昭和47年7月豪雨での肥薩線 真幸駅の土砂崩れ等 | 人吉鉄映会

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熊本県人吉市・球磨郡を走る肥薩線・湯前線・くま川鉄道の今と昔を発信していきます。

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今回は昭和47年(1972年)に起きた豪雨による土砂崩れで埋もれてしまった、真幸駅の惨状などについてお送りします。

現在の真幸駅。矢岳峠を越えて一段落、という駅です。山間の静かな駅です。

 

肥薩線の真幸駅(宮崎県)は「真の幸せ」という語呂合わせもあり、入場券などの切符が需要がある駅で、実際行かれた方はこの駅にある「幸せの鐘」をたたかれた方もいらっしゃるでしょう。

 

その真幸駅のホームの端に大きな岩があるのはご存じでしょうか。

 

矢岳方向から真幸駅に到着前、ホームの大きな岩が見えてきます。(右側が駅舎。転向線に向かういさぶろう号より)

 

真幸駅に到着すると乗客の皆さんは、乗ってきた「いさぶろう・しんぺい号」の撮影や駅舎の訪問、そして幸せの鐘を鳴らす、もうちょっとマニアックになると、スイッチバックの線路を写す、これが一般的な行動ではないでしょうか。今回紹介する岩を見にホームの端に行かれる方は少ないですね。

岩には「山津波記念石」と銘うたれ、いわれを書いた掲示板があります。

 

まずは災害が起きる前の真幸駅の風景

1971年(昭和46年)3月矢岳へ向かう「えびの2号」  手前には蒸気機関車が駐機している

 

真幸駅を出て矢岳越えに挑むD51混合列車 真幸駅は山中の駅です。

 

1972年(昭和47年)7月の3日から6日にかけて集中豪雨が発生。これにより駅の裏山が崩落。家屋が27戸(別資料によると28戸というものもある)を押し流す山津波が発生。死者4名を出す大惨事になりました。土石流は30万㎥のも及び真幸駅を埋め尽くしました。このとき流れ込んできた8tの巨石が上に紹介した「山津波記念石」になります。

 

 

写真奥、土砂が流れ込んで線路が埋まった真幸駅 1972年(昭和47年)

 

駅に駐機していた蒸気機関車も被災。駅関係者が状況確認

 

真幸には真幸鉱山という鉄鉱石の産地がありました。流れ込んできた土砂が赤茶けていたのを覚えています。今でも駅周辺の湿地も似たような赤褐色の水たまりが見られます。

また真幸鉱泉というものもあり、いまでも飲める水が湧いているそうです。土石流に流される前は駅の奥側の山沿いに「真幸コーセン」という大きな看板も出ていました。(なぜかカタカナ表記でした)その看板も流されてしまいました。

 

その後、関係者の懸命な復旧により、九州の南部中央を走る当時は大動脈であった肥薩線は無事復旧しました。

まだ大量の土砂が残る真幸駅から矢岳方面へ向かう復旧最初の列車(DD51) 

1972年(昭和47年)8月24日

被災前のD51が走る写真と同じ場所から撮影

駅のホームには土砂を被った蒸気機関車がまだ残る

同上

 

今の石をよく見ると何と松の木が生えてきていました。もう50年も前の出来事。時代の流れを感じます。

 

 

・・・・と、真幸駅の被災の話はここまでですが、この時期の豪雨は更なる災害を巻き起こしました。

 

1972年(昭和47年)7月5日21時40分、人吉・大畑間を進行中の列車(DD51758+オハフ61139)が連日の豪雨で崩壊した築堤に突っ込み、転覆しました。この事故で機関士・乗客に負傷者がでました。

 

 

DD51はその後引き上げられましたが、客車(オハフ61139)は現地で解体されました。 

 

コロナで気を取られてましたが、あと1か月少しでもう梅雨に入りますね。最近の梅雨は毎年のように極端な豪雨で人命・財産(家)などを奪われてしまうような甚大な被害に至っています。

 

今回はそういった肥薩線の「負」の出来事を紹介しましたが、今年はこのようなご時世なので少なくとも豪雨にまで至らないことを切に願うばかりです。

 

今回もご覧いただきありがとうございました。

コロナに感染された方に心からお見舞い申し上げるとともに早い回復を願っております。

また、緊急事態宣言で自粛の影響をまともに受けている方もいらっしゃると思います。早い収束を願っております。