カーブ」と命名されたバス停が存在するというヘアピンカーブは、このあたりが海際まで四国山地が迫る険しい地形であることを如実に示しているが、この難所も、快足で国道を飛ばしていくバスの揺れ具合で体感するだけだった。
 
 
高知に着いた後は、名古屋行き夜行高速バス「オリーブ」号に乗り継ぐ予定であった。
 
オリーブは香川県の県花・県木である。
どうして高知と名古屋を結ぶ夜行高速バスの愛称になったのかと言えば、平成2年にこの路線が開業した時には、高松・坂出と名古屋を結ぶ路線として登場し、この旅の5ヶ月前、平成6年7月に高知まで延伸されたのである。
平成8年8月には名古屋-徳島-阿波池田-松山を結ぶ夜行高速バス「オリーブ松山」号の運行も開始され、四国4県が名古屋と結ばれたことに伴い、高松・高知線「オリーブ」号は「オリーブ高知」号と改名されている。
 
このように複数の県を1本の路線で結ぶ方式は、四国全域を営業エリアとするJR四国バスが東京方面路線でも多用したものだったが、「オリーブ高知」号は平成19年に廃止されてしまう。
現在、「オリーブ松山」号が徳島・高松・松山と3つの県都を結んで運行され、高知だけ蚊帳の外のように見えるけれども、平成16年から名古屋と高知を結ぶ高知県交通・土佐電鉄バスの夜行高速バス「ドラゴンライナー」号が運行されているから、高知と名古屋の間のバス路線が途絶えている訳ではない。
 
 
四国と名古屋を結ぶ初めての路線であることと、2つの県に跨がって乗車停留所が設けられているという初モノ尽くしの「オリーブ」号には、是非とも乗車してみたかった。
 
バスという乗り物は運行時刻が不安定で、渋滞が生じればいとも簡単に遅れが出てしまうため、今回の旅のような乗り継ぎ旅では少なからず緊張を強いられる。
3時間に及ぶ特急バスの車内で、不思議と退屈した記憶がないのだが、僕は、足摺岬-高知間特急バスの漆黒に塗り潰された車窓を残念がるよりも、高知での接続が間に合うのか、という懸念に心を奪われていたのかもしれない。
 
特急バスは高知市内に入ると、高知駅前と、はりまや橋に近い堺町を経由してから、高知港に向かう。
堺町の到着時刻は20時14分、名古屋行き夜行高速バス「オリーブ」号の高知駅の発車は20時10分である。
特急バスは堺町の前に高知駅に寄るのだが、高知駅と堺町の間は10分程度、仮に高知駅の到着が20時04分前後としても、何とも綱渡りの旅程を組んだものだと我ながら呆れてしまう。
このような計画を立案することは滅多にないのだが、それだけ足摺岬-高知間特急バスと「オリーブ」号の両方に、何としても乗りたかったのだろう。
もしも間に合わなかったら、「オリーブ」号は次の機会まで諦めて高知に宿泊し、翌朝の飛行機で帰ろうか、それとも土讃本線の特急列車で「オリーブ」号が停車する坂出駅か高松駅まで追いかけてみるか、などと楽観的に考えていたのである。
 
名古屋からは、平成2年に開業し、毎年3~11月に季節運行されている箱根関所行き高速バス「箱根ビュー」号に初乗りしてみようと目論んでいた。
乗り遅れれば落ち込むに違いないけれど、1人旅だから、その点、気楽でもある。
 
 
窪川はJR土讃本線の終点、中村線の起点で、南隣りの若井駅から、四万十川に沿って敷かれたJR予土線が分岐している。
 
窪川駅は太平洋にも程近く、ここに、中村を河口とする四万十川が流れているのか、と驚いてしまうけれど、196kmにも及ぶ四国随一の長さを誇るこの川は、流域の複雑な地形を象徴するかのように、奇っ怪な流れ方をしている。
その源流は高知県津野町の不入山で、窪川付近まで流れ下って太平洋に近づくものの、逆S字を描くように大きく蛇行して、愛媛県境に近い江川崎まで山中の奥深く入り込んでから、中村へと南下して太平洋に注ぎ込む。
 
 
窪川から四万十川を下れば宇和島の手前に達するという、下流よりも上流の方が海に近い流れであるため、四万十川に沿う予土線が、文字通り高知と愛媛を結ぶ任を果たしている。
鉄道を使って高知と松山の間を行き来するならば、僕がたどって来た国道56号線の西海岸ルートを斜めに短絡する予土線を利用するしかない。
 
僕はこれまで、
 
徳島から甲浦、室戸岬を経て四国東海岸を回遊するコース(「東京発四国行き夜行高速バス賛歌第1章~徳島線エディ号と高松線ドリーム高松号~」
高松から阿波池田、大歩危小歩危を経て高知に至るコース(「四国ののんびり長距離バス前編~鉄道代替夜行とさじ号と高徳特急バス~」
高知から佐川、落出、久万高原を経て松山に至るコース(「四国ののんびり長距離バス後編~松山高知急行線なんごく号と夜行いよじ号~」
 
という4つの経路を、それぞれバスで旅する機会を得たが、今回の松山から宇和島、宿毛、窪川を経て高知に至る西回りのルートを走破したことで、四国横断の主要ルートを制覇した気分になっていた。
鉄道が通じていないルートも体験できたのだから、バスファンになって良かった、と心から思う。
 

†ごんたのつれづれ旅日記†

 
心残りなのは、紀行作家宮脇俊三氏が「途中下車の味」で、予土線江川崎駅から四万十川下流に沿って中村に出る路線バスに、同行の編集者と乗るくだりである。
 
『10時55分発の中村行のバスに乗ったのは私たちを含めて4人であった。
棚のあちこちに洗面器が置いてある。
吐瀉用にちがいない。
よほど道が悪いのだろう。
随所で改修工事が行われているのだが、このところの雨でぬかるみ、泥沼になっている。
道幅が狭いので対向車とすれちがうのも難儀だ。
バスの後尾にテレビカメラがあり、運転手はハンドルの脇の受像機を見ながらバックする。
山が流れに迫る場所では道が高みに上り、崖っぷちを行く。
こういうところですれちがうのはスリルがある。
悪路に悩むバスと対照的に、四万十川は悠々と流れている。
両岸の山々は平凡で、とくに際立ったものはないのだが、地味な自然の良さと言うか、それが四万十川の味わいなのだろう。
この川では鮎を地曳網や投網で獲るという。
けれども、しだいに川幅が広がるだけで眺めは変わらないから退屈でもある。
12時半、ようやく中村の町に入った』
 
この後に宮脇氏は路線バスで宇和島へ向かい、珍しくもバスの登場が多い章となっている。
宇和島から予土線と、江川崎‐中村間の路線バスを乗り継いで西四国を横断する方法があるのか、と蒙を啓かれた。
 
この路線は、現在も1日3往復がマイクロバスで運行されていて、四万十川の流れと沈下橋を眺めながら乗り通してみたい、と身も焦がれるけれど、未だに実現できていない。
 
 
窪川から先の国道56号線は、海岸線から離れてしまう。
 
窪川町と中土佐町の間に立ちはだかる標高293mの七子峠の「なゝこ茶屋」で、10分ほどの休憩時間が設けられ、乗客も運転手さんも、そして山道を走り詰めだったバスも、しばし息をつく。
茶屋はとっくに店仕舞いしていて、煌々と輝く自販機の明かりだけが、異空間のように闇から浮かび上がっている。
エンジンが切られれば、あたりは森閑として物音1つせず、時折、猛然と走り過ぎる車やトラックの爆音が空気を震わせるだけである。
周りを囲む山々の黒々とした輪郭が、こちらへのしかかってくるような気がして、思わず身震いする。
 
七子峠は地質が悪く、昭和45年に完成した長さ966mの焼坂トンネルは、湧水が多い破砕帯を貫くために大変な難工事であったと聞く。
以前はヘアピンカーブが多い難所であったが、焼坂トンネルをはじめとする4つのトンネルと10ヶ所の橋梁を設ける改良工事が成されたものの、昭和56年6月6日には1万立方メートルに及ぶ崩壊が発生し、国道56号線も10日間の全面通行止めを余儀なくされている。
 
久礼湾へ駆け降りる下り坂では、繰り返される急カーブをものともせず、かなりの速度を保ち続けるバスと一緒に、身体が左右に大きく揺さぶられるけれど、小気味いいほどの走りっぷりである。
 
 
標高293mの七子峠から見渡す眺望は絶景である、と聞いたことがある。
険しい山々を越えてきたお遍路さんも、この峠で、安堵の息をつくことが出来たのである。
お遍路と趣味のバス行脚を一緒にしては罰が当たるかもしれないけれど、心の平穏を求める旅の心根に、変わりはないのかもしれないと思う。
峠を越えれば、後は目立った難所もなく、中土佐町、須崎市、土佐市へと歩を進めて高知平野に出る。
 
暗闇をついて奥深い山中をひたすら走り続ける特急バスの車中で、後に控えている際どい乗り継ぎに気を揉みながら、古の旅人の心情を偲ぶことは難しいけれど、高知までもうひと息、という思いは同じだった。
 

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