高校生の山は前回の木曽駒で終わり。次は大学生になってからの話になるが、マンドリンだ、ウクレレだ、合ハイだ、旅行だとあれこれ遊んだので、大学時代は実は大した山には登っていない。

 

 生涯の友となる友人に最初に誘われて行ったのが、天城峠から八丁池までのいわばハイキングコース。この友人はその後南アルプスをたくさん歩き、今は沢登りと雪山に人生の残りをかけている(と思う)。

 

 

 1966年10月、湯ヶ島温泉のユースホステル、いろり荘に前泊し、天城トンネル(上の写真)のある天城峠から歩いた。天城峠といえば、小説「伊豆の踊子」の舞台としてあまりにも有名だが、それ以外にも、その9年前に起きている「天城山心中事件」にも、松本清張の小説か何かで読んで、多少の関心があった。

 

 

 「伊豆の踊子」の学生は旧制一高生(今の東大生)だし、心中事件の当事者愛新覚羅慧生(清朝最後のかつ満州国の皇帝の姪)は、相手ともに学習院大学生だったから、学生であったけんにいちゃんとしては、何か胸躍ると言うか胸騒ぐものがあった。

 

 それはともかく、天城峠から天城縦走路(上り御幸歩道)を経て、登りコースタイム3時間半弱の八丁池まで登った。途中の大見分岐点あたりで、心中した二人が発見されたという。考えてみれば、去年の天城縦走の最後にもこの大見分岐点を歩いている。

 

  (昨年天城縦走した時に見た八丁池)

 

 八丁池では「富士山がばっちり」とアルバムに書いてあるが、写真には写っていない。当時のカメラの能力不足だろう。なお八丁池は周囲が八丁(870mほど)ということから名付けられたそうだが、実際は5丁程度らしい。

 

 池の標高は1170mである。八丁池を回ってからの下りは、日記が見つかったのでチェックすると、「天皇が来た道」とあるので、「下り御幸歩道」を使ったのだろう。何れにしても水生地に下ったことは確かである。

 

  (これは昨年登った時の葛城山頂からの眺め。大昔に登ったことは忘れていた。)

 

 このハイキングで伊豆が気に入ったのか、2カ月後の1966年12月、今度は伊豆葛城山(452m)から発端丈山(410m)を経て三津港まで歩き、船で沼津の千本松原に着くという小旅行をしている。

 

 

 この時は、大学の仲間と某女子大生4人をあわせて15人の大人数で、大仁駅から近い臼井ユースホステル(当時、上の写真)を使っての小旅行だった。ユースホステルのペアレントが素晴らしかったこと、女子大生が事前の連絡にもかかわらず、革靴とスカートで来たことや、それもあって荷物は皆男性が持ったことが、非難がましく日記に書いてあった。

 

 伊豆葛城山も去年の天城縦走の後で間違って難路をとって苦労したが、過去の記憶のないままに登っており、なにやら因縁めいたものを感じる。