平成4年・南浦和駅から前橋駅まで路線バスが繋がっていた時代を行く~後編~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

(「平成4年・南浦和駅から前橋駅まで路線バスが繋がっていた時代を行く~前編~」の続きです)

 

東武バスの「東01系統」に乗れば、東松山駅から熊谷駅まで13.4km、50分足らずで、再び高崎線沿線に戻ることになる。
鴻巣から熊谷まで鉄道で14.4km、普通列車でも20分と掛からない区間を、26kmもの大廻りをして1時間半も費やしたのだから、路線バス乗り継ぎ旅の真骨頂とも言えるだろう。

 
 
十数人の乗客を乗せた「東01系統」は、黒土が剥き出しの田園地帯を貫く国道407号線を北上する。
東松山までの「東02系統」のひなびた沿道とは趣が異なり、都市化の波が容赦なく押し寄せてきているようで、建設中のマンションや新興住宅地、開発を前提にしているとおぼしき休耕地が目立つ。
途中停留所で乗ってくる利用客も多い。
それでも、武蔵丘陵森林公園の近くをすり抜けて行く車窓は、自然が豊かで心が和む。

荒川大橋に差し掛かると、都内では堂々たる風格がある荒川も、ここまで上流に遡ると川筋が細まってくる。
橋を渡り終えた直後の高崎線と秩父鉄道の踏切で、少々の渋滞に引っ掛かったものの、程なく国道17号線へ右折すれば、新幹線のガラス張りの高架ホームが眩い熊谷駅である。
 
 
駅前に姿を現した12時05分発の深谷駅行き「熊18系統」は、国道17号線を西へ進み、筋交橋バス停から県道原郷熊谷線に逸れていく。

東京の石神井や大阪の西区には筋違橋、伊勢には筋向橋など、筋、の字を冠した橋があちこちにある。
この字面を見れば、僕は筋肉を思い浮かべてぎょっとしてしまうのだが、よく考えてみれば、筋は道路を意味していて、筋交橋は道路が交わる場所という意味であろう。

バスは原郷交差点で再び国道17号線に戻っていくが、思い起こせば、浦和から乗り継いできた路線バスが走ってきたのは県道ばかりであった。
調べてみた訳ではないけれど、これらの県道は、旧中山道そのものかも知れないと思う。
車だけの道路として特化された国道よりも、車窓に映る街並みが古びていて、実に味わい深いのである。
バイパスが出来て車の流れが移ろうとも、住む人々の動きはそうそう変わるものではない。
路線バスの経路は、その痕跡を忠実に残しているのかもしれない。
 
 
東京駅丸ノ内口の赤レンガ駅舎をモチーフにしたという深谷駅舎は、大正3年に竣工した東京駅の建築にあたって、深谷にある日本煉瓦製造で造られた煉瓦が使われた史実に因んでいると聞く。

長野新幹線が開通する前には、上野と、僕の故郷長野を結ぶ特急「あさま」に乗って、何度も通過したことがある深谷駅であるけれど、列車に乗りながら駅舎の全貌を見るのは難しいから、まじまじと見上げたのは今回が初めてだった。
写真で見ると何となく安っぽくて、やっぱり猿真似だな、などと失礼な感想を抱いたものだったが、実際に目にすると、なかなか壮大な建築物である。

深谷駅と言えば、昭和41年に起きた急行停車問題が思い浮かぶ。
深谷を地盤にしていた衆議院議員の荒舩清十郎氏が運輸大臣に在任していた当時、深谷駅を急行停車駅に追加させたとして政治問題となり、荒舩氏が大臣を辞任した事件である。
荒舩氏は新聞記者に、

「私の言うことを国鉄が1つぐらい聞いてくれてもいいじゃあないか」

と発言し、当時の国鉄総裁は参議院運輸委員会で、

「今まで色々御希望があったのだが、それを拒絶した手前、1つくらいは良かろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」

と答弁、所属派閥の領袖であった自民党副総裁も、

「荒舩君は“やはり野に置け蓮華草”だったよ」

と嘆息したのである。
辞任の記者会見で荒舩氏は、

「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で内閣にマイナスになると党員として申し訳ないので辞める」

と息巻き、翌年の総選挙で立候補した際には、

「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」

と開き直った演説で、支持者から喝采を浴びたと報じられている。

深谷駅の急行停車は、その後のダイヤ改正でも継続され、特急に格上げされてからも停車駅のままであったから、何本かの「あさま」も停車したのかも知れない。

特急「あさま」で上野と長野の間を行き来すると、大宮から高崎までの区間は、僕にとって退屈の一語に尽きた。
都市景観が楽しめる上野から大宮までの区間や、自然豊かな上信国境と長野県内区間のような車窓の面白みに欠け、行けども行けども似たような住宅と工場と田園ばかりが坦々と繰り返されて、壊れた映写機で映画の1シーンを反復して観させられているような気分になったものだった。
「あさま」には大宮と高崎の間を無停車の速達列車もあったから、高崎線の途中駅である熊谷や深谷に停車すると舌打ちしたくなったのは、さすがに旅人の傲慢と言うべきであろう。

今回の路線バス乗り継ぎ旅では、同じ区間を「あさま」の何倍もの時間を掛けているにも関わらず、退屈さを覚えることはなかった。
 
 
深谷駅で乗り継いだのは、13時10分発「寄02系統」寄居車庫行きである。
再び高崎線から離れて、東武東上線沿線の街へ向かう、楽しい寄り道コースになる。
高崎線に沿うバス路線も存在するのかもしれないけれど、「BUS MEDIA」以外に情報を持っていない僕は、記事の通りに進むしかない。

県道深谷寄居線で広大な田園の中を走り抜け、隣りの花園町に入ると、園芸造園の看板がある敷地に、凝ったつくりの松などが目立つようになる。
ここまで来れば、正面の秩父山地が間近に迫ってくる。

寄居市の桜沢交差点でバスは国道254号線に曲がり、更に国道140号線へと入っていく。
国道254号は東京と信州を結ぶ国道で、都内では川越街道の名が付けられている。
川越街道の池袋から練馬区へ至る区間は、片側2車線が確保されているものの、交通量が多く、右折車線が分離されていない交差点ばかりで、自分でハンドルを握ると対向車を待つ右折車を避けるための車線変更を何回も余儀なくされる、走りにくい道路というイメージがあった。
もちろん、寄居でそのような都市道路の面影は皆無で、おお、ここまで延びているのか、と懐かしくなってしまうのだが、それよりも僕の目を惹いたのは、桜沢という地名である。
 
 
昭和50年に公開された東映映画「新幹線大爆破」で、時速80km以下に速度を落とすと爆発する爆弾を、東京発博多行きの「ひかり」109号に仕掛けた高倉健扮する犯人が、身代金を乗せたヘリコプターを都心から西へ飛行させる場面がある。
 
「ヘリは寄居桜沢高校のグランドに着陸させろ」
 
と指示する高倉健の電話で、僕は寄居という地名を知った。
寄居桜坂高校では女性教師が駆け寄ってきて、ヘリから降りた刑事に犯人の伝言を伝えるシーンも添えられている。
子供の頃、同級生と「新幹線大爆破」の台詞を言い合って遊んだ僕にとって、寄居、と聞けば、桜沢高校、なのである。
 
 
歩道橋に書かれた地名をバスの窓から見上げながら、本当に寄居桜沢という地名があったのか、と嬉しくなった。
ただし、桜沢には寄居城北高校が存在するだけで桜沢高校の名を冠した学校は見当たらず、城北高校が以前に桜沢高校を名乗っていた史実もないようである。
 
東武東上線の終点であり、JR八高線と秩父鉄道が交差する寄居駅は、跨線橋に駅名が掲げられているだけで駅舎が見当たらない簡素な構造である。
寄居の街は秩父山地の麓に抱かれていて、とうとう関東平野の隅っこまで来たのだな、と思う。
 
深谷から40分ほど乗って来たバスから降りれば、冷たい秩父颪が容赦なく吹きつけてきて、僕は慌てて襟を掻き合わせた。
東京との寒暖の差に震えながら、随分と遠くまで来たような気がしたのだが、ここで気になるのは、またもや映画「新幹線大爆破」のことである。
 
 
ヘリコプターで運んだ身代金を、高倉健は、織田あきら扮する仲間に長瀞峡で受け取らせる計画であったが、失敗に終わり、織田あきらはバイクで逃走した挙げ句に事故で命を落とす。
その一部始終を見届けた高倉健が、川越街道と覚しき一般道を使って東京を行き来する場面がある。
 
 
犯人グループの拠点は、そこに戻ろうとした山本圭扮する別の仲間が刑事に見つかって逃走するシーンで、高島平団地を背景にした都営地下鉄三田線の志村車庫と西台駅が舞台になっていることと、三田線の電車に飛び乗って追跡を振り切ったことから、板橋区の志村三丁目駅に近いものと推察される。
ところが、志村三丁目駅から寄居城北高校までは70km、車で片道2時間を要する。
更に長瀞まで足を伸ばすならば13km、片道20分である。
僕は川越街道を使ってバイクで秩父へ行こうとして、あまりに遠いのと退屈さに辛抱しきれず、挫折した経験がある。
爆弾を仕掛けられて時速90~100kmで走る「ひかり」109号が、最後に停車することになる山口県内に達するまでおよそ10時間、その間に起きた様々な出来事を考えると、寄居や長瀞まで往復5時間以上を費やす時間があったのだろうか、などと、どうでも良いことに首を傾げてしまう。
 
今回の旅も、偶然の産物であるものの、高島平から寄居までバスで来た訳で、既に6時間を費やしているのだ。
 
 
13時55分に寄居駅を発車した本庄駅行き「寄01系統」は、桜沢の交差点まで折り返してから国道254号線を北上し、美里町に足を踏み入れる。
埼玉県には、みさと、と名乗る自治体が美里町と三郷市の2つ存在しているから、取り違えたりしないのだろうかと心配になる。
 
バスは秩父山地を離れて再び関東平野の真っ只中に戻っていくが、代わりに浅間山や妙義山をはじめとする上信越国境の山々と、赤城山、榛名山といった上毛国境の山々が、霞みながら視野に入ってくる。
見渡す限り、遮るものがない穀倉地帯である。
寄居から本庄まで16kmの距離があるけれど、途中停留所が少ないためなのか、バスは30分程度で走り終えてしまう。
 
 
今回の旅で、つくづく、埼玉は農業県だと思った。
揶揄しているのではない。
農業産出額は我が国18位でありながら、近郊農業が盛んな北部地域では葱やほうれん草、ブロッコリーなど、産出額が全国で3位以内に入る農作物もある。
 
面積に占める河川の割合が多いのもこの県の特徴で、47都道府県で最大の約3.9%であり、このバス旅でも数え切れないほど大小の橋を渡ってきた。
令和元年の台風19号により、埼玉県内で荒川の支流である都幾川など3つの河川の堤防が東松山を中心とした各地で決壊、3人が死傷し、浸水被害を受けた住宅が約480戸に上るという大規模な水害を被った記憶が鮮明であるが、それも河川が多い地形だからこそであろう。
 
埼玉都民と呼ばれる川口、浦和、大宮の住民ばかりが埼玉県民ではない。
彩の国に住む人々は、首都圏の味覚を支えている農業と、かけがえのない貴重な水源を抱いている自然のことを、もっと誇りに思って良いのではないだろうか。
このような、鉄道の旅では考えたこともない哲学的な気分になってくるのも、のんびりと地域を巡るバス旅が成せる技なのだろう。
 
「寄01系統」では途中停留所からの乗車がかなり見受けられ、鉄道に接続する大切な地域の足となっていることが窺えた。
県道本庄寄居線に入れば、間もなく本庄駅南口である。
 
 
JR高崎線における埼玉県と群馬県の境は、本庄駅から4.0km先の神保原駅と新町駅の間であるけれど、今回のバス乗り継ぎ旅では、本庄駅で高崎線とも埼玉県ともお別れである。
 
県境を越えるのは、本庄駅から東武伊勢崎駅を経てJR両毛線新伊勢崎駅までの13.3kmを行く14時45分発の東武バスで、高崎線から離れて北へ向かう。
これまで利用した路線バスは、全て前後2扉を備えた路線用車両だったが、本庄-伊勢崎線に用いられているバスは古めかしく武骨な外見で、前扉と中扉が設けられた観光車両の改造車だった。
僕は車両ファンではないけれども、今回の旅を思い出すたびに、いすゞCRA580と呼ばれるこのバスのことが真っ先に脳裏に浮かぶほど、鮮烈な印象だった。
 
 
本庄駅前から県道伊勢崎本庄線を北へ進み、群馬県との境を流れる利根川を跨ぐ坂東橋までの距離も4km程度で、いよいよ埼玉県のどん詰まりまで来たのだと思う。
鉄道に乗っていると、何処に県境があるのか判然としないことも少なくないのだが、県境を示す標識が立てられている道路を路線バスで走っていると、嫌でも気にせざるを得ない。
 
一般道だけで走破した経験はないけれども、関越道を走る高速バスが休憩する上里SAが、上信越道を分岐する藤岡JCTのすぐ手前でありながら、埼玉県上里町に位置していることを知った時には、ここまで埼玉県なのか、と驚嘆した覚えがある。
東京から前橋までの旅は、埼玉県の旅でもあった。
 
坂東大橋は背の高い堤防を越えて渡河するために見晴らしが良く、橋上に登り詰めれば、赤城山や、本庄と伊勢崎の街並みが一望できる。
伊勢崎市に入っても見渡す限りの田園が広がり、道路は直線で広々として、埼玉県よりも余裕がある造りである。
 
本庄から40分ほどで着いた東武伊勢崎駅で、僕はバスを降りた。
 
 
浦和駅から8本の路線で僕を群馬県まで導いてくれた東武バスとはこれでお別れで、次に乗るのは、黄色い塗装の群馬中央バスの東武伊勢崎駅から高崎まで足を伸ばす路線である。
1時間20分あまりをかける19kmの運行距離は、この旅で利用したバスの中で最長だった。
 
ここから、「BUS MEDIA」の記事とは異なるコースになる。
同誌の著者は、東武バスに拘るあまり路線が繋がらなくなって、途中で8kmも歩いたりしているのだが、僕にそのような束縛はない。
前橋までバス路線が繋がっているのかいないのか、と不安にならないでもないけれど、伊勢崎と高崎を結ぶバスの停留所が見つけた僕は、迷わずそれに乗ることに決めた。
高崎まで行けば、前橋に向かうバスくらいあるだろう、と考えたのである。
 
このバスは、伊勢崎と高崎をほぼ直線で結んでいるため、北寄りの前橋駅を回るJR両毛線と同様に重宝され、利用客が多い時代もあったと聞く。
ところが、僕と一緒に16時10分発のバスに乗っているのは、ふざけ合っている数人の男子高校生だけである。
 
平成25年の統計によれば、群馬県は乗合バス旅客輸送量が47都道府県で最も少ない。
年間輸送人員数を人口で割った輸送量は4.98人で、1位の神奈川県の72.14人の14分の1である。
一方で、20歳以上の人口100人あたりの運転免許保有者数は、85.83人にも及ぶ群馬県がトップである。
群馬県に入ってから、道路がやけに立派になったように感じられたのは、車社会を背景としているのか、それとも道路整備が行き届いているから車が増えたのか。
渋滞解消や速達性向上を目的に、各地で膨大な予算が投じられて道路が建設され、改良されているけれども、幾ら道路を整備しても、車はそれに合わせて増加するので、終わりなきいたちごっこである、と何かで読んだことがある。
車が普及すれば、路線バスをはじめとする公共交通機関を駆逐してしまうのだから、車とは便利であるけれども、やっかいな代物だと思う。
 
 
伊勢崎駅を発ち、市街地を南へ通り抜けた高崎駅行きのバスは、連取の交差点で県道24号高崎伊勢崎線へ折れて西へ進む。
少しずつ街並みが開けて来て、ところどころ田畑が垣間見えるようになるけれど、全国チェーンの大型店舗やコンビニ、ファーストフード店が絶え間なく姿を見せる。
このような郊外にまで、大きな駐車場やドライブスルーを備えた牛丼屋やハンバーガー店があるのだから、地元の人々は車で気軽に買い物や食事に行く習慣が定着しているのであろう。
 
時折、ごうっと赤城おろしの空っ風がバスに襲いかかって、僅かに車体を震わせる。
かかあ天下、雷と空っ風を合わせて「群馬の3K」と呼ばれていることを思い出すと、頬が緩む。
江戸時代から昭和初期にかけての群馬県は、当時の我が国の基幹産業である絹織物生産の中心地であった。
上州の女性が、男尊女卑の風潮が強かった日本のでも、従属的な位置に甘んじることなく元気であった理由は、養蚕織物業によって、女性も多くの収入を得られたからだという。
今でも、女性の運転免許保有者数は群馬県が日本一である。
 
ちなみに、かかあ天下とは、女性に頭が上がらない男性、妻の尻に敷かれている夫を意味するものと受け取られがちだが、上州の男が自分の妻に感謝し、尊敬し、自慢する意味で、ウチのかかあは天下一、という意味なのだと言う。
 
吹きっさらしで、何処までも真っ直ぐで、車の行き来だけが多い道路を、バスは坦々と走り続ける。
伊勢崎駅から30分ほどで左折し、利根川に架かる玉村大橋を渡って、国道354号線玉村伊勢崎バイパスで再び西へ針路を戻す。
茨城県や千葉県では幅広い大河である利根川も、この辺りまで遡って来れば普通の河川で、透明感のある清らかな水面が黄昏に染まっている。
 
 
録音された乾いた音声の停留所案内が流れると、じゃあな、と別れの挨拶を交わしながら、高校生が1人ずつバスを降りていく。
乗ってくる客は皆無で、バイパス沿いに建つ玉村町役場で車内に残っているのは、僕1人になってしまった。
 
この路線は、平成19年に伊勢崎-玉村役場線と玉村役場-高崎線に分割され、直通時代の最盛期には1時間に数本と頻繁に運転されていたにも関わらず、分割後の伊勢崎側の区間は1日5往復に減便されている。
 
玉村町は、江戸時代に日光例幣使街道の宿場町として栄えた。
朝廷の捧げ物を日光東照宮に運んだ勅使が日光例幣使で、京都からの往路は中山道を使うのが慣例となっており、高崎から伊勢崎、太田、足利、佐野、鹿沼を経て日光へ至る道筋が、日光例幣使街道と呼ばれた。
例幣使が通過する土地では、近隣から多くの人々が「御供頂戴」と集まり、例幣使は御洗米を少しずつ与えるのが常で、それを食べると疾病が治るとされていた。
例幣使の随員には、乗った駕籠をわざと揺すり、「勅使に対して失礼をした」と担ぎ手に因縁をつけて金品を要求する者もいたことから、恐喝のことを「ゆすり」という語源になったと言われている。
 
日光例幣使街道をたどる国道354号線は、県道24号線にも増して広々として、中央分離帯が整備された道路である。
高崎が近づくにつれて、少しずつ乗り込んでくる客が見受けられるようになり、車窓が賑々しくなったな、と感じると、巨大な駅ビルに圧倒される高崎駅前であった。
 
 
丸1日をかけて浦和から乗り継いできたバス旅も、いよいよ最後の路線となった。
 
最終ランナーは17時45分発「高20系統」、前橋駅まで40分程で走る群馬中央バスである。
暮れなずむ高崎駅前に姿を現したのは、古びた小型バスで、僕は鬱々とした重い足取りで乗降口を上がった。
バスがみすぼらしかったから、ではなく、長かった旅が終わろうとしている寂しさが込み上げて来たのである。
 
南浦和駅から前橋駅まで、鉄道ならば距離にして92.3km、普通列車でも所要2時間、運賃は1690円である。
11本もの路線バスを乗り継いでの所要12時間、待ち時間を除く実質の乗車時間が8時間にも及ぶ遠大なバス旅に、何の意味があったのかと問われれば答えに窮するけれども、高速バスで一気に走り切ってしまうより何倍も味わい深い時間だった。
運賃の合計が5000円近くに達したことを鑑みれば、贅沢な旅をしたものだと思う。
 
全ての道府県庁所在地にバスで足跡を記す、という目標を定めてしまったから、渋々と出掛けて来たのだけれど、このように楽しいバス旅になろうとは思いも寄らなかった。
このバス旅が経験できただけでも、趣味に目標を設けて良かった、と思う。
 
この旅の7年後の平成11年に池袋と前橋を関越道経由で結ぶ高速バスが開業し、群馬県にバスで行くことは簡単になった。
この旅で利用した路線バスの幾つかは、廃止されたり運行区間が短縮されているため、同じ旅を試みようとしても難しくなっている。
僕は、ぎりぎり間に合ったのだ。
 
 
埼玉県の浦和市と大宮市のように、群馬県でも、「高20系統」が結ぶ高崎市と前橋市の比較がよく話題になる。
「行政や文化の中心は前橋、交通や商業の中心は高崎」と言われる関係も、浦和と大宮に似ているように思われる。
 
それぞれの市庁舎は約12キロしか離れていないが、江戸時代は別々の藩であった。
前橋藩は徳川家の血筋である越前松平氏が治め、高崎藩は大名が度々入れ替わっているが、前橋も、利根川の氾濫により藩主が川越に移動し、前橋には陣屋だけが置かれていた。
 
明治4年の廃藩置県で群馬県の県庁は高崎に置かれたが、翌年には前橋に移されている。
明治6年に熊谷県となり、県庁は熊谷に置かれたものの、明治9年に熊谷県を廃して栃木県の一部の郡域を統合して現在の群馬県が誕生した時には、県庁が再び高崎に置かれている。
 
ところが、群馬県令に任じられた長州出身で吉田松陰の義弟にあたる楫取素彦が、県庁を高崎から前橋に移し、高崎市民には「元に戻す」と説明していたにも関わらず、明治14年の太政官布告で群馬県庁の所在地は前橋と定められたのである。
高崎の県庁は高崎城内に設けられていたが、陸軍歩兵第15連隊が同居して手狭になったことが一因で、また前橋の生糸商人が集めた寄付を移転資金に使うことで、明治政府も県庁を前橋の廐橋城に誘致することを了承したという。
生糸業が盛んだった当時の前橋の経済力は、高崎と比べものにならないほど巨大だったのである。
 
しかし、明治17年に日本鉄道が上野からの鉄道を開通させたのは高崎駅までで、前橋まで鉄道が伸びるのは数ヶ月遅くなった。
古代から東山道、鎌倉街道が開け、江戸時代に中山道、三国街道、日光例幣使街道などの主要幹線が交差する一大交通拠点であった高崎は、現代においても新幹線や高速道路などの交通拠点となっている。
 
人口は、長いこと前橋の方が多かったが、平成の大合併で僅かながら高崎の方が上回り、今でも微増している一方で、前橋は減少傾向にある。
高崎では市街地に大型店舗が軒を連ね、税収も前橋より多額となる経済都市であるが、前橋の大型店は郊外に出店し、市街地はシャッター商店街になりつつあると聞く。
しかし、納税者1人当たりの所得や持家世帯比率、住宅地の地価、世帯当たりの乗用車保有台数、そして年間商品販売額は、高崎より前橋の方が上回っている。
 
よく、高崎の人々は、
 
「県庁があれば前橋をはるかにしのぐ大都市になっていたかもしれないのに。そうすれば群馬がグンマー呼ばわりされることもなかった」
 
と残念がると聞くけれど、行政と経済の分離を評価する声もあり、浦和と大宮を合併させる荒業を行った埼玉県と対照的に、二大都市のライバル関係が、群馬の発展に結びついているのかもしれない。
最近では、両市の共同事業も少なくないと聞く。
 
「グンマー」について、僕自身は実際の会話で耳にしたこともなく、「ダさいたま」のようなあからさまで失礼な蔑称と感じた経験がないのだが、10年から20年前くらいのことであろうか、テレビのお笑い番組で、群馬県出身の漫才師が、
 
「『ぐ』のように濁音で始まる県なんて、他にありませんから」
 
と観客を笑わせると、審査員のコピーライターが、
 
「いや、僕は、群馬の面白さは『んま』にあると思うんだよね」
 
とのコメントを返したことが、なぜか脳裏に浮かぶ。
訳わかんねえよ、とツッコミながらも、言葉を職にする人は面白い感性を持っているものだと思った。
 
 
買い物帰りらしいおばさんたちをぱらぱらと乗せた「高20系統」のバスは、小柄な車体をぎしぎしと軋ませながら、高崎の市街地を走り抜ける。
建物が多く視界が遮られがちであるが、利根川や、その支流の井野川にかかる橋を渡る時などは、周囲の眺望が開けて、輪郭だけが夕景に浮かび上がる赤城山を見通すことが出来た。
 
「赤城の山も今宵限りか」
 
幕末の侠客国定忠治の名台詞が心に浮かぶ。
今回の旅で赤城山が見え始めたのは、どのバスに乗っている時だったっけ、と思う。
 
 
群馬県の第1、第2の都市を結んでいるのだから、もう少し立派な道路を予想していたが、「高20系統」が選んだ経路は県道12号線で、幅員が狭く走りにくそうな道路である。
古くからの街道のようで、シャッターを閉ざしたまま埃をかぶっている商店や、赤錆びて傾きかけた古色蒼然たる人家が目立つ。
 
前橋市に足を踏み入れると、この街は広島の原爆投下と同じ日の昭和20年8月6日の空襲で灰燼と化したため、逆に古い建物があまり見当たらないのだという。
新前橋駅前を過ぎると、少しずつ新しい建物の比率が増え、整然と街路樹が並ぶ碁盤目状の街路を進めば、暗がりの中に街灯だけが眩い前橋駅だった。
 
時計の針は午後6時半を回っていた。
 
 

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>