
今日は1月30日。
現代の高性能電車の礎となる、80系湘南形電車が1950(昭和25)年の今日、誕生しました。
湘南電車とは、東海道本線の東京~熱海・沼津間の電車による中距離列車の通称でした。
また、オレンジ色とダークグリーンによるツートンカラーを湘南色と呼び、当初は80系電車に続く153系電車、111系・113系電車が湘南形電車と呼ばれていました。
後には湘南色をまとった形式全般が湘南形電車と呼ばれるようになりましたが、湘南電車と湘南形電車の呼称区別は、やがて運転エリアに関係なく一般的に湘南電車と呼ばれるほどとなりました。
ちなみに湘南電車の"湘南"とは、神奈川県が旧国名の相模国だった時代、相模の南側を意味する通称でした。
現在、新型肺炎・コロナウイルスで大変なことになっている中国ですが、三国志の舞台で有名な武漢市のある湖北省の隣に、湖南省というエリアがあります。
この湖南省の南部にかつて長沙国(ちょうさこく・現 長沙市)というのがあり、相模南側の景色が『洞庭湖(どうていこ)とそこに流入する瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこう)の合流するあたりを瀟湘(しょうしょう)と呼びその南部に似ていた』ことから、それにあやかって"相"の字を"湘"に置き換えて漢字をあてたと言われています。
なぜ"湘"の字をあやかったかと言うと、鎌倉幕府が当時広まりつつあった新派"禅宗"を保護して建長寺や円覚寺が建立された時代で、同時代に長沙国は禅宗の聖地だったため、鎌倉周辺の地域を信者たちが、中国の瀟湘南部=湘南とちなんで呼んでいたことから、先進文化として使われたと言われています。
そして時代は下り、当初は相模国南側の通称だった湘南は、やがて神奈川県の相模湾沿岸地方を指す名称となります。
湘南市構想などもあるようですが、現在の行政による区分は、平塚市・藤沢市・茅ヶ崎市・秦野市・伊勢原市・寒川町・大磯町・二宮町となっており、鎌倉市は含まれていないようです。
さて、湘南という名称の歴史はこのぐらい簡易にして、本題の湘南電車へ話しを戻しましょう。
東海道本線の電化に伴って開発された80系電車は、それまで客車列車で運転されていた湘南列車という国鉄内部用語を継いで、湘南電車と呼ばれるようになりました。
湘南列車は職員だけが使う名称でしたが、湘南電車という呼称は新聞などでも使われ、一般に広く呼ばれる名称となりました。
初代湘南電車の80系は、機関車牽引の客車列車に比べて高加減速と高速性能に優れ、またそれまでの中長距離客車の居住性をも確保した車両でした。
そのため、時間短縮とそれによる快適性が提供され、旅客からは驚きを持って歓迎されましたが、デビュー当時はあまりにも急な"電車の高性能化"だったため、初期故障も多発したようです。
マスコミからは湘南電車ではなく遭難電車だと揶揄され、国鉄のオーバーテクノロジーだと非難されましたが、ほどなく安定走行をするようになると、その本領を発揮するようになります。
東京駅口で営業開始した5ヶ月後の8月には、京阪神での急行列車運用にも投入され、東海道本線の電化が西伸するに伴って中京地区にも進出しました。
その後、山陽本線・上越線・東北本線・中央本線でも運用を開始し、信越本線では碓氷峠越えもこなしました。
80系デビューから12年後の1962(昭和37)年には111系が登場し、80系は東京駅口から順次淘汰され、東京駅発着は1977(昭和52)年3月28日に終了しました。
1950(昭和25)年から1958(昭和33)年までに652両が製造された80系は、普通列車から快速・準急・急行列車として広く使用され、その技術は後継車両へと引き継がれて、そのスピリッツは日本の高速鉄道を今も支え続けています。
本州各地の直流区間で多様な運用をこなした80系は、飯田線を終焉の地として、1983(昭和58)年2月24日で営業運転を終了し、全車廃車となりました。
ただ保存見込みでモハ80が1両、広セキ(広島鉄道管理局下関運転区=当時)に車籍を残しており、形式消滅は1985(昭和60)年でした。
京都鉄道博物館に展示されている80系電車は、1950(昭和25)年1月30日にデビューした第1編成を組成していたトップナンバー2両です。
この内、モハ80001が1985(昭和60)年まで車籍を残していた最終廃車車両で、トップナンバーとして1番最初にデビューし、80系形式消滅のラストを飾った車両です。
ところで、展示車両の車内を見て、すごくに気になったのは、幼少の頃の思い出なんですが。
昔は車内禁煙ではなかったので写真の通り灰皿が設置されているのですけど、そのお陰?でシートにタバコの痕が残っていたりしました。
その焼けた穴が着席者の衣服と擦れて、シートの内側の中身がほつれて、飛び出ていたりしていたものです。
で、気になることと言うと、3枚窓(初期車)の車両のシートは、当時は中身が綿ではなく藁だった記憶があって、この再現シートの中身は何で作られているんだろう?ってところです。
今更、藁でイスやソファーは作らないでしょうから、やはりウレタンなどの現代モノで形成しているのでしょうか。
とても気になります。
ちなみに153系電車は、誕生当時は湘南電車または新湘南電車などと呼ばれましたが、そのビュフェを連結した長距離輸送運用(急行東海など)から、後に東海形と呼ばれるようになり、その愛称が定着しました。
では、また来年の1月30日へ・・・・つづく。
▼本日限定!ブログスタンプ
通話料、高額になってしまった経験ある?
あなたもスタンプをGETしよう
さて、ちょっと補足なんですが、80系電車の誕生は1950(昭和25)年1月30日ですが、それから各種試験や試運転が行われ、東海道本線で営業運転が開始されたのは、同年3月1日からでした。
7ヶ月後には10月ダイヤ改正が控えており、3月の時点では80系電車投入とそれに関連する、限られた一部のみにとどめられました。
尚、10月のダイヤ改正で80系電車は、日本初の電車による私鉄乗り入れ優等列車として、"準急あまぎ"のヘッドマークを掲げて東京~伊東・修善寺間に週末列車としてデビューしました。
当時の架線電圧は国鉄側が1500V、伊豆箱根鉄道側は600Vだったので、モハ80に30Ωの抵抗などを組み込んだ、乗り入れ専用編成が限定で運用されました。
尚、文脈の流れ上あやふやな表現となっていますが、東海道本線の電化は1928(昭和3)年までに東京~熱海間、1929(昭和4)年に東京~沼津間が完成しており、第二次世界大戦を挟んで1950(昭和25)年は浜松まで完成しました。
京阪神地区では、1929(昭和4)年より電車の運転が開始されました。
また、伊東線は1938(昭和13)年に開通と同時に1500Vで電化開業していました。
さて、最後に電話の話題ですが、戦前には全国で5,222台あった公衆電話は、大戦末期には僅か623台に激減し、戦後は復旧が進まず1947(昭和22)年頃までほとんどその機能は停止していたそうです。
湘南電車がデビューした翌年の1951(昭和26)年に、当時の電電公社が商店などに公衆電話の取扱業務を本格的に委託するようになり、赤電話として急速に電話通信網は復旧して行きました。
で?電話代が高額になってしまったこと・・・・ケータイが普及し始めた頃、5分程度家からかけただけなのに、翌月の明細書を見て驚いたことが1回ありましたねぇ(笑)
-バックナンバー-
スマホの方もPCの方も応援お願い致します>
ブログトップページ<
