民鉄の覇者 東京急行電鉄 31、五島の経営① (社内人材) | 犬と楽器と鉄道模型

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先ず、五島に関して誤解している方が非常に多いのである。
「五島ならぬ強盗慶太」の異名は結構だが、経営や乗っ取り等、とても一人では出来ないのである。
五島サイドには、間違いなく有能な人材が多数居たと言う事だ。
 
官僚から武蔵電鉄へ移った時も実は一人で移って来たのではない。
五島を慕って付いて来た、「五島徒党」を引き連れて来たのである。
それも、各々の鉄道建設に精通したプロフェショナル達が・・・
因みに、東急の社長になった鈴木幸七も、そのメンバーであった。
 
当然ながら、武蔵電鉄の無給では配下が食っていけないのであった。
五島は、何処からかお金を借り、それを皆に分け与え、自分は無給で過ごしたのである。
 
この話を聞くと、戦国武将、大内家の家臣・陶晴賢の事を思い出す。
陶は厳島の戦いで、毛利元就の策略に翻弄され敗北、自刃した。
色々と問題のある武将の様であったが、兵士からの信頼は厚かった。
例として、大内家で出雲遠征があったが、結局この戦いは敗北し、敗走する事になった。
負け戦な為、兵糧は不足気味であった。
陶は、自分の兵糧を護衛や兵士に与え、自らは干鰯や魚の腸等を食べて飢えを凌いだと言う。
陶は自分以上に兵士を大事にしたのだった。
 
五島も、自分を慕ってくれる人々を自分以上に大事にしていたのである。
しかし、何時までも返す当てのない金を借り続けられる訳ではない。
だから、相場師的な経営をしていた武蔵電鉄を乗っ取ったのであった。
 
これは、以前にも書いたが、蔵前の高等工業学校が移転に伴い、大岡山の9万2千坪の土地と蔵前の高工敷地1万2千坪の土地と交換した。
この9万2千坪の地所は、会社の帳簿価格は100万円以下であったが、蔵前の1万2千坪の地所は、間もなく復興局の材料置場として240万円(五島は180万円と自著で書いているが・・・)で買収されたのであった。
五島はその利益の金で、武蔵電鉄の株式の過半数を買収したのである。
このケースは運が良かったのであろう。
 
何故、五島の元に人材が集まるかは、社員を愛した事もあるだろう。
しかし、一番の基は五島が覇権を求めた事である。
そして、その器があった事だろう。
競争と言う世界でのライバルを圧倒し、制圧する。
女性からしたら、IFに映るだろうが、この度し難い性分が男性にはあるのである。
覇権を握る事は男にとって浪漫である。

それでは、社内から抜擢した人材を紹介する。

田中勇。
昭和の大番頭とまで言われた。
五島は非常に多忙を極めていたが、入社する事になるであろう学生達と面接をする事は非常に楽しみとしていた。
その時の学生が田中であった。
 
この田中と五島の面接は一つのエピソードになっている。
面接をした五島からいきなり「明日から来るように」と言われたのである。
田中が「未だ卒業免状を貰っていません」と答えると五島から、
「俺は卒業証書を雇うんじゃない、お前を雇うんだ」と・・・
 
1926年に目黒蒲田電鉄に入社する。
私鉄の先駆を行くVVVF9000系の開発は田中の功績で言った事は、
「東急は、メーカーの技術面での開発に力を貸す事。
費用がかかっても良いから1編成を製作し、走り込んで不具合を早く見出して改良を進めれば、我が国全体の為になる」
と・・・
 
更には東亜国内航空・伊豆急の再建にも辣腕を振るっており彼でなくては再建は出来なかったと言われている。

又、性格は上の者へもずけずけ言いたい事を言う言わば嫌われ者だったが五島には可愛がられていた。
田中の事を書いていたら五島と同等の量になるので、気になった方は本を読んで頂きたい。
 
そんな田中が五島の事を回想している。
「非常に色々な事に気が付く方でしたね。
例えば、慶應の日吉移転に際し、「学校だからあれも必要じゃないか?
ここには多分道が必要になるだろう。
ならば、作っておくか」
とか頼まれもしないのに色々と便宜を図った。
移転に際し、相当なダダを捏ねた慶應に恨みも無く、自分の事の様にお膳立てをしていたらしい。
 
そして柏村毅。
池上電気鉄道の出身であった。
目黒蒲田電鉄に依る池上電鉄の乗っ取り後、五島は、池上関係の社員達を一堂に集めて訓話した。
その折に、「柏村君というのは誰かな?」と、皆の前で言ったのである。
 
彼の回想では、
「私の名を知っておられたんだな。
確か私が28か9の頃だったので、この一言が非常に嬉しくてね。
…それまでは、現場主任が非常に長くて、同僚がどんどん上っていくのに、私だけが最後までとり残された形だった。
それを五島さんは、一気に自動車課長に抜擢してくれた。
益々私は五島さんを尊敬するようになったのである」
と・・・
彼は最終的に、自動車本部長の職であり、関東バスの社長も務め、東京急行電鉄の取締役・専務取締役を勤める事になった。
 
しかし、多忙を極める五島に、人材発掘等出来る訳がない。
五島サイドには冷徹な目で、人を観る事が出来る人材も居たのである。
苦し紛れに若手を起用するのではなく、本当に優秀な人間かを見極める事が出来る、人材発掘の専門の人が・・・
 
五島はこの様にして、有能な人材を多数揃えていったのである。
人心を巧みに掴み、自家薬篭中のものにする手腕は、流石と言わねばなるまい。
教師と官僚、そして経営までも経験した、五島ならではの人事の妙であった。
 
 
(次回は五島の経営② (ヘッドハンティンです)
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