京都電気鉄道が開業に備えて導入した電動機その他の部品を当時の社長であった高木文平三吉電気工場に一括注文します。

しかし黎明期の国産電気品を一括購入を図る高木の手法に、発起人の1人:大澤善助『これはまずい』と判断します。
日本初の電気会社である三吉電気工場に国内初の電気鉄道の全発注を行うより、欧米に於いて十分経験のある製造所を調べて注文し、その機械をもって開業しなくては会社は世人の嘲笑を受け大きな損失をするかもしれない…
外国で経験・実績のある電装品を幾分か導入しなくては三吉電気工場製の機器に不具合が生じた場合は運転が出来ず大きな恥を晒すことになる恐れがあるから是非とも外国製の信頼性の高いものを購入しなくてはいけないと大澤は高木を説得して、三吉電気工場の発電機の基となっていたGE製発電機(GE800)など6輌分の電装品の輸入を契約しました。


1895年1月より七条-伏見間は電車試運転を行う際の記録が残っています。

午後1時、七条発車から凡そ8km/hの速度で走ります。発車に際しては550ボルトの電圧に於て40アンペアの電流を要し、進行中は平均400ボルトの電圧に於て20アンベアの電流を要したています。
この電気は開通当時、南禅寺にある京都市水利事務所経営の発電所(蹴上発電所)より受電しています。


電動機はGE社製GE800(25ps)1コて米国製のものと三吉電気工場製(25ps)を採用しました。先に納品されたのはGE社の製品で遅れて三吉電気工場製品が納入されました。自社工場で早速組み立てられて試運転を行った結果、GE製品誠に良好であったが、遅れて納品され組み立てられた三吉電気工場製品故障が頻発、もし大澤の意見が無ければ電気鉄道は信頼を失墜し、日本の電気鉄道の歴史に少し遅れが生じていたかもしれません。
三吉製品の故障の理由は、据置き型の発電機や電動機では実績はあったものの衝撃を受けながら使用する電車用電動機の生産実績が無いにも拘らず三吉電気工場が電車用発電機をぶっつけ本番な状況で受注したからであり、先述の通り日清戦争後の不況の影響もあり姿を消したのでした。

明治村で現役の1911年製の電車が登場する頃にはGE製電装品が主力となります。安定した性能を持つ狭軌1型は黎明期を脱し、次第に性能が向上すると車体の大型化、出力の向上が図られます。
ブリル台車もブリル21Bからブリル21Eベックハム7Bベックハム8Aと改良・新製品が導入されていきます。

堀川中立売の狭軌1型
台車はベックハム8Aを履いている