令和元年10月28日mon晴れ
 
過去記事の第4回目です(;^_^A
 
周防大島の柑きつ振興センターでの研修も無事終わり
 
柳井港で弁当をバスに積み込み、防予フェリー「おれんじじゅぴたー」に乗船
 
16時05分に出港しました船DASH!
 
ご訪問頂きましてありがとうございます
 
前回の山口県柑きつ振興センターから続きます(*^▽^)/
 
16:16
柳井港にオレンジラインのフェリーが停泊してるけど・・・
 
 
時刻表で確認すると
次の17時50分の便は伊保田港に寄港する便なので・・・
 
今時分に(16:17)に伊保田港を出港する上り便「しらきさん」が17:40に入港して折り返すはず
 
今乗っている船が柳井港に帰って来るのは21:55なので、18:30の便なのかな?
 
16:16
オレンジラインは日本三大潮流の大畠瀬戸(10ノットと認定された場合)を抜け、屋代島(周防大島)の北側を航行します
 
16:17
さらばじゃ柳井港バイバイ
 
16:26
大畠瀬戸に架かる全長1,020mの大島大橋が近づきます
 
16:27
最大潮流10ノットの急流で、橋脚に受ける潮流抵抗を避けるため多柱式基礎の上に連続トラスで構成(世界初の試み)
 
16:28
車道の東側には歩道が設置され、本土側で国道188号線と山陽本線も跨いでいる
 
この歩道は渦潮観測だけでなく、山陽本線を走る列車の撮り鉄ポイントとして有名なのだそうなカメラ
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大島大橋を潜ります(≧∇≦*)
 
長さ1,020m、幅9m、海面より31.9mの高さです
 
16:28 
左舷後方
 
 
1976(昭和51)年に大島大橋が開通するまでは国鉄が大畠駅-小松港間(2.8キロ)に大島連絡船を運航しておりました
 
16:28
橋桁下部には水道管と光ケーブルも敷設されており、上水道の幹線となっておりますが
 
2018年10月22日の貨物船衝突事故では周防大島全域の9050世帯で断水し、橋も通行禁止となりました
 
復旧作業は安全確認や補強工事を行いながら片側通行で解除、上水道は12月1日に復旧するまで断水が続きました
長周新聞
 
16:29
 
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流れの速い大畠瀬戸を東へ船DASH!DASH!
 
16:37
 
16:39
周防大島の海岸線は長くどこまで続くのだろう
 
16:53
私たちの船とほぼ同時刻(12分後)に伊保田港を出港した「しらきさん」とすれ違いました
 
少し小型の443トン、旅客定員150名のフェリーです
 
16:56
同じ航路でも会社が違うのでファンネルの形状も違いますね
 
17:02
右舷には陸続きとなっている頭島と浮島(うかしま)
 
これらの島々を過ぎると、
 
旧日本海軍の一大拠点だった艦艇停泊地の柱島泊地
 
大日本帝国海軍連合艦隊健在なりし頃に
 
主要な戦艦、航空母艦がその勇士をこの地に留めた
 
その光景は壮観の極みだったに違いありません

 

 

17:05
前方に柱島が見えて来ました
 
右に柱島泊地を囲むように柱島群島の小島が連なっています
 
いよいよ柱島泊地です
 
17:07
柱島泊地というだけに柱島の南西沖合と云われますが・・・
 
もちろん言葉を代えれば周防大島伊保田沖でもあります
 
山本五十六連合艦隊司令長官は真珠湾攻撃の際、此処に停泊中の旗艦長門で攻撃成功の電文を受取ったとされています
 
旗艦ブイは北緯33度58分40秒 東経132度24分5秒に置かれていたそうですが・・・
 
長門型戦艦の2番艦で、戦前は世界七大戦艦と呼ばれていた戦艦陸奥
 
1943(昭和18)年6月8日
 
午前10時30分頃、土浦海軍航空隊第11期甲種飛行予科練習生113名と教官が艦上勤務実習で陸奥に乗艦し、1,471名が乗艦していたそうな
 
呉から戻った長門と旗艦交代で約0.9km先のブイに移動後
 
午後12時15分、第3砲塔火薬庫が大爆発を起こし、二つに折れ艦尾を残して瞬時に沈没
 
当日の停泊艦艇は戦艦長門、扶桑、重巡洋艦最上、軽巡洋艦大淀、龍田、駆逐艦数隻だったという
 
犠牲者は1,121名に上ったが、陸奥爆沈の事実は海軍によって厳重に秘匿されました
 
陸奥沈没地点
北緯33度58分40.13秒 東経132度24分5.56秒
 
戦闘で沈没した日本の大型艦で、実際に海底に眠る姿が確認されているのは、東シナ海の戦艦「大和」、ソロモン海域の戦艦「霧島」のほか、ミッドウェー海域の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」
 
現在、戦艦陸奥が爆沈した海域は防予フェリーの航路となっております
 
17:09
右舷後方
 
間もなく左舷前方に沈没地点ですが・・・
 
当日には沈没地点がはっきりと特定出来ておりませんでしたので
 
写真は的外れ的な場所というか、夕日を撮っております(;^ω^)
 
17:12
浮島と頭島の向こうの周防大島瀬戸内アルプスに陽が沈みます
 
17:14
陸奥沈没地点横を通り過ぎます
 
船員さんに沈没地点を訊ねてみましたが、
 
はっきりとした位置はご存知でなかったので
 
当日はこの辺りのどこかという感じで黙とうしました
 
17:16
この写真は右舷後方を撮ってますが、ちょうどこの時刻左舷側柱島方向へ1.5km位先が戦艦陸奥爆沈地点
 
17:19
陸奥爆沈地点を過ぎ柱島泊地から出て、
 
周防大島の瀬戸ヶ鼻と情島の狭い海域を抜けて行きます
 
17:20
昭和45年6月から水深40mの海底に眠る陸奥の引き揚げ作業が始まりました
 
昭和47年11月に右舷前方の周防大島小伊保田の松ヶ鼻(旧東和町)に、引き揚げられた遺品や艦装備品を展示する陸奥記念館が建てられました
 
17:23
長い長い周防大島、秋の夕日は釣瓶落とし!
 
周防大島の向こうにストンと落ちました
 
17:26
瀬戸ヶ鼻の狭い海域を抜ければ県境で、向こうに見える二神島は愛媛県松山市になります
 
17:27
松ヶ鼻を廻り込んだ先には伊保田港があり、周防大島松山フェリーが発着しております
 
ここから三津浜港までの間が国道437号線の海上区間となっており、この間は国道フェリーの任を担っております
 
17:28
伊保田港へ寄港する便はこの辺りから右へ
 
17:30
瀬戸ヶ鼻の左の情島の磯には白い灯台が建ってます
 
17:32
 
17:33
瀬戸ヶ鼻の狭い海域を抜けて二神島の右を進むようです
 
17:35
右舷から瀬戸ヶ鼻(周防大島)方面
 
17:40
 
フェリーは山口県から愛媛県へ
 
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17:42
前方には中島を中心とする忽那諸島(くつなしょとう)と呼ばれる愛媛県松山市沖の島嶼部の島々が浮かんでる
 
中島、津和地島、怒和(ぬわ)島、二神島、睦月島、野忽那島、由利島を忽那七島と呼ぶそうな
瀬戸内・松山 里島(りとう)めぐり流れ星
中島汽船流れ星
 
17:46
振り返ると屋代島(周防大島)のシルエットがまだ浮かんでる
 
18:04
 
18:05
辺りは既に真っ暗になり、興居島の向こうに松山市の灯りが見える
 
18:31
18時40分の到着予定ですが少し早く三津浜港へ着いたようです
 
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四国中央市には20時30分に無事戻ることが出来、JAうま果樹部会の日帰り研修を終えました

 

GPSトラックログによる動画(写真の位置がずれてる場所もあります)

 

今回の1.〜4.の行程は当初ブログ掲載予定では無かったので写真も充分に撮っておりませんでした
 
それを誤魔化す為に (訂)補う為にジオグラフィカやIOSのスクショを多用した為
 
見辛かったかも知れません事をお詫び申し上げまする<(._.)>
 
 
今回もお立寄り頂き、最後までご覧いただきましてありがとうございました
 
 
おわり
 
では、またバイバイ