今の学生にはびっくりするような事が起っている。家でたくさん勉強すればいいのではないか。

 私が高校1年の時にも、すぐ近くでびっくりするような事が起っていた。ある中間試験の日に阪急宝塚駅へ行き、そこから武庫川第一橋梁まで歩いた。時間もわかっていたのだろうか。やがて来たのはDD51がワフ1両牽いて現れた。しかし、何で黒いんや。しかも四角くて平たい。良く見るとそれはDが一つ少ない。つまらない事は書かないでおこう。

 このネガは長い間行方不明だった。それが引越しの時に切符・資料・ポジ・ネガ・手帳等の箱を作り、それを整理したらいろいろと懐かしいのが発見された訳である。それで能勢電の廃線跡俯瞰もアップできた。

 生瀬の一発目はなぜかピントも調子も良い。しかし、ネガは汚れていた記憶があったが、スキャナーしたら意外ときれいに写っていた。汚れはそれ程気にならないし、消す事もできる。

 写りが良いというより、構成がすばらしい。まるでディレクターとライターが同行していたかのような撮り方だった。さらになぜか助手席に乗って宝塚まで添乗取材している。大阪鉄道管理局の許可は得ているのか。鉄道ジャーナルの列車追跡シリーズをかなり意識しているなと思う。

 実はこれはフェイクニュースで、パソコンで創作したものです。そう思って見て下さい。それもちょっと無理があるなあ。
6900915 D51143 生瀬
武庫川の手前まで行き、待っているとバック運転のD51が現れた。貨車はワフ1両のみである。


6900917 D51143生瀬
武庫川第一橋梁を渡る生瀬工臨。武庫川は氾濫の歴史があり、生瀬の宿場町は川より高い位置にある。その一部が左端に見えている。右端に千刈ダムから神戸市に飲料水を送る神戸水道の送水橋が写っている。これは今も変わらない。しかし、既に工業用水用になっていて、非常用に残されているという状態である。手前のガーダーは明らかに明治時代の阪鶴鉄道時代から使われている。橋脚も煉瓦造りである。しかし、大正期に機関車が大型に移行する過程で補強材が追加されている。その先のスパンは橋脚もコンクリート製で架け替えられている。その対岸に国道176号線が通っている。今は国道も福知山線も付け替えられている。


6900918 D51143生瀬
8793レは生瀬駅に14:04に到着。機関車は吹田一区のD51143である。製造時からずっと吹田で働いた機関車で、西尾写真でも撮られていた。駅の大阪寄りには改札が無いが、住民は近道で入ってくるし、駅員も注意することはない。すでに側線には砕石を積んだホキ800が止まっているが、これの送り込みが不明だった。6:48宝塚着の8791レがあるが、どうやって生瀬まで来たのかわからない。


6900919 D51143生瀬
機関車の細部を撮っている。シリンダー各部への給油分配器があり、その動力は走行部のロッド類の動きから取っている。バイパス弁点検用の開口は開けられていない。かなり原型を保っている。


6900920 D51143生瀬
キャブの前部もきっちりと撮っていた。この構造を見ていると興味は尽きず時間を忘れる。日本車輌の製造で134から172のグループになる。ガラス窓は外されてテンダー側に置かれている。清缶剤タンクは少し小さいのが付いていている。その前は給水ポンブの給油器である。その右下に見える小さな丸蓋は消防用の消火栓で、これを使っているのを撮影しているのは私ぐらいだと思う。中津川で消火作業を撮っている。


6900921 D51143生瀬
ホキ800はバラストを運搬する。高校の地理では生瀬流紋岩だと習った記憶があるが、改めてパソコンで調べてもよくわからなかった。しかし、さっき調べたら出ていた。地元の産物で西宮市と宝塚市のいくつかの砕石場がある。貨車に連結後には
機関助士がテンダーに上がり、石炭のかき寄せを行っている。


6900922 DF50525生瀬
大阪行きの旅客列車が到着。まだDF50が多かった時代である。バックの山も砕石場があり、少しずつ切り崩されている。右端の対岸は青葉台の住宅が建ち始めている。阪急が開発していた。


6900923 D51143生瀬
非公式側の形式写真は画面いっぱいだった。この辺りが55ミリレンズの弱点になる。砕石側線はダンプカーから直接に積み込みができるようになっている。


6900924 生瀬駅名標
生瀬の駅名標。西宮市内(現)では二番目に開業した駅で、最初は有馬口駅だった。豊臣秀吉が何度も通った有馬温泉への街道入口にあたる。その後、有馬口駅は有馬線から神戸電鉄に移って、温泉に接近している。武田尾までは渓谷に沿って走る景勝区間で、今は廃線だがハイキングコースになっている。


6900929 D51143生瀬
組成を終えた工臨の全景を後部から撮る。福知山のワフは車掌車と半分は有蓋貨車になっている。その前のホキ800形はこの時に始めて近くから見た事業用の貨車で、メカニズムが興味深かった。しかし、この貨車は今もまだどこかで使われていて、これだけ激減した貨車の中で生き残っている。


6900931 D51143生瀬
やがて駅員の誘導で側線から本線に移動する。まるで列車追跡シリーズみたいな構成で撮り続けている。たった30分の折り返し時間に、ファンは私一人だけだった。


6900932 D51143生瀬
これは楠の切り株ではないか。ここまで撮っているとは凄い。実はタイムマシーンを使っているのかもしれない。列車は本線に移って発車を待つことになる。


6900933 D51143生瀬
8794レは生瀬14:33発車。なんと助手席から撮っているではないか。宝塚市のすみれガ丘はすでに開発が始まっていて山肌が見えている。その後、惣川でも入換えがあり増結したが、それは撮っていない。

6900936 D51143宝塚
宝塚駅では機関助士が付いてきてくれて、踏切に直接出ることができた。そこから急いで歩道橋へ行き、発車を撮影。煙をサービスしてくれた。左奥は阪急の宝塚駅前で阪急側の風景は全く撮っていなかった。神戸銀行はその後すぐに太陽神戸銀行に改称し、その後も行名は変化して今の三井住友銀行に落ち着いている。当時はボンネットバスも走っていた。阪神バスの尼宝線もここまで来ていた。


6900937 D51143宝塚
ネガ番号が37番で、はみ出しているのを折り曲げていた。(意味わかるかな?) それで凄く汚れている。前方には阪急宝塚線との交差がある。惣川駅からはウイルキンソンのソーダ水があり、品川までの専用貨車があった。それを工臨で運んでいたのだろうか。惣川にも砕石側線があり、JR西日本になってからも工臨は存続していたが、尼崎で脱線事故のあった2005年以後は走っていないと思う。一度は走ったが、積貨は無かった。


ネガの他にも手帳が残っていて、撮影日がわかった。翌日は友人と2人で撮りに行っている。D51754だったが、その写真はなぜかピントが甘かった。手帳には運用も書いてあった。宝塚往復は8791/8792  生瀬往復は6785,8793/8794,6784 川西池田往復 6789/6786。それ以外には通しの貨物列車があった。おそらく鉄道雑誌に載っていたと思う。
 当時は宝塚まで行かなくても夙川でSLが撮れた。それは鷹取工場の全検試運転である。最終は1969-9のC576である。ちょうど正午前後で土日は走らない。C62等の西側は下り方面で運転されていた。夏休みには撮れていたのだが、ほとんど撮っていなかった。