その7(5083.)から続く

前回見てきたとおり、目蒲線の運転系統変更と都心直通に向けた準備は、1990年代前後から着々と進められていきます。
平成5(1993)年には営団地下鉄(当時)南北線の最後の区間となる溜池(現溜池山王)-清正公前(現白金高輪)-目黒間及び都営三田線の三田-清正公前(同前)を着工、これらの結節点となる目黒駅の地下化も施工されます。
目黒駅の地下化は平成9(1997)年7月に完成したものの、この時点では南北線も都営三田線も目黒駅に達することはなく、地下ホームに7200系や7700系の4連が発着する姿が見られました。

車両の面では、「都心線」と仮称された現目黒線用の車両として、平成11(1999)年に3000系が8連で1編成登場、暫定的に東横線で使用されました。この車両はそれまでの東急の車両の常識を根底から覆した車両で、その最たるものは切妻を捨て、半流線形を取り入れた先頭形状。これは切妻構造の8000系列や9000系で、高速走行時の列車走行時の風切り音が問題になったから。そのためにあのような先頭形状になったのですが、同時に直通先も含めてワンマン運転を想定していたことから、先頭部からの視認性を確保したいという考慮もありました。
3000系は先行する1編成が8連で登場したものの、その後目黒線系統は6連で運行されることが決まり、同系も6連で増備されることになりました。このあと、第1編成は編成の組み替えを行い、3000系は目黒線開業までの間に12編成72両が用意されています。
3000系の登場は、「昭和の東急」の車両としての特徴に終止符を打つことになったものですが、同時にはっきりしたのは、9000系が目黒線系統で使われることがないこと。今でもあるのか分かりませんが、9000系は登場当時運転台に「東急⇔営団」の切り替えキーが準備されていました。これは9000系の編成出力では、アップダウンの多い南北線ではパワー不足であるとされたためですが、その後の東横線と副都心線との相互直通運転開始にあたっても、9000系が乗り入れ対応改造を受けることはなく、逆に編成を短縮されて大井町線へ転じています。
ちなみに、3000系の第2編成以下が6連で投入されることが決定したのは、乗り入れ各社局も6連で運転することが決定していたから。都交通局は直通開始を機に、三田線を8連化したかったようですが、直通開始の時点では実現しませんでした。これには、一説によると「輸送力過剰になる」として営団の反対があったそうですが、東急が乗り入れる南北線・都営三田線は勿論、後に開業する埼玉高速鉄道線も含めて、駅設備は当初から8連対応が準備されていました。

さて、目蒲線の歴史的転換が、いよいよ行われることになりました。その日は、20世紀最後の年となった、平成12(2000)年の8月6日。この日をもって、目蒲線は、目黒-田園調布-武蔵小杉間を「目黒線」とし、多摩川園-蒲田間を「東急多摩川線」として分離されることになりました。このような系統分割は、大正12(1923)年の開業以来、実に77年後のことです。なお同時に、長年親しまれた「多摩川園」という駅名を、同名の遊園地が廃止されて久しくなっていることから実態に合わせるためか、「園」の字を取って「多摩川」と改めています。
系統分離に伴い、「目黒線」はそれまでの18m級4連から、20m級6連と大幅な編成増強がなされ、目黒からの列車は蒲田ではなく武蔵小杉へ向かうようになりました。このときから約1ヶ月半後の同年9月21日までの間、目黒線は3000系のみで運行されるという、特異な路線となりました。
他方、目黒線から切り離された「東急多摩川線」は、多摩川-蒲田間の折返し運転となり、こちらは車両が池上線との共用となり、編成も4連から3連に改められました。これにより、鵜の木駅の目黒方1両の扉非扱いが解消しています。車両の所属もそれまでの奥沢(雪が谷検車区奥沢班)ではなく雪が谷に変更され、奥沢には車両の配置がなくなり、奥沢車庫には車両の配属がなくなりました。奥沢車庫(奥沢検車区)は既に昭和63(1988)年に「雪が谷検車区奥沢班」に組織変更されていましたが、車両の配属がなくなったのと同時に「元住吉検車区奥沢留置線」となっています。
この運転系統変更に伴い、大量の車両、特に7200系が余剰となりました。このとき余剰となった7200系は、退役即解体とはならず、豊橋鉄道などに譲渡されました。4+4の編成で東横線の日比谷線直通運用と共通予備車となっていた1000N系は、2本が3連化されて雪が谷へ転じ、引き続き池上・多摩川線での使用が継続された一方、もう1本は3連化で捻出された中間車を組み込んで8連貫通編成化されました。このとき摘出された中間組み込み可能な先頭車2両は、後に伊賀鉄道へ譲渡されています。なお、8連貫通化された編成も、日比谷線直通運用の減少により、他編成と編成構成などが異なることで嫌われたためか、日比谷線直通の廃止から5年先立つ、平成20(2008)年にお払い箱になっています。

そして運転系統変更の1ヶ月半ちょっと後、満を持して目蒲線、いや「目黒線」の都心部への直通が実現することになりました。目黒から先、営団(当時)南北線は赤羽岩淵まで。都営三田線は西高島平まで。このとき注目されたのは、目黒-白金高輪間で南北線と三田線が線路を共用すること。これは、同区間で営団が第1種鉄道事業者、都交通局が第2種鉄道事業者とされ、施設の維持管理は営団が受け持つことになりました。同区間は営団・都営いずれの切符でも乗車可能となり、「東京都シルバーパス」でも乗車可能となっていますが、運賃は安い方の営団に合わせられています(都交通局が特定運賃を採用している)。このあたりの取り扱いは、営団地下鉄が東京メトロに改組された現在でも変わっていません。
直通運転開始は、同じ平成12年の9月26日。この日から、武蔵小杉-目黒-赤羽岩淵・西高島平間で直通列車が走り出しています。
ところで、直通運転開始直前には面白い運用が見られました。それは、直通運転開始に先立って、営団・都交通局の車両が東急の路線に入ってくるようになったこと。
これは、直通運転開始、つまり南北線・都営三田線の開業に先立ち、ダイヤだけを開業後のそれに改め、開業前の区間を回送(試運転列車)として運転したため。このような措置をとった理由は、勿論開業前の関係職員の習熟のため。このダイヤ変更は、直通運転開始に先立つ9月22日から行われており、数日間営団及び都交通局の車両による「目黒行き」を見ることができるようになりました。特に、それまでフルスクリーンタイプのホームドアに覆われていて、その全貌を眺めることが難しかった営団の車両が、東急の路線上でその姿を見ることができるようになり、愛好家のみならず、沿線住民の注目を集めました。
ともあれ、平成12年9月26日、目蒲線は都心直通を果たしています。ただしその代償として、多摩川-蒲田間は切り離しを余儀なくされましたが。これにより、東急の車両が東京都文京区・北区・豊島区・板橋区で見ることができるようになりました。

そして翌年、目蒲線…もとい目黒線の乗り入れ区間は埼玉高速鉄道線の浦和美園まで延伸され、東急の車両が営業列車として初めて、埼玉県に達することになりました。
次回は、南北線の事実上の延伸路線である、埼玉高速鉄道線の開業への歩みを見ていくことにいたします。

その9(№5094.)へ続く

 

※ 当記事は暫定アップなので、現時点ではブログナンバーを振りません。

 

【追記】(令和2年3月7日 0040)

当記事にブログナンバー5087を振ります。