平成4年・南浦和駅から前橋駅まで路線バスが繋がっていた時代を行く~前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

日曜日の早朝の南浦和駅西口は、閑散としていた。

 

 
これから話をさせていただくのは平成4年の初冬のことであるから、もう30年近くも前になる。
平日ならば通勤・通学客でごった返していると思われる駅舎を出入りする人々の姿はまばらだった。
行楽に出掛ける待ち合わせであろうか、リュックサックを背負った年配の男女の一団が、駅前の一角で賑やかに談笑しているだけである。

如何にも休日の朝らしいその光景を見ると、何となく浮かない気分になった。
人が日曜日の早朝に駅に出掛けてくる目的は、遊びに出掛けるか、もしくは休日出勤くらいであろう。
出勤の途上でこのような光景を目にすると、世間は休みなのに、どうして僕だけが働かなければならないのか、という暗澹たる気分に襲われてしまうのだが、この日は、僕も旅に出て来たのである。
それでも、楽しそうなおじさん、おばさんたちの姿を見て落ち着かない心持ちになるのは、僕が休日出勤の少なくない仕事に就いていて、心が沈んだ経験を思い出し、自分の狭量さを痛烈に内省するためであろうか。
 
 
颯爽と駅前の乗り場に現れた、6時40分発の国際興業バス浦和駅行き「浦50系統」のバスを目にすると、さあ、僕も行くぞ、と、ようやく気持ちが切り替わった。

南浦和駅を後にしたバスは、京浜東北線に沿っていったん南へ進み、南陸橋通りに左折して線路を渡り、小谷場バス停を通過して、芝坂下の交差点を左に折れ、二十三夜坂を登り始める。
南浦和駅は川口市との境に近く、浦和市内の駅を結ぶ路線であるにも関わらず、最初は川口市域に入り込むことになる。

二十三夜坂下のバス停の次が二十三夜バス停なのだから、この道が二十三夜坂なのだと思うのだけれど、バスが走る県道上尾川口線はほぼ平坦で、停留所案内が流れなければ坂と気づくことはなかったであろう。
何処かに坂を登り下りするような丘陵でもあるのかと見回してみても、ホームセンターや倉庫などの大きな建物が並んでいるだけの平地が広がっているだけである。
 
 
「二十三夜」とは、月待ち、つまり月の出を待つ祭を指し、二十三夜講とも呼ばれている。
川口では、北条氏と足利氏が争った中世において、この近辺から多くの農民が兵士として徴用され、その身を案じた家族が集まり、武運長久と安心立命を祈ったのが始まりと伝えられている。
講は7月1日の夜6時頃から始まり、勢至菩薩を祀り観音経を唱える。
かつては祈願堂が建てられていたのだが、天保3年に老朽化のため廃堂となり、代わりに二十三夜供養塔が残っているという。

この言い伝えを聞くだけで、今は建物がぎっしりとひしめいているこの辺りが、広大な田畑であった頃、農民が作物を育て、馬に乗った板東武者が駆け回っていた時代のことが思い浮かぶ。
バス停の案内で耳にする地名が気に掛かるのも、小まめに地域を紡ぐ一般路線バスの旅ならではである。

二十三夜坂バス停からは、部活に行くのであろうか、ジャージ姿で通学鞄を背負った女子高生が乗車してきて、酔いやしないかと心配になるほど一心に教科書を読んでいる。
その後は、三々五々と仕事に向かうらしき装いのおじさんなどが車内に加わり、案外、日曜日でも休めない人は多いのだな、と思う。
この人々の目に、ジーパン姿でリュックを背負い、遊びであることが一目瞭然の僕は、どのように映っているのだろう。

それでも平日よりは乗降が少ないのであろう、10人ほどの乗客を乗せただけで、バスは20分足らずで浦和駅東口に到着した。

バスを降りる際に、運転手さんが怪訝な表情で僕を見ていないか、無性に気になった。
運転手さんも休日出勤している1人だから、という訳ではない。
京浜東北線ならば隣り駅、2分も掛からずに着いてしまう区間を、わざわざ遠回りして結んでいるバスに乗り通す客など、僕の他にはいない。
このような羞恥にも似た気分を、今日は何度も味わうのだろうな、と思う。
 
 
どうして僕が、せっかくの日曜日に早起きして南浦和駅まで出掛けて来たのかと言えば、群馬県に行くためである。
 
東京在住の僕が群馬県へ向かうのに、南浦和駅で途中下車した訳は、僕の趣味に起因する。
高速バスに魅入られた僕が、全ての都道府県の県庁所在地にバスで行くことを目標に定めた顛末は、前々回の記事に書いた。
関東地方の各県も空港リムジンバスを駆使して着々と制覇したのであるが、群馬県だけは羽田からも成田からもリムジンバスが走っておらず、如何ともし難い状態が続いていた。

そのような折りに、バス趣味の雑誌「BUS MEDIA」に「東武バス乗り継ぎの旅」と題された記事が投稿され、浦和から前橋を経て群馬県の北部まで足を伸ばした紀行文を読んだのである。
現在のように、スマホやパソコンでバス路線の詳細を簡単に検索できる時代ではなく、距離や運賃、運行本数を詳細に記したこの記事の情報は、誠に貴重だった。

何よりも、路線バスで東京から群馬県に行けることに驚嘆した。
これで前橋まで行こう、と思った。
そこまでしなければならないのか、という大儀さや阿呆らしさよりも、面白そうではないか、と大いに奮い立って、早速実行に移したのである。
 
記事の著者は北浦和駅から出発していたが、僕が南浦和駅を起点にしたのは、予備校生だった昭和59年に板橋区蓮台に住んでいた折りに、都営三田線の高島平駅から南浦和駅まで行く国際興業バスの「南浦05系統」に乗車したことがあったからである。
 
高速バスで県境を越えることなど珍しくも何ともないけれど、一般路線バスで県境を越える、という行為は、何故か心を沸き立たせるような魅力がある。
五反田駅と川崎駅を国道1号線経由で結ぶ東急バスの「反01系統」に乗り通して多摩川を渡り、東京から神奈川県に移動してみたことや、八王子から国道20号線で神奈川県内の相模湖駅まで、神奈川中央交通「八07系統」に乗ったこともある。
 
 
「南浦05系統」に揺られて笹目橋で荒川を渡っている最中に、これほど簡単に東京から埼玉まで行けるのか、と嬉しくなったことは、今でもはっきりと覚えている。
ただし、そのような酔狂なことをする利用者は少なかったらしく、「南浦05系統」は平成元年に廃止されてしまった。

乗っておいて良かったのである。
後に、僕の目標達成に一役を果たす路線になろうとは夢にも思っていなかったけれど、廃止前に「南浦05系統」の乗車を経験したおかげで、今回の前橋行の起点を都内の高島平と考えることが出来る。

同じ年に、池袋駅西口から高島平操車場まで国際興業バスの「池20系統」にも乗っているから、池袋から前橋への旅が始まったと考えても良い。
「池20系統」は昭和30年から運行されている老舗路線で、昭和43年に都営三田線が開通するまでは、1日100本も運転されていたことがあるという。
天保12年に我が国で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われ、徳丸ヶ原と呼ばれる農作地であった高島平に、入居戸数1万170戸というマンモス団地が完成したのは昭和47年のことである。
 
 
南浦和駅と異なり、「浦50系統」から降り立った浦和駅前では、行き来する人やバスが極めて多くなっていた。
「浦50系統」の20分間は、ちょうど夜から朝へ切り替わる時間帯だったのである。

「BUS MEDIA」の記事では、浦和駅と大宮駅を結ぶ東武バス「浦44系統」と、大宮駅と上尾駅を結ぶ東武バス「大51系統」を乗り継いでいたが、バス停で利用客の列に加わった僕の目の前に現れたのは、「上尾車庫」と行先表示を掲げた7時35分発の「浦33系統」だった。
運行距離が17km、所要1時間弱に及ぶ浦和-上尾直通系統が存在することは「BUS MEDA」にも記されていたけれど、運行時刻のタイミングが合うとはツイている、と思う。
 
 
南浦和から走って来た県道上尾川口線を、バスは引き続き北上する。

埼玉都民という言葉があるように、浦和や大宮など埼玉県南部の街は、東京のベッドタウンというイメージが強い。
平成13年に大宮市、浦和市、与野市、岩槻市が合併してさいたま市が誕生したが、この旅の当時はそれぞれがまだ独立していた。
県庁が置かれた行政都市であり、住宅地としての人気が高い浦和市と、東北・上信越・北陸方面に向かう鉄道の一大分岐点である駅を抱え、経済規模が大きい大宮市は、何かと比較されて、世間に話題を提供していたものだった。

明治16年に、日本鉄道が、現在の高崎線に当たる上野-熊谷間の鉄道を開業させた時には、現在のさいたま市域における最初の駅は浦和に置かれた。
大宮市は、古代より武蔵国一の宮である氷川神社の門前町として、また中山道の宿場町として栄え、宿場としての規模は浦和よりも大きかったという。
明治維新の廃藩置県によって大宮県が誕生したが、県庁は暫定的に東京に置かれ、その後、浦和県に改称した際には県庁が浦和に置かれたため、大宮に県庁が設置されたことは1度もない。
明治時代になって街道筋が寂れ、戸数が極端に落ち込んでいた大宮は、日本鉄道が東北方面に鉄道を建設するに際して分岐点となる駅を積極的に誘致し、明治18年に大宮駅が設けられる。
更に、国鉄大宮工場、大宮操車場などが併設され、鉄道の街として再び勢いを盛り返した大宮は、商業規模も県内随一となっていく。

鉄道趣味の観点から論ずるならば、昭和30年代から昭和57年までは、東北本線と高崎線への直通列車が、特急・急行列車のみならず普通列車すら通過してしまう浦和のことを、格下と見なす向きがあり、大宮駅の現在の1日乗降客数はJR・東武鉄道・埼玉新都市交通合わせて37万人、JRだけでも25万2769人にものぼって、浦和駅の9万人を大きく凌駕している。
 
 
ただし、それは鉄道だけの実情に過ぎず、奈良時代に律令制の政庁が置かれ、中山道の主要な宿場町の1つでもあった浦和という街の埼玉県内における重みは、駅の規模だけでは測れない。
そもそも、南浦和や北浦和など東西南北を全て冠し、更に中浦和、武蔵浦和、浦和美園などと市名をつけた駅が8つも存在する街など、他に見当たらない。

浦和市の人口は、平成7年に川口市を抜いて県内最大になり、明治期以降一貫して県庁が置かれ続けたのも浦和である。
大正12年の関東大震災を契機に、浦和には東京や横浜方面からの移住者が増え、昭和6年に京浜東北線の電車が走り始めると、東京のベッドタウンとしての都市化が急激に進む。
「鎌倉文士に浦和画家」と称されたように、東京の郊外で有数の文化人が活躍する文教都市としても知られ、高額所得者の比率も、渋谷区や世田谷区より高いという。
 
街路樹が生え揃って、しっとりと潤いのある浦和の街並みと、駅前や中山道沿いに大型店舗が建ち並ぶ大宮との違いは、「浦33系統」の車窓からも明らかである。
 
 
 
浦和から大宮までの8kmは、隙間なく並ぶ沿道の建物が途切れることがない。
京浜東北線とほぼ平行している路線にも関わらず、利用客は多く、大宮駅に近づくと立ち客も出る盛況となった。
これならば、浦和から上尾まで乗り通しても運転手さんに気づかれることはないだろうとほくそ笑んでいるうちに、大型店舗が視界を塞ぐようになり、車の流れが滞りがちになる。
 
「浦33系統」のバスは大宮駅前のロータリーに入ることなく、高島屋の前にあるバス停で、乗客が一斉に腰を上げた。
席に悠然と留まっているのは、僕だけだった。
 
 
 
乗り込んで来る客数の方が少なかったから、ざわざわしていた車内の雰囲気が少しばかり落ち着いて、大宮駅前を発車してからは、客が思い思いの停留所で降りていくだけになる。
バスが行く県道鴻巣大宮線も、道沿いに居並ぶ建物の間隔が開いて、何となくホッとするけれど、大宮から上尾までの10km足らずの道筋でも家並みが切れることはなく、道端の標識を眺めながら、いつの間に上尾市に入ったのか、と首を傾げているうちに、上尾駅に着いてしまった。
 
こうしてバスで走ってみると、東京の近郊とは何という巨大な都市圏なのだろう、と改めて思う。
 
 
上尾駅で思い出すのは、昭和48年3月13日に起きた上尾事件である。
 
高度経済成長に伴う東京圏の爆発的な人口増加により、上尾市でもマンモス団地が幾つも建設され、昭和40年から同45年の僅か5年間で人口が5万人から11万人へと倍増していた。
この時代、1000戸以上の公団住宅が4ヶ所も存在するのは上尾市だけであり、その総戸数は9000戸を超え、人口の伸び率は全国一だったという。

一方で、当時の高崎線は、上信越、北陸と首都圏を結ぶ旅客列車や貨物列車が数多く運行されており、線路容量が限界に近い中で、沿線住民の通勤・通学に利用される普通列車の増便がままならず、ピーク時でも7分おきの運転が限度で、朝夕の通勤通学時間帯の普通列車は乗車率300%を超えるという凄まじい混雑が慢性化していた。
加えて、国鉄の慢性的な赤字体質のために収容力の多い通勤形・近郊型車両を充分に増備できず、車両不足を補うため、2扉しかなく、立ち客のための吊革もない急行型車両を、ラッシュ時の普通列車に投入していたのである。
 
当時の国鉄では、賃金の引上げや労働環境の改善、合理化反対を目指して、労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、公共企業体である国鉄の労働組合は、公共企業体等労働関係法によりストライキなどの争議が禁じられていた。
そのため、国労、動労などの労働組合は、運転安全規範などの諸規則を厳格に遵守すると、かえって列車の運行が遅延することを逆手に取り、諸規則を遵守することを手段とする「順法闘争」を度々行っていた。
平時でさえ通勤時間帯の定時運行が困難な状況であるのに、事件が勃発した3月13日は、前日から「順法闘争」が開始されていたために列車の遅延が拡大し、通常の所要時間が37分である上尾駅から上野駅まで、3時間を要していたのである。
 
 
事件の発端となったのは169系急行型車両12両で編成された籠原発上野行き普通列車832Mで、定刻より16分遅れの午前7時10分に上尾駅1番線に入線する。
832Mは、上野駅に7時35分に到着した後、7時51分発直江津行き急行「妙高」2号になるため、グリーン車2両と食堂車1両が連結されており、その分、普通車が少なかった。
正常ダイヤならば上尾発6時54分となる832Mは、5時41分発の始発822Mから7本目の列車であったが、当日、上尾駅から822Mが発車したのは25分遅れの6時06分、832Mまでの間に運転されるべき4本の列車(824M、826M、828M、830M)が順法闘争の影響で運休していたことで、上尾駅には1時間4分もの間、到着する列車がなかったことから、5000人もの待ち客で溢れ返り、改札制限を行う有様であった。
 
832Mには、840人の定員に対して3000人以上が既に乗車しており、上尾駅のホームにいた利用客の大半が乗車できなかった。
そのため、何としても乗車しようとする乗客と、列車を発車させようとする職員との間で小競り合いが発生した。

832Mが立ち往生している間に、後続の前橋発上野行き普通列車1830Mが52分遅れで2番線に入線する。
こちらも急行形165系電車12両編成で、上尾6時48分発予定であった。
1830Mも、定員944人のところに4000人以上が乗車しており、この混乱の中で、832Mより先に1830Mを出発させ、双方の列車とも2駅先の大宮で運行を打ち切るという構内放送が流れる。

この放送が暴動の引き金になった。
怒り狂った乗客が832Mの運転室の窓ガラスを割り、身の危険を感じた運転士が駅長室に逃げ込むと、追いかけた乗客も駅長室になだれ込んで鉄道電話を破壊、中にいた駅長と助役が負傷する。
1830Mの運転士や車掌も逃げ出し、上尾駅に停車中の2本の列車は運転設備や駅の分岐器、信号などが破壊されたため、運行継続が不可能となった。
上尾駅構内に入線出来ず停車していた上野発新潟行き特急「とき」2号にも石が投げつけられて運転席の窓ガラスが割れ、ヘッドマークが破壊された。
 
熊谷鉄道公安室が埼玉県警に出動を要請し、また国鉄本社の通報により警官隊70人が出動したが、膨大な数の利用客に全くの無力であったため、700人まで増員されることになる。
8時半には高崎線の全列車の乗車券発売が中止となり、上尾駅員は総退去、大宮鉄道病院が救護班を派遣する。
8時50分に高崎線の上り列車を水上駅で全面的に停止させ、後に普通列車だけを高崎折り返しで運転が再開される。
 
午前9時を過ぎると、熊谷駅と上尾駅でそれぞれ1万人など、高崎線の各駅で列車を待つ利用客が合計3万人まで膨れ上がった。
10時近くになると、機動隊の整理により上尾駅の破壊行為は沈静化に向かうものの、上尾駅の隣りの宮原駅では駅長と助役が乗客に拉致されて大宮駅まで線路上を歩かされ、同じく高崎線の桶川駅、北本駅、鴻巣駅、熊谷駅などでも駅舎の窓ガラスが割られ、川越線835D列車に乗客が投石して運転士と車掌が国鉄大宮工場に避難、東北本線の下り急行「まつしま」1号にも投石があり、大宮駅8番・9番ホームの運転事務室が乗客に占拠されるなど、事態が周辺に拡大したため、10時40分に東北、高崎、川越線が全面的に運転を休止する。

運輸省が代行輸送の民間バス40台を手配し、午前11時に大宮駅の混乱が収束に向かったため、11時20分に東北本線が、11時30分に川越線が運転を再開したが、高崎線は終日運休となったのである。
 
この時点で事態の収拾が図られるべきであったが、労使双方とも歩み寄りをしなかった。
とりわけ国労・動労は「上尾の件は権力側の扇動したもの」と根拠も示さないまま反論するだけで、利用客への謝罪を拒否したばかりでなく、順法闘争を継続したため、国労と動労に対する国民の怒りは限界を超え、同年4月24日の夕方の帰宅ラッシュ時に、赤羽駅に始まり上野駅、新宿駅など38駅で上尾事件と同様の乗客による破壊行為が再現される首都圏国電暴動を迎えてしまうのである。
 
 
この20年後、労使紛争と赤字体質を自力で解決できなかった国鉄は、政府によって分割・民営化されるのだが、その目的の1つが労組の解体であることがあからさまであっても、強い反対が国民から挙がらなかったのは、これらの暴動事件で誰もが労組を見離していたから、と言えるだろう。
 
60年安保、70年安保を経て、我が国の政治の季節は昭和47年の連合赤軍あさま山荘事件で終わったとされているが、一連の国鉄駅における暴動の頃は、余韻がまだ残っていたのかもしれない。
機動隊員と睨み合う背広姿の男たちを写した写真を見れば、この騒乱の主役は、まさに普段は大人しいサラリーマンであった。
明治学院大学教授で鉄道ファンとしても知られる原武史氏は、これらの暴動の引き金となった駅が、巨大な団地が建てられた地域にあることに注目し、
 
『当時、団地自治会やPTAの主要な担い手は主婦であった。
国鉄や私鉄の値上げ反対にせよ、積極的に活動していたのはどの団地もサラリーマンではなかった。
だが上尾事件では、60年安保闘争を経験した30代を主体とする彼らが立ち上がり、「政治の季節」がよみがえったのである(鉄道ひとつ話3)』
 
と書いている。
 
 
おそらく同じ時代のことと推察するのだが、東武バスの運賃値上げに反対して東綾瀬団地で不乗運動が起こり、指定された乗車場所にずらりと並ぶタクシーに通勤のお父さんや通学する子供たちを乗せているお母さんたちと、その横を空っぽで通過していくバスの映像を見たことがある。
この時代の人々は、政治にはっきりと物を言うことが出来たのだな、と思う。
 
こうして30年後の上尾の静かな街並みをバスの車窓から眺めていると、あの時代に国民が秘めていた行動力は何処に消えてしまったのだろう、と不思議の念に駆られる。
 
 
風にざわめく街路樹の緑が鮮やかな上尾駅前からは、上尾西第一団地、第二団地行きの路線バスが頻繁に運転されていて、昭和47年から深夜バスも運行されている。
僕が乗り換えるのは上尾駅8時35分発の「鴻03系統」鴻巣経由免許センター行きのバスで、しばらくは住宅地が続く高崎線に沿った道のりが続くが、途中の桶川駅の手前で右折して、しらこばと団地に寄る。
 
シラコバトとは主としてユーラシア大陸や北アフリカに生息する鳩で、我が国では千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部、群馬県南部といった関東北東部地域で見られるという。
一時期は生息地域が埼玉県東部の越谷市まで狭められ、昭和31年には国の天然記念物に、また埼玉県の県鳥及び越谷市の市鳥に指定されて、童謡「鳩ぽっぽ」はシラコバトの鳴き声をモチーフにしたと言われている。
 
 
画一的でありながら清潔感のある幾棟もの白亜の建物を目にしながら、高度経済成長期を生きた人々が夢を抱いて入居した当時のことを思う。
団地とは集団住宅地の略で、昭和30年代に日本住宅公団によって建設が始まった公団住宅は、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダなどを取り入れ、近代的な住居として憧れの的だった。
入居した人々の中には、団地生活に飽き足らず何時かは一戸建を夢見る世帯も少なくなかったであろうし、上尾事件が起きた昭和40年代には、団地と言えば狭くて駅や繁華街から遠くて不便、というイメージに成り果ててしまっていたとも言われる。
 
高島平を起点として、中山道を伝いながら北関東を目指している今回の旅で、大規模な団地が見られるのは、鴻巣の辺りまでであった。
「鴻03系統」は、13kmの運行距離を40分ほどで走り抜く。
 
終点となっている免許センターは、鴻巣駅から1kmほど離れたところにあり、鴻巣駅から免許センターを行き来する利用者が多かったことから、鴻巣駅発着のバス路線は全て免許センター発着に切り替えられたという。
日曜日でひっそりとしている免許センターからは、熊谷、行田、羽生、加須、上尾、東松山、川越方面のバス路線が延びていて地域の一大ターミナルになっており、僕が次に利用するのは9時30分発「東02系統」東松山駅行きである。
 
 
これまで高崎線に沿って進んできた行程が、ここで初めて横に逸れることになり、今回の旅の最大の楽しみであった。
東武東上線沿線の東松山に行くのは初めてだった。
免許センターから乗り込んだのは僕だけであったけれど、折り返して経由した鴻巣駅で、20人ほどがどやどやと乗り込んでくる。
県道東松山鴻巣線に入ったバスは、鴻巣市街を通り抜けて、幅広い河川敷を抱く荒川を渡り、吉見町に入っていく。
 
 
川の前後では視界が一気に開けて、広々とした水田地帯が広がった。
浦和から鴻巣にかけての車窓は住宅や団地ばかりだったから、車窓が新鮮に感じられて、気分がのびのびとする。
正面の遙か彼方に、秩父山系が連なり、その背後に白く雪をかぶった富士山が顔を覗かせている。
埼玉県は意外と富士山が見える場所が多く、外環自動車道や関越自動車道の高架部分から、その流麗な容姿を目にしたことが何回かある。
 
国の天然記念物であるヒカリゴケで有名な吉見の百穴入口バス停を過ぎ、市野川を渡れば、バスは東松山市内へと歩を進める。
戸建て住宅の数が増え、市のシンボルである赤鳥居をくぐれば、鴻巣から13kmのバス旅は終わりを告げる。
40分あまりの行程だったが、それまでの区間に比べれば、あっという間に感じられた。
 
 
多くの街道が集まる交通の要衝として発展した東松山は、日本三大焼き鳥の街としても知られている。
 
数年後に、僕は東松山を年に1回訪れるようになる。
職場の先輩に誘われて、アジアで最大規模の国際ウォーキング大会として昭和53年から開催されている「日本スリーデーマーチ」に参加したのである。
世界的にも、オランダのナイメーヘン国際フォーデーマーチに次ぐ規模で、多数の外国人も合わせてのべ10万人の参加者が比企丘陵を歩く。
50km、40km、30km、20km、10km、5kmと距離に応じたコースが設けられ、僕らは最初の年は10kmコースを選んだが、翌年からは20kmに挑んだ。

1度だけ、小学校6年生の遠足で22kmを歩いた経験しかない僕にとって、20kmとは実に恐るべき距離なのであるが、初期の大会では最短コースであり、御年60歳を超える僕の恩師は、毎年30kmコースを踏破していたのだから、ひたすら脱帽するしかない。

ただ歩くだけ、と言っても、実際にはなかなか大変な行為なのである。
11月上旬の少しばかり肌寒く、それでいて清涼な風に吹かれながら歩く気分は爽快だったけれど、閑静な住宅地と刈り入れの終わった田園、そしてこんもりと木々が繁る丘陵が繰り返されるウォーキングコースは、退屈でもあった。
これが秩父颪か、と震え上がるような寒風が吹きつけてくる年もあった。
 
後半になれば、疲労が蓄積してきて退屈どころではなく、大したことのない登り坂にも敏感になって、溜息が出る。
そのような中だるみの頃合いになると、先輩の女性が髪にカチューシャをかっちりとはめて、
 
「さ、行くわよ!」
 
と歩を速めるのが常であった。
その仕草が、仕事で重大事に直面した時と全く同じであったために、
 
「出ました、カチューシャモード!」
 
などと、皆で囃し立てたものだった。
 
 
ゴール付近には各種マッサージのテントが連なり、人だかりが出来ている。
待ち人の列が長くて逡巡していると、1人の同僚が、
 
「あっちだけ列が短いですよ」
 
と「足指マッサージ」なる看板を見つけた。
 
「大丈夫か?」
「下手なんじゃねーの?」
 
などと言い合いながらも、よく考えてみれば、年に1回の大会の出店で、施療者の技術の評価に差が出るはずがない。
 
「足つぼマッサージみたいなもんだろ?俺、やって欲しいよ」
 
と、1人の先輩が中に入っていった。
固唾を呑んで見守っていると、マッサージを終えて出て来た先輩は、何やら困惑の表情を浮かべている。
 
「どうでした?」
「やっぱりハズレだったんですか?」
 
と口々に問うと、先輩は笑い出した。
 
「足指マッサージって言われればさあ、せめて、足を揉みほぐしてくれるのかって思うじゃん。ところがさ、ここ、おっさんが自分の足の指を俺の背中や腰に押しつけて揉むんだよ。ありかよ、あんなの」
 
帰りに寄った東松山駅前の屋台で、ぴりりと辛く赤い味噌ダレを刷毛で塗り、串に刺さっているのは豚のカシラ肉という東松山独特のやきとりを肴に、皆でビールを傾けるひとときは、こよなく至福であった。
 
今回の旅の途上では、後に東松山が思い出多き土地になることなど知るはずもなく、僕は、駅前に姿を現した10時40分発の「東01系統」熊谷駅行きにさっさと乗り込んでしまった。
 

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