愛媛県松山市の旅(約20年前と比較) | 鉄道で行く旅

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兄から、今月(2020年3月)、愛媛県松山市内まで行ったときに撮った画像が送られてきました。

今回は、その画像を利用するとともに、私が撮影した18年前~20年前の松山市の写真と比較してみたいと思います。

(2020年3月)

伊予鉄道(路面電車の市内線)2100形のダイドードリンコ(俳句甲子園の商品協賛企業)による「松山俳句甲子園」ラッピング車です。

 

(2002年6月)

18年前に撮影した旧塗装時代の伊予鉄道2100形です。

 

(2020年3月)

大街道電停付近を行く坊っちゃん列車です。

 

(2002年6月)

18年前に大街道電停から坊っちゃん列車に乗車する直前の画像です。牽引機は伊予鉄道の初期の蒸気機関車を再現したディーゼル機関車です。

(2008年5月)

12年前に撮影した坊っちゃん列車です。

 

(2002年6月)

18年前に撮影した坊っちゃん列車です。

 

(2020年3月)

南堀端付近の伊予鉄道2000形です。(元京都市電2000形)

 

京都市電ほか

京都・祇園交差点付近で撮影した京都市電の2000形です。(1971年10月)

 

夕暮れの道後温泉駅(2008年5月)

 

道後温泉本館(2000年6月)

 

(2000年6月)道後温泉で撮影した旧塗装時代の伊予鉄道2000形です。(元京都市電2000形)

 

京都の梅小路公園に保存されている京都市電2000形です。(2019年1月)

 

(2020年3月)

松山城や愛媛県庁の前を行く伊予鉄道の後期タイプの50形です。

 

(2002年6月)

18年前に同じ場所で撮影した前期タイプの伊予鉄道50形です。電車の右側のNTTの場所が夏目漱石が教鞭をとった旧制松山中学校跡です。

旧制松山中学校は、現在は松山市持田町二丁目にある松山東高等学校の前身です。

 

(2020年3月)

三津駅の下りホームで撮ったと思われる伊予鉄道3000系です。(元京王井の頭線3000系)

 

(2020年3月)

旧駅のデザインを踏襲しながらスケールダウンして、建て直された伊予鉄道三津駅の駅舎です。

耐震問題やバリアフリー化のために2009年2月に3代目駅舎として竣工しました。

この写真を見るまでは新しい駅舎に変わっていることを知りませんでした。

 

(2000年6月)

20年前に撮影していた2代目の三津駅舎です。推定では高浜線の改軌(762mmから1,067mmに変更)および高浜線電化完成時の1931年(昭和6年)頃の建築とされています。

 

(2000年6月)

夏目漱石の「坊っちゃん」が利用したのは、これとも違う初代の三津駅の駅舎でした。

 

(2000年6月)

2代目三津駅舎と伊予鉄道800系です。(軌間1,372mmの元京王線2010系)

撮影した先頭車は伊予鉄道移籍時に先頭車改造された京王の初代5000系のような顔つきになっていた元京王の2010系です。台車は井の頭線の初代1000系の廃車発生品(1,067mm)に履き替えています。

初代駅舎の時代は軽便鉄道の汽車でした。「坊っちゃん」が乗車したのは三津駅から松山駅ですが、漱石本人の赴任時の松山駅は外側(とがわ)駅という駅名でした。それが現在の松山市駅です。外側駅から再び松山駅に戻す改称をした後の、松山駅から松山市駅への改称は1927年に予讃線(当初は讃予線)の松山駅が開業したためです。

夏目漱石の小説「坊っちゃん」の中で、マッチ箱のような汽車と書かれた蒸機機関車です。この梅津寺公園に保存・展示されているドイツのクラウス製の1号機関車は、1888年の伊予鉄道開業当時の甲1型1号機関車で、鉄道記念物や県指定民俗資料に指定されています。(2020年3月)

「夏目漱石の坊っちゃん」には「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。」と書いてあります。

これは小説なので、誇張した書き方になっており、三津から松山市までは6.4kmの距離があるため、現在の電車でさえ15分かかります。

 

明治32年(1899年)の伊予鉄道時刻表

念のために、明治32年(1899年)の時刻表(汽車汽船旅行案内)で確認したところ、軽便時代の汽車で三津駅から外側駅(松山市)まで22分ないし23分かかっていました。逆方向の外側駅(松山市)から三津駅までは28分です。

また、この時刻表では伊予鉄道の「上り」と「下り」の方向が現在とは逆になっていました。現在は高浜行が上りです。「上り」と「下り」を入れ替えた理由は不明ですが、おそらく、後で開通した旧国鉄の「上り」「下り」の方向に合わせるための変更ではないでしょうか。

明治32年(1899年)の三津駅から外側駅(松山市駅)までの運賃は5銭または6銭ぐらいだと思います。

1903年(明治36年)の高浜・四十島・三津港・三津駅の地図です。予讃線がまだ開通していなかった時代の港町「三津浜」の繁栄ぶりが何となく分かります。

また、この当時は三津駅と古町(こまち)駅の間に人家が少なく、後に設置された山西駅(1927年開業)、西衣山駅(1968年に開業。進学校として有名な中高一貫校の愛光学園の最寄り駅)および衣山駅(1927年開業)の3駅がなかったため、現在の電車で15分の区間を、軽便鉄道時代の汽車においても、現在の電車に近い22分で走破していました。これは三津駅から古町駅までノンストップ運転だったことが大健闘の理由です。

伊予鉄道の1927年の新駅設置や1931年の高浜線などの改軌および電化は、1927年(昭和2年)4月3日に現在の予讃線が伊予北条駅から松山駅まで延伸されたことへの対応策であったと考えられます。

【参考情報】

本投稿では積極的には触れませんでしたが伊予鉄道の高浜(高浜港に連絡するための路線)延伸に反発した三津浜町の地元有志が作った松山電気軌道が1912年以降に伊予鉄道の並行路線を開業しましたが、経営がうまく軌道に乗らず、1921年に伊予鉄道が吸収合併した後に不要部分の並行路線を廃止しています。

 

古町(こまち)駅の名所である斜めダイヤモンドクロスです。伊予鉄道の高浜線を平面交差で斜めに横断する城北線(松山市内線のうち城北線だけは軌道法ではなく鉄道事業法を適用)です。車両は2000形2003号(元京都市電2000形)です。今回の旅において南堀端で撮影しているオレンジ塗装の2003号の昔の姿です。(2002年6月)

 

2000年6月に撮影した漱石の「坊っちやん」で主人公が最初に泊った「山城屋」のモデルになった、往年の松山の高級旅館「きどや旅館」跡の建物です。(戦災で焼失した後の1953年に再建したものです)

1978年(昭和53年)に旅館を廃業し、2000年当時は画像のような「ビストロきどや(旅館の裏側が店舗)」になっていました。この建物は2012年(平成24年)に取り壊され、現在は、この場所にマンションが建っているようです。

1903年(明治36年)の「きどや旅館」と旧制松山中学校の地図です。路面電車である松山市内線の路線はまだ開業していません。現在の予讃線も、まだ讃岐鉄道の時代であり、後の予讃線になる区間は高松駅から多度津駅までしか開通していませんでした。(土讃線部分は琴平駅まで開通)

伊予鉄道の松山市駅は、外側(とがわ)駅から開業時の松山駅に再び戻っていた時代の地図です。

江戸時代は、松山城の周囲が武家屋敷の町で、城の北西に作られた古町は武家以外の町人のための大きな住区でした。明治時代に入ってから武家屋敷跡に官公庁や学校などが建てられ、武家町の南東の外郭(外側)にあった町人住区が商業地として発展していったのが大街道や銀天街であるようです。

 

参考画像:こちらが伊予鉄道800系の普通の顔です。元京王2010系らしい顔つきです。(2000年6月)

 

20年前には「三津の渡し」にも乗船しました。

市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80mを結ぶ渡船が「三津の渡し」です。年中無休(無料)で年間約4万人の方が利用しています。(2000年6月)

 

(2020年3月)

兄は三津浜駅から松山駅までJR四国を利用したようです。7000系です。

 

(2000年6月)

20年前は高浜駅でも下車しました。この駅舎も高浜線の改軌・電化時の建築と思われる昭和初期の駅舎です。

 

有名なターナー島です。

これが「坊っちゃん」に出てくる「ターナー島」です。正しい名称は「四十島(しじゅうしま)」です。(2000年6月)

「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。(夏目漱石の「坊っちゃん」から)

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品を多数所蔵しているロンドンのナショナルギャラリーから見たトラファルガー広場のネルソン提督像です。(2016年9月)

ロンドンのナショナルギャラリーにあるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品「雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道」です。(2019年4月)

 

(2020年3月)

大手町のダイヤモンドクロスです。

これは「一六(いちろく)タルト」のライバルである「ハタダ」の「御栗タルト」号でした。

 

(2020年3月)

大手町ダイヤモンドクロスの伊予鉄3000系(元井の頭線3000系)とモハ50形後期タイプです。

(2020年3月)

こちらは伊予鉄道の自社発注車である610系です。2019年12月に梅津寺駅横に開業した「みきゃんパーク」ラッピング編成です。

 

(2000年6月)

20年前のダイヤモンドクロス付近の後期形と前期形の50形です。

 

(2000年6月)

20年前の大手町ダイヤモンドクロスの700系(元京王線の初代5000系)と2000形(元京都市電2000形)です。

伊予鉄道に移籍した元京王線初代5000系は京王線の軌間が「馬車鉄道・都電タイプ」の軌間1,372mmであり、しかも移籍した電動車のほとんどが吊り掛け駆動車だったことから、伊予鉄道700系の電動車は最終的には東武2000系の軌間1067mmの台車に履き替えています。

現行のオレンジ塗装の伊予鉄道700系です。元京王線の初代5000系です。昨年の松山訪問時の2019年3月の撮影です。

 

【付録】兄からもらった土産です。

1.山田屋まんじゅうです。皮肉ではなく糖質制限中のため土産の個数も控え目になっています。

 

【比較画像】20年前の2000年6月に買った松山土産です。このときも糖質控え目で5本だけの団子です。これは道後温泉の「つぼや」の「坊っちゃん団子」でした。

 

2.今回の兄の土産の坊っちゃん列車のチョロQです。

(おわり)