前回の続きです。

 中野ブロードウェイを抜けると早稲田通りに突き当たります。

 早稲田通りを高田馬場方向(東方向)に少し歩いてゆくと、左側からやや鋭角に出てくるバス通りがあります。これは薬師柳通り(新井薬師という東京ではちょっと知られた薬師様があります)という通りなのですが、そこを入っていきました。

 柳通りに入ってわりとすぐの細い一方通行を入ってゆくと、私の記憶は間違っていなかったことを確信しました。
 確かこの十字路を右に曲がってすぐの右側には豆腐屋さんがあったはずです。

 と、このようなことを述べているのは、かつてこの辺りに父方の祖父母の家があったのです。
 私は物心ついた頃には父の転勤で広島県に住むようになって小学5年生までの10年間を広島県で過ごしました。
 小学6年生からは東京や横浜で暮らすようになったのですが、祖父母の家があったのは私が中学生の時まででした。

 祖父は私が幼稚園児の時に亡くなり、祖母はその後長く生きたのですが、それまでの一戸建ての家を手放して同じ中野区内にマンションを買って引っ越しだので、ここにあった祖父母の家には私が広島県にいた期間も長かったからそれほど訪れた回数はそれほど多くはなかったのです。
 ただ、あの家の間取りや様子はよく覚えていて、私が初孫だったからか、祖父母には大変可愛がられたことは覚えています。だから当時の家がとても好きでした。
 もちろん、祖父の記憶は私が幼稚園児のところまでで止まっているのですが、祖母にはよく「泊まりにきなさい」と言われて、土曜日には時々泊まりがけで行っていました。ただし、敬老の日に行くと冗談半分に叱られたものです。

 この道路沿いにあったのです。
 現在では当時まわりにあった家もすっかりなくなってアパートやマンションに変わっていたり、家も建て替えられていたりしていますが、この一角にあったことは確信できます。


 もちろん、現在では身寄りがいるわけでもないのに、なぜ思いつきでここまで歩いてきたのか…?
 父が亡くなって半月が経過、父が生まれ育った家であり、学生時代や社会人として駆け出しだった頃の若き日の父の背中を追いかけたくて歩いてきたものか…。
 祖母が転居してから既に40年以上が経過、その祖母が亡くなってからまもなく30年になろうとしているいま、妙にあの当時の家が懐かしく思い出されてきたので、所用で中野に来たついでに少し徘徊してみました。


 再び中野駅に戻ると、7番線に停まっていたE353系の回送列車が新宿駅へと出発していきました。
 中野駅には中央本線の特急列車の車両が回送されてきてこの7番線によく停まっているのを見かけます。新宿に近く、番線の数も多い中野駅は車両の一時的な留置にも便利なのかもしれません。



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 鯰(なまず)の天ぷらが好きです。
 食べたことのない方と天ぷらの話題になって「私は鯰の天ぷらが好きだ」ということを言うと、多くの方が「えっ…!」と、怪訝そうな顔をします。
 例えて言うなら鱚(きす)の天ぷらをふっくらとさせたような食感とでも表現すれば想像していただけるでしょうか?白身で淡白な味わいです。
 個人的には穴子の天ぷらより旨いと思います。
 埼玉県東部や中部、群馬県南部辺りの蕎麦屋さんや饂飩屋さん、割烹料理屋さんなどでわりと見かけることが多いです。利根川や荒川の中流域といったエリアです。

 もちろん海老や穴子、白子、鱚、烏賊などの魚介類の天ぷらも好きだし、野菜やキノコ、山菜の天ぷらもたまらなく好きなのですが、山菜などはつゆだと風味が消されてしまうから抹茶塩か塩だけという食べ方をします。

 変わったところではりんごの天ぷらです。
 初めて食べたのは長野県飯綱町にある人気そば店で野菜天ざるを食べたときでした。季節によってはりんごの天ぷらは入っていません。りんごの甘酸っぱい味が意外と天ぷらに合うのです。