城泉寺にのこるあんじょう警察署武徳殿

きょう2020年2月みっか、城ケ入(じょうがり)は城泉寺(じょうせんじ)にのこるあんじょう警察署武徳殿(ぶとくでん)をみてきた。むかしはまちなかの、あんじょう商工会議所やあんじょう郵便局のあるへんにあったあんじょう警察署が、いまの県道岡崎刈谷線ぞいの郊外に移転するときに、ほの武道場である武徳殿のたてもんもとうぜんこわされてなくなっちゃったっておもっとっただけど、じつは城泉寺の本堂としてつかわれとって、ほれをみてきただ。のこっとるってのは、2020年1月にじゅうよっかのしろめぐりのときにあんじょうふるさとガイドの会のかたからきいてしった。

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現地まではクルマで移動。みなみあんじょうのアクトスで運動して、米津の海香館でひるごはんをたべて、城泉寺にとうちゃく。

2020.2.3 (3) 城泉寺 - 本堂(武徳殿たてもん) 2000-1500

境内にはいって、本堂をみてみる。むかしの武徳殿の写真とみくらべてみる。まちがいない。ひがしむきにつまいりでたっとる、この本堂のたてもんが武徳殿のたてもんだ。おてらの本堂っていうとだいたいひらいりで、つまいりは異例だ。

2020.2.3 (4) 城泉寺 - 本堂(いりぐち) 2000-1500

おまいり。

わきにいしぶみがあってよんでみる。

本堂再建記念碑
1685年5月、聞光山城泉寺開基
1809年9月、本堂落成
1945年1月、三河地震により倒壊
1976年4月、本堂再建

「1976年4月、本堂再建」ってのが武徳殿のたてもんを移築したときのことだ。いや、ほいでも、倒壊してから31年間の空白期間はどうしとったのか。

2020.2.3 (6) 城泉寺 - もと公立保育園たてもん 2000-1500

ところで、本堂のひだりに、木造あかがわらぶきひらやだての洋風のたてもんがある。これも武徳殿とかかわりがあるのか。

おてらのひとにはなしがきけるといいだけどな~。勇気をだして、おくりをピンポン。おくさんからはなしをきけることになった。ありがたい。ご住職はご主人からむすこさんにかわっとるだけど、まんだわかいでようわからんとのこと。ただ、おくさんもいまの本堂がある状態でおよめにきとるで、ほんなにくわしいことはわからんかもしれんとのこと。

2020.2.3 (5) 城泉寺 - 本堂(みなみから) 2000-1500
△ よこからみた本堂

まず、本堂はまちがいなく武徳殿のたてもんを移築したもんだった。ただし、おくゆきはちょこっとつめたとのこと。

2020.2.3 (9) 城泉寺 - 本堂(内部) 2000-1500

おねがいして、本堂のなかをみせてもらう。もともと武道場だったたてもんになかばしらはなくて、あらたに重量鉄骨でなかばしらをいれたとのこと。ひがしむきつまいりのため、台風のときなんかはあまもりでたいへんで、さいきんに対策を講じたとのこと。なんぼんかあるランマのうちの一部は、もとの本堂でつかっとったもんをつかっとるとのこと。ここ城泉寺は警察署の武道場を移築したけど、周辺のほかのおてらでは、校舎や講堂をもらったとこもおおいとのこと。三河地震ってたいへんだっただ。ほいから、おくさんは一色の出身でご実家もおてらだったとのことで、ほっちは本堂は半壊ですじかいをいっぱいいれてつかえるようにしたとのこと。ただ、おくりは全壊したとのこと。城泉寺の31年間の空白期間についてきくと、たおれんですんだおくりのほうをつかってやっとったとのこと。

2020.2.3 (7) 城泉寺 - もと公立保育園たてもん(東北から) 2000-1500 2020.2.3 (8) 城泉寺 - もと公立保育園たてもん(西北から) 1200-1600
△ 東北からと西北からみたもと公立保育園たてもん

あかがわらのたてもんがなんだったかきいてみると、なんと公立保育園だったとのこと。おてらの境内に保育園があっただ。むかしの城ケ入保育園はここにあっただ。いまの城ケ入保育園は城ケ入小学校のあとちにある。城ケ入小学校は和泉小学校と合併して丈山小学校になって、廃校になった。ほいで、公立保育園だったあかがわらのたてもんだけど、けっこうじょうぶとのこと。なかにたたみのへやがひとへやあって、いまも親戚すじのかたがちょくちょくとまりにみえるとのこと。

2020.2.3 (10) 城泉寺 - みずや 2000-1500

みずやとかねつきどうも地震で倒壊したとのこと。みずやは、ほかのとこにあったもんをもってきたとのこと。

2020.2.3 (11) 城泉寺 - かねつきどう 1500-2000

かねつきどうは新築したとのこと。当時戦時供出でかねがもっていかれちゃっとって、バランスがとれんくてあたまでっかちの状態になっちゃっとったで倒壊したじゃないかとも。

以上のほか、境内地がむかしはまっと南北にひろかったってこともおしえてくれる。みなみがわのほそいみちをへだてたとこのしきちにあたらしい豪邸のたつおやしきも、もとは境内地だっただけど、むかしの住職ゆかりのかたの土地になって、ほの子孫のかたがすんでみえるとのこと。

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農都あんじょうの時代の名所のひとつ武徳殿が、いまも市域南部の城泉寺にのこることがたしかめれて、うれしかった。


(さんこう)