現在日テレや日通のオフィスが建ち並ぶ汐留は、かつて江戸時代に徳川家が海を埋め立てて作らせた武家屋敷街であった(浜離宮も当時は将軍家の屋敷であったのだ)。明治時代に入って日本初の鉄道が横浜と当地の間に開通し、汐留は鉄道発祥の地として知られるようになる。その後は貨物専用の駅となり、日本の鉄道貨物輸送の重要な拠点として85年まで機能した。廃止までこの駅からは幾つかの専用線が伸びていた。その中の一つ、芝浦駅まで伸びていた貨物線の跡を今回は辿る。

 

以下は20173月の記録である。

この日は最初から早速寄り道して、ゆりかもめの市場前駅で降りた。

18年に豊洲市場が開業するまでは1日の利用者数が数十人程度という23区内にしては超過疎駅で有名であった。

豊洲市場の文字や、信号機にマスキングがしてあり、なかなか面白い。工事に従事する以外の人が全く見当たらない。

開通前の橋はバンドのMVでも撮影されそうな異空間さを醸成していた。もしかしたら本当にこの橋で撮影が行われていたりして。

ある程度見物して満足したので、再度ゆりかもめに乗車して、芝浦ふ頭駅で降りる。目の前にある埠頭の倉庫前にかつて操車場が存在したのだ。上写真右端に見えるシャッターがかつての機関庫らしい。

上写真のマウスで手書きで描いた弱々しい赤い矢印が機関庫である。中にはレールが残っていると聞く。間近で観察を試みるが、なぜか付近を警備員が巡回をしており、チキンな小生はこれ以上近づくことが出来なかった。また再訪しようと思っていた矢先、なんとこの建物、解体されてしまったのだった。

 

芝浦ふ頭駅前の倉庫から汐留方面へ歩く。

デカい駐車場があり、ここもかつてのヤードの跡地であり、線路が何本も敷かれ膨大な数の貨車が往来した場所だったのだ。

 

 

コンクリートの割れ目が気になる。どれもレールが埋まっている跡に見えるから困る。

 

芝浦埠頭と日の出埠頭の間の運河に架かっていた橋の橋台が残っていた。

反対側も

対岸には貨物線が走っていた当時からある煤けた倉庫がある。明らかにレールが埋まっているであろうアスファルトに萌え。

ここに貨車が止まっている光景はインターネットで見たことがあったので、当時の光景をありありと想像できる。

この場所にも完璧に線路が埋まっていることを確信する。雨上がりだったので窪みに水が滲んでよりくっきりと分かる。

日の出埠頭から竹芝埠頭に架かっていた橋の橋台跡も残っていた(このコンクリート塊を橋台とはいわないのかもしれない)

線路はこの先、ゆりかもめに沿って左、汐留方面へ湾曲していた。

 

 

 

そして、ゆりかもめが首都高速と交差するその正に真下に当時の芝浦貨物線のレールが残っていた。これはかつて首都高下の海岸通りを横断していた踏切の跡である。このレールこそが、ゆりかもめが東海道貨物線を辿るように造られたことの何よりの証なのだ。

 

この先に当時の面影が残る場所は旧新橋駅を除いて全く無い。今回の東海道貨物線のような都心に残る廃線跡は、そのミスマッチさによって探索の意欲がより増す。そのためこの廃線のテーマにおいて、不定期でまた別の東海道貨物支線について数回取り上げようと思っている。