京都電気鉄道の盛況ぶりに別の電気鉄道を建設する構想が持ち上がり、実に44社にも及ぶ会社から申請が出されました。市議会では道路拡張の資金を普段する事を条件に、そのうち数社に免許を交付する事を了承しましたが、当時の京都市長が「目先の状況のみで、将来を見据えない判断をすべきではない」と意見し結局は市営で建設する事となりました。また、近いうちに京都電気鉄道を買収することも決定しました。
京都市営による路面電車は京都電気鉄道とは別に建設する事となり1912年6月より、4路線7.7kmの運行が開始されます。軌間は1435mmを採用し京都市では道路拡張と同時に線路を敷設する施策を取り、その上で京都電気鉄道と並行区間が存在する一部区間では軌道の共用を申し入れましたが市電開業の余波を受ける側の京都電気鉄道はこれを拒否しました。市は内閣の裁定まで用いてこれを何とか承認させましたが、軌間が異なったまま開通したので共用区間では三線軌条が使用されました。
大正時代に入ると民営事業社と市営の二社共存は利用者には不便であり内外から民営事業者の市営化の声が挙がります。これは京都市だけでは無く東京・横浜・名古屋・神戸でも挙がって京都市では第2期の路線拡大を図るとともに均一運賃制を導入するため、経営不振に陥っていた京都電気鉄道を買収する事となります。
1950年頃の京都駅前
広軌と狭軌が肩を並べて走る。左は④系統で市内を西回りで、烏丸通・北大路・西大路・七条通を走る系統だった。晩年、烏丸通(七条烏丸以北)は廃止されている。
京都市への併合後、N電をすぐに33輌が売却されます。これが金石電気鉄道(→北陸鉄道金石線)、松金電車鉄道(北陸鉄道松金線)、矢作水力(→岩村電気軌道)、和歌山水力電気(→南海電鉄和歌山市内線:更に沖ノ山炭礦・沖縄電気へ再譲渡)、京都電燈福井支社(→京福電鉄福井支社→えちぜん鉄道)、菊池電気軌道(→熊本電鉄)、名古屋市交通局(更に名鉄岡崎市内線・秋田市交通局・北陸鉄道金沢市内線へ再譲渡)、呉電気鉄道(→呉市交通局)のほか当時日本に併合されていた朝鮮:平壌府営軌道にも日本初の路面電車は各地に渡っています。
鈴なりの乗客を載せて京都駅へ向かうN電。戦後安定期に入ると利用者も増え収容力の少ない明治時代からのN電では度々このような光景も見られた。
永らく、N1号〜N133号の番号は欠番を埋める事なくそのまま使用していましたが、1955年時点で残った 28輌の車番を整理し改めて1号~28号に整理しました。尚、広軌1型は1953年に全廃となっていたため、"N"の記号は付けませんでした。
🔵京都電気鉄道 狭軌1形 諸元一覧🔵
、
型式 1型(N1〜N133) ) 133輌
製造年 1895年〜1912年
メーカー 梅鉢鉄工所
寸法(長×幅×高) 8,382mm×2,020mm×3,500mm
ホイルベース 2,134㎜
車輌重量 6.76㌧
定員 38〜43名(座席12〜20名)
台車 ブリル21-E台車(米)
制御器 GE社製B-18-A
電動機 (N58→8→明治村No.1)
GE社製
GE800(25ps)モーター2基→
三菱電機MB-74LR(18.64kw)2基
(N115→15→明治村No.2)
GE社製
GE800(25ps)モーター2基→
神戸製鋼TB-23C(26.1kw)2基
駆動方式 吊り掛け式
※京都市交通局の写真・図面は
さよなら京都市電(1978年:京都市交通局刊)より。
※諸元一覧の数値やデータはRM LIBRARY33:
N電京都市電北野線(2002年4月刊)より。