京福電鉄北野白梅町への道(堀川中立売~下ノ森電停跡付近) | 鉄道で行く旅

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今回の目的は京福の北野白梅町付近ですが、途中経路であることから堀川中立売から北野まで京都市電の狭軌線だった堀川線(通称は北野線)の廃線跡を歩きました。

明治村で動態保存されている京都市電(狭軌線)の正面窓を撤去した復元車両です。(2003年)

 

この明治村の京都市電1号は京都市時代の改番後の8号車です。改番前は京都市電N58号でした。

京都市が買収する前の京都電気鉄道の車番は不明です。

これに関しては、京都市の改番前と京電時代はNの記号の有無以外は同じ番号という説があります。それが正しいのであれば、京都電気鉄道時代の焼失車や陳腐化車両などを新車に置き換えたという実績と整合しません。もしかすると、京都電気鉄道時代にも改番が行われていたのかもしれませんが、そこのところがよく分かりません。

京都市が京都電気鉄道から引き継いだ車両(散水車を含む136両)は、一番古い車両でも1910年(明治43年)製の24尺車(改番前のN1やN2など)です。京都市交通局編の「さよなら京都市電」では狭軌車両の仕様の変化にこだわることなく、全部まとめて「製造年を1895年〜1912年」としたようです。

今回、京都電気鉄道時代の車両を調べ直してみたところ、2種類ではなく何種類かの車両があったことを初めて知りました。往年の有名鉄道研究家の著書といえども、研究が進んでいなかった分野に関しては正確さに欠ける部分があったのです。

 

明治村の京都市電2号は京都市電買収時がN115号で京都市電の改番後が15号でした。(2003年)

明治村にある京都市電は27尺車ですので、製造初年が1910年(明治43年)以降の車両です。(明治村の車両は1911年製と言われています)

 

2002年に京都市内の大宮交通公園(現在はリニューアル工事中)で撮影した京都市電の狭軌27尺車の保存車両です。晩年の正面窓がある姿です。

 

なぜか6号車と書いてありますが、資料によりますと1912年(明治45年)に製造された車両です。京都市電が京電を買収したときにN112になり、その後の改番後は1号になっていた車両です。(2002年撮影)

改番後の1号の車内です。(2002年撮影)

 

梅小路公園

2014年5月に梅小路公園で撮影したバッテリー駆動化後の27号(これも27尺車)です。

2009年に梅小路機関車館時代の「京都市電運行線(現在は京都鉄道博物館が建っている場所)」で撮影した27号です。これは、バッテリー駆動方式への改造前のポール集電運転時代の姿です。

この車両は京都市電時代の27号(改番前はN127)だった車両です。明治村と同じで正面の形状がオープンデッキに復元されています。

この27号に関しては製造年が特定されておらず、1910年または1911年のどちらかのようです。

 

2002年の殺風景な時代の堀川で撮影した京都市電堀川線(北野線)の橋台跡です。

この当時は川底に降りることができなかったため、道路から身体を乗り出しても、この程度の写真しか撮ることができませんでした。

 

今回(2020年)の現地撮影画像です。

京都市電堀川線の橋梁の北側にある「堀川第一橋(中立売橋)」です。

 

京都市による「堀川第一橋(中立売橋)」の説明です。

 

その南側のある京都市電堀川線(北野線)の橋台跡です。

 

京都市による市電堀川線の説明です。

 

堀川橋梁の橋台の東側です。

その説明によりますと、左側が堀川線が単線の時代の橋台で、右側の3分の2程度が複線化後の堀川線の橋台ということです。

昔の写真では、この橋梁が堀川線の曲線区間になっており、北野行の電車は、ここから西向きに方向を変えて千本中立売を経由して北野方面に向かっていました。

 

堀川橋梁の橋台の西側です。こちらは右側が単線時代の橋台で、左側が複線化後の橋台です。

 

堀川中立売交差点です。

 

平安京大内裏および聚楽第東濠址の石碑です。

 

普通の民家のようなところでしたが、「よくある質問?」に対する回答が掲示されていました。

 

馴染みのある千本中立売の交差点が見えてまいりました。

 

ここから北野までの市電堀川線の廃線跡沿いが「北野商店街」です。ここが北野の天神さんの門前の商店街です。

商店街のアイコンが「N電(京都市電の狭軌線車両)」の絵になっていました。

 

京都では、やや珍しい東西南北方向ではなく斜めに進む中立売通りの西端です。

千本中立売~北野天満宮付近の空中写真です。

 

北野よりも、今でも市バスの壬生車庫がある後院通りの千本三条~四条大宮の区間が京都市内では一番印象に残っている斜めの道です。

大きな規模の車庫だった京都市電の壬生車庫跡も今はURの壬生坊城第2団地などに変わっています。その後院通りは京都市電が1912年に千本線・大宮線を開通させるときに、乗客が多い区間に電車を通すために斜めの道を新たに切り開いたものです。

なお、ここが斜めの道になった理由は「市電の乗客が多い経路」説と「千本通りの材木問屋街の町衆が猛反対したから」説の2とおりがあるそうです。

 

堀川線(北野線)の廃線跡に戻ります。

七本松一条から一条通りに変わったところの堀川線(北野線)廃線跡の下ノ森電停跡付近です。横断歩道を渡ったところに小公園があります。

 

その小公園に市電堀川線(北野線)の「N電」のモニュメントと「北野とチンチン電車」の説明パネルがありました。

 

その近くにあった天正年間創業の「長五郎餅」の本店です。北野天満宮の境内にも店舗があるそうです。

本店にも次々と買い物客が訪れていましたので、人気店のようでした。

 

店内で、天正15年(1587年)に太閤秀吉が開いた北野大茶会の際に用いられたという由緒正しきお餅をいただきました。

「長五郎餅」の命名者も太閤秀吉ということです。

その「長五郎餅」は上品な味の「こしあん」入りの餅でした。

糖分を控えていると言いながら、大地康雄さんが演じていた「刑事・鬼貫八郎」の低血糖(?)禁断症状による暴食のような感じです。

(つづく)