明治生まれの狭軌1型

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北野天満宮から七条へ向かう
京都電気鉄道時代の1型
七本松付近
1897年頃

京都電気鉄道1894年2月資本金30万円で起業します。1895年2月東洞院塩小路下ル(現在の京都駅付近)から伏見下油掛(京橋)間を開業させ木造2軸単車26輌を用意し走り始めました(後の伏見線)
同年4月には木屋町線:堀川中立売まで開業、七条から岡崎の博覧会場に至る路線が開業しました。


単線時代の寺町通りを下る
京都電気軌道時代の1型
寺町通り※
1897年頃

開業当初は全部単線伏見線9ヶ所、その他京都市内の路線には10ヶ所待避所を設けて運転するなど設備が未熟でした。
運行ダイヤを設定し時間を示して運転していましたが、時計の狂いや車輌故障によりダイヤが乱れて単線上で出会ってしまいます。
終いには運転手双方がどちらが後戻りするかケンカになり、これに乗客が加担してますます騒ぎが大きくなることもありました。

ケンカには収まらず、正面衝突や電圧変動による立往生・暴走なども多発し余りの騒ぎに当時、新京極にあった劇場においてこれを喜劇に仕組んで観客を笑わせた逸話も残っています。
事故は見通しの悪い場所で発生することから、このような場所に信号人を置いて昼間は旗、夜間は灯火によって合図しましたが、それでも信号人の怠慢で電車の鉢合わせ事故が発生し後に電気信号に代わりました。
また開業当初は"停留所"の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていました。

寺町通りは現在の京都御所の東:丸太町と広小路の間)を下る(南下)する様子。


ターンテーブルで方向転換
堀川中立売
1896年頃
創業当時の堀川中立売にあった転向場(ターンテーブル)。市街地路線で急転向を要する場所にはターンテーブルを設置、乗客を乗せたまま方向転換していた。集電装置はトロリーポールで、最初が1本で進行方向が変わるごとにターンテーブルに載せて前後に回転させるスタイルだった。

それでも、勧業博覧会は日清戦争の勝利に伴って賠償金が入り好況になったこともあり約112万人の入場者を集める活況を見せました。
その後も以後、毎年1万人ずつ人口が増加するようになった京都市の活況にあわせ、電車の利用客も増加し、1900年には北野線1901年には出町線・堀川線と順次路線を延ばしていきます。工事の進捗に合わせて逐次増資を行い1898年資本金60万1902年には120万円1907年には350万円に達しました。
資本増強を原資に1908年木屋町・西洞院・北野・伏見の各線複線化し、資本金か525万円となった1910年には寺町・丸太町・下立売・鴨東の各線複線化しました。

京都電気鉄道は毎年1割配当を行えるまでの業績を上げて車輌も増備が続き、狭軌1型は明治末期にかけて、133輌が製造されました。明治村で現役の2輌はこの時代に製造されたものです。


明治村へ譲渡されたのは1911年製造の旧番号はN58号とN115号。整理時の改番にて8号車と15号車となり、それぞれ明治村:壱號車/№1と弐號車/№2
になっている。


運転台は吹きさらしのオープンデッキで制動装置直接制御(左側のコントローラー)ハンドブレーキ(右側の真鍮製のハンドル)が全てで電圧計や速度計などは一切ありません。
運転手が紐を持ち、車輌左回りに半周しています。


これはトロリーポールを進行方向後方にポールを上げて方向変換する際に人力で180°ポールの向きを変えました(これを"ポール回し"と呼びます)