所有事業者:山形交通 (山形)

仕様・用途:観光貸切仕様

愛称:LUCENT COACH

登録番号:山形22 あ 1004

社番:0184001号車

初年度登録:1984年

シャシー製造:日野自動車

搭載エンジン:日野EF750型 (※)

車体架装:日野車体工業

車両型式:P-RU638AA (※)

車名:日野ブルーリボンRU・ミドルデッカ

撮影日:1989年11月23日 (木曜日)

撮影場所:皇居前広場駐車場

※・・たぶん

 

今から30年前に撮った、山形交通のブルリRUの前期型です。

今は貸切と高速路線に関しては白と青で車体側面に蔵王連山 (・・だと思う) をモチーフにした図柄を配したCIの 「UTORIA」 カラーに統一されていますが、それ以前は画像のようなカラーが標準でした。

撮影当時は山形交通直轄だったんですが、1997年に分社化して山交バスとなりました。

 

山形交通は鉄道事業も行っており、戦前の山形県下には三山 (さんざん) 電気鉄道と尾花沢鉄道、そして高畠鉄道という地方私鉄がありましたが、戦時中の陸運統制によって、この3鉄道と山形交通自動車商会、今村自動車商会というバス会社を統合して、1943年に山形交通が誕生しました (この5社の他にも山形県下の個人事業者も吸収) 。こうして、三山電気鉄道は山形交通三山線に、尾花沢鉄道は同尾花沢線に、そして高畠鉄道は同高畠線になりましたが、モータリゼーションの普及で1974年までにこの鉄道3路線は全て廃止され、バス事業に特化することになります。 モータリゼーションの普及ということは、当然、路線バスにも多大な影響を及ぼすことになりますが、時を同じくしてバス以外の事業に手を染めるようになって、山交グループは山形県内でも屈指の一大コンツェルンを築くことになります。

 

さて、画像の車ですが、1984年式のブルリRUだというのは冒頭、お伝えしたのですが、後述する資料 (媒体) ではRU638と表記していました。でもこれ、ホントにRU638ですかぁ~? ミドルデッカなのは判るんですが (車高から、フルデッカではないとは思う) 、ミドルデッカクラスの車ですと、EF550エンジンを搭載したRU608Aにならないかなって気がするんですね。一応、その説明通り、データ上でもRU638AAとしますけど、妙に腑に落ちない・・・。

それから、時代時代で変遷はあるものの、山交バスの社番は5桁なんですね。でも、画像の車は7桁です。上二桁は何を意味するのかな? 配置される営業所? メーカー? 無線番号? いずれにしても、詳細が何処を探しても判らずじまいなんです。知っている方がいればご教示願いたいです。

 

出来た写真の光線具合から、1989年11月23日撮影と断定して良いと思います。

この時はね、前日と合わせて2日連チャンで撮りバスでした。運行開始直後の名張行き高速路線バス 「いが」 を撮るのが目的でしたが、あの時から京急の高速路線仕様は 「ノクターン」 号を除いて統一のカラー (いわゆる “キャメル” カラー) になったんですね。その時は 「マジかよっ!?」 って、思いっきり落胆したのを覚えています。翌日は 「バス撮りに行きたい」 という友人を引き連れて行ったのは良いんですが、そいつは途中で飽きちゃったみたいで、途中で帰ったか最後まで付き合ったかは覚えていません。そうそう、東京駅八重洲口の鉄鋼会館ビル前に現れたダブルデッカー軍団は強烈なインパクトでした。大口の団体で1社だけでは間に合わず、近隣で二階建てバスを持っている事業者にも応援を依頼したのか、はたまたそれぞれ別口の団体だったのかは定かではありませんが、日の丸自動車興業が3~4台 (いずれもネオプラン) 、東京ヤサカ観光バスが1台 (ドレクメーラー) 、そして帝産観光バスが3台 (三菱エアロキングとネオプラン) という陣容でした。確か、この時初めてまともにエアロキングを見たという記憶があります。

 

画像の出来は良くありませんが、様々な車を撮ることが出来て、重ね重ね良い時代でした。

 

【参考文献・引用】

バスグラフィック外伝 「続・昭和青春バス紀行」 (ネコ・パブリッシング社 刊)

バスマガジン Vol.32 (講談社ビーシー社 刊)

ウィキペディア (ヤマコー、山交バス、日野セレガ)