今ならEF6627が走ればファンが集まっている。しかし、濃厚接触になる密集激パは御法度である。それよりもたった1往復にまでなってしまったEF65PF74,75レを毎日撮るようにしている。もう少し前ならEF58の茶釜が人気だったこともある。

 C622なんかは私が高校時代にその活躍なんか見られなかったものの、憧れの機関車だった。かつては東海道の特急「つはめ」を牽引、その後函館本線では重連で急行「ニセコ」なんかを牽いていた。初めて渡道した時にはもう引退し梅小路に舞い戻っていた。そのC622が姫路までの「白鷺号」牽引に指名され、我が地元を走ると言うから本当に大騒ぎだった。それで今では信じられないような気違い沙汰が沿線各所で起っていた。たとえば駅の地下道に入る階段の上の屋根にまで人が入り込んでいたものだ。

 C62の運転は1972-10/14.22 11/5.19 1973-3/11 4/22 の6回くらい走ったようである。ある日は同窓会状態になり記念写真も撮っている。最後はC612も走ったが、大学写真部の例会に当り、吹田で撮っていた。なぜか単機回送だった。大阪始発になっていたのか。

 このようなSLの復活運転は阪神間では1971年からC57で何度か運転されていて、私は受験勉強しながら遠くに汽笛を聞いていた。最初は梅小路だったが、その後撮れるようになった時には集煙付きの福知山の釜になっていた。それからC62が走り、久しぶりに1976年にC571が京阪間で走って死亡事故を起こしている。死者まで出るのは最初から予想できていた。その後はSLの特別運転は実現していない。しかし、電気機関車とかで珍しいのが走るとファンが用地内に進入するのは民営化後も黙認されていた。立ち入りが厳しく規制されるようになったのは割と最近のことである。

 ちょうど発見された未発表ネガにもこの白鷺号が写っていたので見ていただきたい。

 C622は昭和23年製で穝所は糸崎に配置されたが昭和25年に宮原に移ってきて東海道本線で活躍した。ちょうどこの頃にお生まれになった世代が後に函館本線での重連運転撮影に間に合ったと言える。昭和31年の11月には東海道本線が全線電化。C622は昭和32年に北海道へ移り、小樽築港区配置で函館本線での活躍が始まり、急行「ニセコ」牽引は最後にDD51に後を任せて、保存のために京都の梅小路へ送られた。その当時の細かい動きは一般人には知ることも無かった。しかし、自分の地元を走ると知った時には本当に驚いたものである。

 考えてみるとC622が東海道で特急を牽いていたのはほんの数年である。その後は北海道での活躍が十数年あり、この間に多くの写真が発表されている。その後、梅小路蒸気機関車館で動態保存されたが、その期間はもうすぐ50年になる。日本の交通史で輝かしい存在だったC62がアピールされる事はなく、時々スチーム号の牽引で使われているのを複雑な気持ちで見ているしかない。

 

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夙川に向けての10‰勾配を登る姫路行き白鷺号。沿線は大騒ぎだった。なんと線路の真ん中にまで出て撮っている人もいる。これが警察官や新聞記者の前で起こっていたが、何も問題にはなっていない。


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この手前は今も撮り鉄が集まる撮影ポイントである。日切地蔵の手前には保線小屋があった。さらに松の向こうにはまだクリスボンが建っている。


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C62が12系客車を牽いて目の前に現れた。女の子はもう後ろを見ている。サンズームを使っている人もいるが、ピントは甘かった。


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C62の巨体が目の前を通過した。ATSの100Wタービンは排気管が付いていないのか。
 


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大師踏切にかかるC622。この辺りが夙川の有名撮影地である。こちら側はまだフェンスが無かった。