3/14に昨年の大嵐で再度不通に追い込まれた三陸鉄道が、全線で運転が再開されます。
悲願の旧JR山田線の復旧を含めた、新三陸リアス線の開通から半年余りで再び運休に追い込まれた事態に、地元民の方々の嘆きと落胆は如何ばかりかと今更ながら同情を禁じえません。
小生もできれば、なるべく至近で運転再開をお祝いに現地へ出向いてみたいと思っていますが・・・。
さて、たまたま、今日はお休みが取れましたので、震災記事の原稿探しでネット検索をしておりました。
当館はご存知の通り、鉄道館でございますので、やはり関連事象とすると鉄道が主となります。
そこで一つの記事が目に留まりました。
2020現在、東日本大震災関連遺構で現在保存されることが決まっているものは、公になっているものが38あるそうです。
震災被災当時者たる地域の方々の複雑な感情は、非当事者である小生などが論じるべきことではないと思っています。
しかし、震災被災県にルーツをもち、鵜住居で親族を亡くし、釜石で事業継続断念を余儀なくされた親類を持つ小生としては、発災後、帰省の度に三陸沿岸地を旅して目にした現実景色のインパクトの大きさは、それはそれは驚愕ともいえる愕然とさせられるものでした。
当時は、震災遺構と言っても、被災地域すべてが遺構ばかりでしたから保存も何もない、とにかく元の生活を取り戻すため、片付けるものは片づける、支援するに障害となるものは取り除く、もちろん事後の安全確保のため撤去する、と言うことが優先されたのは至極当然なことでした。全く同意できることですし、異議を唱えるつもりは毛頭ありません。
ただ、あの「衝撃の事物※多くは遺物」を目の当たりにした小生は、「百聞は一見に如かず」という現実を体験したときの印象、も、とても大切なことなのだ、と強く思いました。
日本全国、この地震/災害大国で生きていく者たちすべて、犠牲になられた被災地の方々が、「命を失わなくてはならなかった」、その意味。亡くなられた方々のその死に対して、残されたものが後に、何の意味もなく命を無くし「浮かばれないよ」と言うのではなく、「浮かばれる」ように。
そして、その魂が「この世に存在なされた意義」を見出してさしあげることこそ、残された/生かされた者皆が成すべきことだ、とも思うのです。
そういう意味で、震災発災から9年で公に保存されている遺構が38件だけ・・、という事実に、何ともしがたい気持ちを抱いてしまいました。
2012/08/16撮影 JR石巻線、旧野蒜駅
①グニャリとひしゃげた転轍機梃
あの鋼鉄!のポイント梃が、いとも簡単に押し曲げられています。
水の圧力だけでです!!。
②引きちぎられて垂れ下がった本線架線と真っ赤に錆びたレール
架線が張られたあの高さまで、波が到達したのかはわかりません。
でも、編み込まれた架線が引きちぎられたのは事実です。
③海側からの大津波によってゆがんだ駅名版とビーム
駅名版枠が山側に変形しています。
駅名板は流されずにもったようですが、板に当たった波の圧力
に引っ張られて支柱も曲がった!?。
④津波に巻き上げられた海砂に覆われた駅構内
本来あるはずのバラス※砕石、が全く見えません。
しかも50Kレールの踏面高さまで、海砂で埋め込まれています。
⑤上屋屋根下まで達した大津波に洗われたホームと止まった時計
ホーム上にある掲示板に貼られたポスター上端まで、明らかに
波に洗われた跡がありました。
そして、ベンチの上に置かれた時計※鉄道時計ではなさそうです、
後で誰かが持ってきたもの?、は3時46分?で止まっていました。
新野蒜駅から歩いて20分の距離にある、旧野蒜駅は現在、東松島市震災復興記念館として現在は駅舎と駅構内の一部施設が保存されているそうです。
小生が訪れた時は、流されてきた瓦礫で満たされ破壊され、天井が垂れ下がっていて、外からしか望めなかった駅舎内も、以前のように片付けられて綺麗に整備されているようです。
これら↑の撮影時の事物が現在もあるのかはわかりませんが、あの惨状を伝える「現物」ですから皆様一度はご自身の目で確認されて、その時が来た時のために「ご自身の教訓」として、頭の隅にとどめていただければ、と思う次第です。
東松島市震災復興記念館ウェブページ