今回は2013年の下関市のロンドンバス乗車記の後編です。
その前に下関駅で目撃した下関運転所(広セキ)所属の105系3両編成です。
ついでに『思い出の旧型国電』です。・・・ちょっとテーマから逸脱しすぎか?
今は思い出の「広セキ」のクモハ42です。
1992年6月に小野田線雀田駅で撮影したクモハ42です。
私はキリスト教の信者ではありませんけれども、まるで田舎町にある小さな教会の内部のように見えたクモハ42の車内です。
このクモハ42は、1934年(昭和9年)7月20日の吹田~須磨間(東海道山陽緩行線の部分開業時)の電化開業のときにデビューした車両です。
長門本山駅で撮影したクモハ42の車内でした。
ついでに昔の鶴見線のクモハ12の画像も入れておきます。
この時代の鶴見線には、所用で上京したときに、好んで立ち寄っていました。
海芝浦駅とクモハ12です。(1986年)
武蔵白石駅で撮影した大川支線のクモハ12です。(1985年)
鶴見小野駅で撮影した鶴見行のクモハ12です。(1986年)
クモハ12の車内です。板張りの床、左右のドア間の中央にあったスタンションポール、ランプカバーつきの白熱灯などが「昭和の雰囲気」を醸し出していました。(1986年)
クモハ12の『グランクラス風』のロングシート(ショートシート?)です。でも、これは普通車でした。
この当時は「スーパーシート(現在の国内線のANAはプレミアムクラスでJALはファーストクラスに変わっています)」などと呼んでいました。(1986年)
【思い出の旧型国電 おわり】
下関市のロンドンバスの旅に戻ります。
下関市の長府の乃木神社の近くでロンドンバスから下車しました。
ここは山陽電気軌道の鳥居前電停の跡地の近くでした。
全国にある主な乃木神社です。
乃木神社(栃木県那須塩原市) ・・・ 日清戦争後に乃木希典(陸軍の軍人)が閑居した別邸の敷地内にある神社
乃木神社(京都市伏見区) ・・・ 明治天皇陵の近くにある神社
乃木神社(山口県下関市) ・・・ 乃木の郷里の長府にある神社
乃木神社(東京都港区赤坂) ・・・ 乃木夫妻が自刃(明治天皇崩御後の殉死)した邸宅の隣にある神社
長府の乃木神社の鳥居です。
乃木神社は、明治時代の軍人「乃木希典」を祀っています。乃木大将は長州藩の支藩の長府藩士の出身でした。
長府の乃木神社の境内には乃木大将が幼年時代を過した家が復元され、乃木大将のゆかりの品を展示する宝物館があります。
♪旅順開城 約(やく)成りて 敵の将軍 ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ 水師営
東京都港区赤坂の旧乃木邸
東京の乃木邸の表玄関です。(2000年)
東京の乃木邸の厩舎(馬小屋)です。(2000年)
♪ちょっぴり淋しい乃木坂・・
京都の乃木神社
明治天皇の伏見桃山陵の近くにある京都市伏見区の乃木神社です。(2011年1月)
奈良線の桃山駅は明治天皇の伏見桃山陵の最寄り駅であるため、皇族方が奈良線を利用していた時代は皇族用列車が入線することから、たいへん格式の高い駅だったそうです。
駅の改良工事により、今は退避用の3番線が消滅していますが、まだ待避線があった頃のJR奈良線桃山駅です。(2011年1月)
下関市の長府に戻ります。
長府藩侍屋敷長屋です。
この長屋は長府藩家老職であった西家の分家(長府藩御馬廻役で扶持米は220石でした)の本門に附属していたものです。元の場所から500mほど北側に移築されているそうです。
壇具川と長府藩侍屋敷長屋の裏側です。
長府の城下町跡からロンドンバスで唐戸まで引き返しました。
下関市のロンドンバスの2階席から見た関門橋と対岸の門司です。
下関市のロンドンバスの2階席のシートです。(下関市のロンドンバスは2013年3月末に運行を終了しました)
唐戸でロンドンバスから下車し、旧秋田商会ビルの前で乗車してきたロンドンバスを撮影しました。
旧秋田商会ビルの屋上の和風建築が見えています。初めて見た方は、よくある稲荷社などに見えると思いますが、屋上には日本庭園の「棲霞園(せいかえん)」があり、祠のように見える建物は実は「茶室」です。
唐戸の交差点で下関駅から再び長府に向かうロンドンバスを撮影しました。
下関市のロンドンバスです。
この2013年の下関訪問時は旧英国領事館がリニューアル工事中でした。今は再び公開されています。
ロンドンの旧型ルートマスターです。下関市のロンドンバスでは増設されている1階と2階の非常口がありません。また、1階の窓下にあるフューエルリッド(給油口)には蓋がありません。(2016年9月・英国ロンドン)
ロンドンバスを撮影した後、「下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館」(1924年に竣工した旧逓信省下関電信局電話課庁舎)を見学しました。
昔の電信電話局のため、電話交換機の歴史を遡ると「デジタル交換機→電子交換機→クロスバー交換機」よりもさらに古いステップ・バイ・ステップ交換機(段々式の交換機と呼ばれていました)の時代の建物ですので、巨大な機器を収容するとともに、電話接続の操作卓の前でレシーバーと送話機を頭に装着して、電話利用者の呼び出し依頼電話を手動で呼び出し先につないでいた電話交換手が働いていた場所でもあったそうです。
昔、土地の古老から聞いた話では、当時の電話交換手は女性の職業としては人気の高い職業でした。そのために優秀な人が多かったそうです。地方都市に住んでいた古老の話によると、電話番号を言わなくても『○○さんの分家に繋いでください』という依頼だけで、電話交換手が即座に、接続して欲しい相手に電話を繋いでくれたというような話を聞いたことがあります。
元電信電話局の2階に田中絹代さんの愛用品や映画資料が展示されていました。(撮影禁止のため建物内の画像はありません)
その建物の外にある、下関市丸山町生まれの大女優「田中絹代(1909年~1977年)」さんの記念碑です。
映画「愛染かつら」に因んで「愛染かつら」のモデルの木がある長野県上田市(信州別所温泉)から山口県下関市に「愛染かつら」の木が贈られています。
この「愛染かつら」の碑の揮毫者「半田孝淳(1917年~2015年)」氏は天台宗の僧侶で、別所温泉の常楽寺の住職(常楽寺の伽藍の一つである北向観音と愛染堂の近くにある「愛染かつら」で有名)、京都市左京区一乗寺の曼殊院門跡の門主、第256世天台座主などを歴任された高僧でした。
曼殊院門跡が沿線にある京都の叡山電鉄です。(2019年3月)
叡山電鉄の観光用車両の「ひえい」です。(2018年3月)
♪月の比叡を ひとり行く (松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」から)
上田交通別所線(1984年)
「愛染かつら」の映画監督の野村浩将は「子持ちの未亡人看護婦(現在の看護師)」役は高峰三枝子にしたいと考えていたのですが、松竹蒲田撮影所長の城戸四郎の「高峰三枝子に子持ちの未亡人役をやらせたくない」という方針により田中絹代が選ばれました。もちろん、田中絹代も「子持ちの未亡人役」を引き受ける前に、一旦は城戸所長に出演を固辞しています。
この「愛染かつら」は空前の大ヒット作になり、映画の中で田中絹代が着た「聖路加国際病院」のナース服を参考に作られたナース服も大評判になりました。この時代に、地方の病院のナース服のデザインが、一斉に聖路加国際病院のナース服に似たデザインに変わったといわれるほどの影響力があったようです。当時、聖路加国際病院のような先進病院ではない普通の病院のナース服はナイチンゲールのナース服を参考にした程度の服でした。それは、白色ではないワンピースの洋服の上に重ねて、白いエプロン(日本では白い割烹着)を着用していたということです。
↑東京・築地の聖路加国際病院(2000年撮影)と映画「愛染かつら(1938年公開)」の田中絹代さん
♪待てば 来る来る 愛染かつら やがて芽を吹く 春が来る (松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」から)
「田中絹代ぶんか館」の館内で、田中絹代さんが出演していた1944年(昭和19年)公開の木下惠介監督作品の「陸軍」の一部を見ました。
画像の左側が出征兵士の母親役の田中絹代さん(35歳ぐらい)です。下の画像の左側の田中絹代さんが着ている服は、映画の設定では普段着と考えられる和服です。
映画「陸軍」には、1945年6月19日~20日の米軍による大空襲で壊滅する前の福岡市の中心部が写っていました。(画像の右側)
これは陸軍省の後援による映画でしたので、福岡市の中心部の交通を遮断して撮影されました。そういう事情により、行進しているのは本物の歩兵24聯隊(福岡聯隊)の兵士です。歩道で兵士の行進を見守っている観衆は陸軍などが動員した一般市民でした。
戦前は娘役の大スターだった田中絹代さんが、戦中の映画「陸軍」では35歳で出征兵士の母親を演じました。それは、演技派として女優を続けていきたいという覚悟の上での転身だったのでしょう。
実際に、田中絹代さんは1958年の「楢山節考」(撮影時は48歳)や1974年の「サンダカン八番娼館 望郷」(65歳)では老婆役で好演し、高い評価を受けています。田中絹代さんの凄まじいところは、最初は気に入らない役でも、映画監督の期待以上の演技をしてしまうところでした。プロフェッショナルな女優という点で「不世出の女優」という形容詞が決して大げさではないと思います。また、自らの希望で映画監督までやっています。
2004年に文庫本化された下関市出身の作家「古川薫」さん(1925年~2018年)の「花も嵐も(女優・田中絹代の生涯)」です。
著者の古川薫氏は2010年に「下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館の名誉館長」に就任されていました。
田中絹代さんは、生まれ故郷の下関弁が(完全には)ずっと抜けなかった人で、サイレント(無声)映画からトーキー(映像・音声同期)映画の転換期には、その下関の訛(なまり)を気にして、当初はトーキー映画への出演を渋ったということです。
田中絹代さんが下関で暮らしたのは6歳までですが、幼少時に見た関門海峡の風景を終生愛し続けました。
平家の平知盛は、この壇ノ浦で安徳帝の入水(崩御)を見た後、自らも入水して亡くなりました。
お芝居(歌舞伎)の世界では「尼崎の大物浦」まで生き長らえたことになっている平知盛です。『碇知盛(義経千本桜の渡海屋・大物浦の段)』の姿です。
みもすそ川から関門トンネル(人道)を渡って門司の和布刈(めかり)に向かいました。国道トンネルと同じ1958年の開通です。人道も国道2号線です。
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
波の下にも みやこありとは
二位尼(にいのあま)の辞世
門司側の和布刈神社の鳥居です。和布刈神社は松本清張の推理小説「時間の習俗」の舞台です。
終戦まで使われた巨大要塞「下関要塞」の設備のごく一部ですが、関門海峡周辺の主な砲台の位置です。
↑「北九州銀行レトロライン(命名権契約)」の和布刈トンネルです。旧・田野浦公共臨港鉄道の設備をそのまま使っているためトロッコ列車といいながらも本格的な鉄道路線です。
門司地区の休止貨物線を活用した北九州市の「北九州銀行レトロライン」では、「潮風号」というトロッコ列車を運行しています。(2020年4月現在は例の問題により運休中です)
トロッコ列車「潮風号」の牽引機は元・南阿蘇鉄道の「ゆうすげ号」の牽引機だった小型ディーゼル機関車(実態としては構内入換用のスイッチャー)です。
↑南阿蘇鉄道時代の「ゆうすげ号」牽引機DB102の画像が見つかりましたので追加します。
♪ゆうすげは 淡い黄色よ 夜に咲き 朝に散る花 (森進一さんの「ゆうすげの恋」から)
「北九州銀行レトロライン」のノーフォーク広場駅です。
この後、門司港駅からJR九州の電車で小倉駅に移動しました。
小倉駅で博多行の787系「特急きらめき」を初めて見ました。昔の北陸本線の「スーパーきらめき」の印象が強かったのですが、その特急名が九州特急に移管されていたのです。
この後、山陽新幹線で帰宅しました。
(おわり)
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