その4(№5063.)から続く

今回と次回は、目蒲線の「延伸」、つまり都心部方面及び郊外方面への乗り入れ計画について取り上げます。今回は都心部方面への延伸について。
目蒲線の都心部方面への「延伸」は、現在は東京メトロ南北線・都営三田線に直通運転を果たすことで実現していることは周知の事実ですが、では両路線への直通はどのような経緯で決まったのか、そのことを見ていきましょう。

まず南北線方面ですが、南北線自体の計画は古く、既に昭和37(1962)年の都市交通審議会答申第6号において「東京7号線」として示されており、「目黒方面より飯倉片町、永田町、市ヶ谷、駒込及び王子の各方面を経て赤羽町方面に至る路線」となっておりました。その10年後、昭和47(1972)年の同答申第7号では、将来の検討対象とされていた埼玉方面への延伸が「川口市中央部~浦和市東部付近」と示され、さらに昭和60(1985)年の運輸政策審議会答申第7号では、目黒-清正公前(現白金高輪)間を6号線(現都営三田線)と共用するものとされ、かつ埼玉方面は鳩ケ谷市内を経由し浦和市東部方面へ延伸するものと改められました。この区間は、目黒-駒込-王子-赤羽岩淵間が営団地下鉄(当時)南北線として、平成12(2000)年9月26日までに全線が開通、赤羽岩淵-浦和美園間は第三セクター「埼玉高速鉄道」が建設した埼玉高速鉄道線(現埼玉スタジアム線)として平成13(2001)年3月26日に開業しています。
この路線が計画当初から目蒲線との相互直通運転を目指していたのかは判然としません。7号線の当初計画が明らかになった時点では、6号線(都営三田線)と東急田園都市線との相互直通運転計画がまだ生きていましたので、このころは構想として存在したにしても、具体的なものではなかったように思われます。
ただ、後で詳しく述べますが、都営三田線が昭和60年の上記答申で路線形態を変更している段階で、東急目蒲線との相互直通運転を行うことが決定していますので、南北線との乗入れも、このときに事実上決まっていたと言ってよいのでしょう。もっとも、目蒲線とはいえ、当時の目黒-蒲田間ではなく武蔵小杉・日吉方面への相互直通運転が考えられていたようですから、当時混雑が激化していた東横線、及び渋谷駅の混雑緩和の対策としての面もありました。
南北線は「東京7号線」でありながら、着工が昭和61(1986)年、第一期開業区間の駒込-赤羽岩淵間の開業が平成3(1992)年11月29日、全線開業が着工から14年後、部分開業からでも9年後の平成12(2000)年という、かなり遅い着工・開業となっていますが、これはその後に計画された路線が、いずれも既存路線の混雑緩和のためのバイパスルートとして計画されたため、そちらの方の緊急性が高いとして早期に建設されたからです。7号線・南北線よりも番号が大きいにもかかわらず南北線よりも先に開業した路線(部分開業含む)としては、8号線(有楽町線)、9号線(千代田線)、10号線(都営新宿線)、11号線(半蔵門線)があります。それぞれ、有楽町線は丸ノ内線、都営新宿線は中央・総武線と東西線、半蔵門線は銀座線のバイパスルートとして計画され、千代田線は日比谷線のバイパスルートであると同時に、国鉄(当時)常磐線の都心直通ルートとして計画されたものです。
南北線で特筆されるのは、ワンマン運転を前提にATO(自動列車制御)を導入し、かつ各駅にホームドアを導入したこと。現在、ホームドアは各事業者がこぞって導入していますが、いずれも腰高のゲート状のものであるのに対し、南北線のそれは「フルスクリーンタイプ」といわれる、天井まで届くもの。これによって、ホームにおける乗客と車両との接触の危険がほぼゼロになっています。南北線開業当時、ホームドアの導入例は新交通システム(神戸ポートライナーなど)にあったくらいですが、南北線への導入は、地下鉄、普通鉄道としては初めての事例となりました。普通鉄道へのホームドアの導入は、発想自体は新しいものではなく、既に島秀雄氏が昭和30年代に、駅ホームの安全性・快適性確保(飛び込みや触車事故がなくなり、ホームに空調を完備することができる)のために提唱していましたが、車両ごとに扉の位置が異なることや、停車位置の精度が要求され運転士への負担が重くなりすぎること(当時は停車位置の精度をバックアップするシステムが実用化されていなかった)ため、普通鉄道では長らく取り入れられていませんでした。それが車両の扉位置の統一、及びATOその他運転士をバックアップするシステムの技術的なめどが立ち導入が実現したことなどが契機となって、ホームドアの導入が実現しています。

次に都営三田線について。
都営三田線には、東急との乗り入れ計画が存在していました。しかしそれは、現在の目黒線ではなく田園都市線。それも田園都市線と直につなぐのではなく、池上線を介してつなぐ方法。具体的には、旗の台駅を改良して池上線との連絡線を建設、大崎広小路-戸越銀座間にあった桐ケ谷駅を復活させ、そこから地下で新線を泉岳寺まで建設(東急泉岳寺線。途中駅は五反田のみだった)して桐ケ谷-五反田間は廃止、泉岳寺から都営三田線に乗り入れる計画でした。当時計画されていた「新玉川線」は、現在実現したものとは全く異なり、銀座線と相互直通運転をする計画であり、かつ「新玉川線」のルートも確定していなかったため、この計画が意味を持っていました。
しかし、田園都市線から都心部への乗り入れとしては、このルートでは遠回りになりすぎること、銀座線との直通では銀座線の車両規格が小さいため輸送力も小さく、「新玉川線」と二子玉川園駅(現二子玉川駅)が早晩パンクすることが懸念されたことなどの理由により、東急は都営三田線への乗り入れ計画を破棄し、田園都市線の乗り入れは11号線(半蔵門線)に変更されました。それを見越し昭和47(1972)年の上記答申において、今度は目黒駅を経由して港北ニュータウン方面への延伸が提案されました。このときの答申で特筆されるのは、目黒駅から目黒通りの真下を通って等々力方面へ至り、そこから多摩川を越えて一直線に港北ニュータウン方面を目指す計画だったことです。この答申が出た段階では、都営三田線と目蒲線との相互直通運転は、全く念頭に置かれていませんでした。
その後、南北線の項目で言及したとおり、昭和60年の上記答申で、清正公前(現白金高輪)-目黒間を7号線と共用すること、目黒以遠は目蒲線を介して日吉方面へ乗り入れること、港北ニュータウン方面への乗り入れは新線を介して行うことなどが取り決められました。これによって、都営三田線と東急との乗り入れ計画が復活したことになります。同じ路線の乗り入れではありませんので、厳密にいえば「復活」ではありませんが。
以上のとおり、三田以南については紆余曲折を経た都営三田線ですが、三田に達した昭和48(1973)年から19年後の平成4(1992)年に三田-清正公前(同前)間の建設工事に着手、さらに8年後の平成12(2000)年9月26日、南北線の目黒-溜池山王間と同時に開業しました。

開業と同時に、東急目蒲線…ではなく「目黒線」との相互直通運転を開始、営団地下鉄と東京都の車両が武蔵小杉まで達しました。
このようにして、目蒲線は「目黒線」として、目黒から蒲田ではなく武蔵小杉を目指す形態になったものの、都心への直通を果たすことになりました。
次回は、郊外への直通として、埼玉方面への直通と港北ニュータウン方面への直通について取り上げます。

その6(№5075.)に続く