鳥取県内で一旦海岸線から離れた山陰本線の下り列車は小田駅の西方、国道9号線をアンダークロスでくぐった所の小田東漁港上で再び海岸線に躍り出ます。
この区間では、朝のC57が牽く上り客車列車がもっぱらの被写体でした。浜田始発のこの列車は西舞鶴行のサボを付けていて、山陰線の綾部から列車番号を変え下り列車となって舞鶴線を西舞鶴まで行く、今では考えられないような変わった運行経路で、昭和47年秋の改正まで列車番号は546レとなっていました。
雨の中、小田東漁港のSカーブを駆け抜ける546レ
この日のワキ1000は明かり窓の付いたタイプでした。
1972年8月
路傍の地蔵が山陰本線の列車を見守っているかのようです。
1973年8月
海辺の田儀駅をC5776が牽く546レが発車して来ました。
1972年4月
海辺に防風林が植えられている所は民家が建ち並び、周辺に茶畑があったせいもあるのか、この場所は電線が複雑に交錯していて、風景が良い割に列車写真を撮るには不向きな場所でした。
1972年8月
貨物列車が来たタイミングで分厚い雲間から奇跡的に日が差してくれました。
海辺までのこんな狭い場所にも棚田が耕されています。
1974年3月
上り列車が田儀駅を出てすぐの所にある大築堤
海からの強烈な季節風で白煙が生き物のように舞います。
この築堤は上り列車に対しての上り勾配で、田儀を発車して間もない事もあり上り列車は100%煙の期待ができました。 1973年12月
普段は機関車の機番にあまり興味はないのですが、数週間前まで播但線でしばしば出会っていたC575が山陰本線西部の田儀駅で546レを牽いて出発して来た時は驚きました。
梅小路時代までは形式入りプレートを付けて人気のあったC575でしたが、豊岡に転属した時に普通のプレートに替えられてしまい、同機の魅力は半減したように思います。また豊岡でかけ替えられたナンバープレートは文字も細く、どこか貧弱な感じのするナンバープレートになってしまい本当に残念です。 1972年3月
最後まで御覧戴いて ありがとうございました。