485系特急「鳥海」38年前の甘美な思い出… | 空の下、レールの上を人生と共に(JNR Forever)

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なつかしい人が はるかな日々が 時の流れこえて ほら めぐる旅路さ…

※初めにおことわり

過去に一度投稿していますが、一部加筆並びに写真を加えて再投稿しました。

 

 

1984(昭和59)年4月2日。

 

1浪の末志望校合格が決まり、浮かれ切った僕はその報告を兼ねて山形の両親の実家に遊びに行き、約1週間滞在して酒田駅から「鳥海」に乗った。

指定された僕の席の隣の窓側には、少女が一人座っていた。

 

1984年4月2日乗車の「鳥海」(10号車 モハ484-1502)特急券

 

窓にはラジカセが置かれ、ポッキーなどお菓子がたくさん目についた。


僕は黙って座っていたが、暫くして彼女が「どちらまでですか?」と問いかけてきた。
一瞬戸惑ったが、「上野まで…」と答えた。

鶴岡辺りまでぎこちない会話が続き、それから暫く二人とも黙っていた。

あつみ温泉を過ぎ、「笹川流れ」は日本海だけど春の陽光に包まれ、我が敬愛するアーティスト、大滝詠一さんの「ロング・バケイション」の世界!

 

それから二人の会話は堰を切ったように弾みだした。

彼女は高校に合格し、その春休み大曲から秋田へ出て川口へ帰るため、大宮まで「鳥海」に乗ったという。

僕は自然とそれまでの浪人生活に話題が向いたが、彼女は当時デビューしたてのチェッカーズのことを話した。

長岡まで来ると話し疲れたのか、高崎まで二人とも沈黙していた。

高崎まで来ると、大宮まであと50分。
それまでの沈黙を取り返すかのように、会話が再び弾んだ。

彼女が大宮で降りる時、僕は名残惜しくなり、連絡先を聞こうかと一瞬思った。

 

でも中学3年間では全くモテず、高校は男子校だった僕は、それ以上踏み込む勇気がなかった。


彼女が大宮で降り、僕一人になった「鳥海」は上野寄りの跨線橋にさしかかった。

彼女が足を止め、僕に会釈してくれているのが見えた。


一瞬あっけにとられたが、すぐ僕も手を振った。
でも上野寄りでかなり加速していたから、彼女に見えたかは分からない。

今思うことは、当時の「鳥海」には食堂車があり、長岡から話し疲れた時、僕が彼女を食堂車へ誘っていたらどうだったか。


違う展開になっていたかも知れない。

でも二人で食堂車に行ったとしても、仮に彼女の連絡先を聞けたとしても、今も続いていたかどうかは分かりません…

それから38年。
僕は家族の生活を守るのに精一杯。

彼女は今どうしているのだろう。
声優になりたいと言っていた。

彼女は夢が叶ったかも知れないし、現実は僕と同様に生活を守るのに必死かも知れない。

でも、ほんのひと時僕の心を豊かにしてくれたことを今も嬉しく思います。

 

 

当時撮り鉄から離れていましたが、「鳥海」には485系1500番台が連結されていました。

晩年の写真ですが、雪の上越線を越えてきた姿に往年の「いなほ」「鳥海」が思い浮かびます。

 

出会いと別れ、道中ひとときのドラマに溢れていた、国鉄時代…

 

回9724M

485系T-18編成6連[新ニイ]

2014.2.10 大宮