「白馬で降りた王子」(3)
こんばんは。
もう誰も覚えていらっしゃらないかと思いますが、「白馬で降りた王子」の(3)がやっと書けました。
この「白馬で降りた王子」は、新宿から松本経由で大糸線へ向かう夜行列車の話です。(1)は昭和39年ごろの急行「白馬」、(2)は昭和61年ごろの急行「アルプス」、今回の(3)は1回とんで、次回(4)で快速「ムーンライト信州」へと続いていく予定です。
今のところ最後は(5)まで行くつもりでおりますが、(3)がやっと書けたばかりで、(4)以降はいつになるのか自分でもわかりません。
また、これもいつものことですが、今回も結構長くなってしまいました。お時間のあるとき、例えば、電車にご乗車になっていらっしゃる時に、暇つぶしにでも読んでいただければ幸いです。
なお、(1)(2)をご覧になっていらっしゃらない方は、お手数ではございますが、(1)から順に読んでいただければ幸いです。
といいますか、どちらにしても物語としてはまだ途中ですので、最後までいってからまとめて読んでいただくでも結構でございます。
「白馬で降りた王子」
(1) https://ameblo.jp/tokihirokoji/entry-12428607797.html
(2) https://ameblo.jp/tokihirokoji/entry-12463991385.html
今までに書いたフィクションは、ブログテーマ「創作列車」にまとめています。こちら↓↓が、その目次です。
「創作列車」 目次
http://ameblo.jp/tokihirokoji/entry-12196772783.html
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《物語の時代》
少し昔 ~ 少し未来
《登場列車》
本章は、登場列車はありません。
《登場人物》
男1(私/オマエ) ・・・ 主に(一)(二)(三)
男2(俺) ・・・ 主に(三)(四)(五)
(三)
俺はオマエが嫌いだ。
オマエの顔を見るだけで、虫唾が走る。
母さんと俺は、オマエなんかいなくてもやっていけるんだ。
一緒にいてくれなんて頼んでいない。
何をやってもドンくさい。にもかかわらず、何にでも付いてくるな。
俺には、物心ついた時から母さんしかいなかった。理由?知るかそんなもん。
だが、いつの間にかオマエが現れ、母さんにちょっかいを出すようになった。
母さんだって迷惑していたんだ。でも、きっと・・、俺のことを思って、父親のいない俺のことを思って、母さんなりに妥協したんだ。全部、俺のためなんだ。
友達と八方のスキー場に行った時も付いてきたよな。オマエ、スキーなんてロクにやったことないだろ。転げまわっていただけじゃないか。あのゴンドラの横の目の前のコースは、初級者向けなんだ。子どもだって、もっとうまく滑っているんだ。恥ずかしいんだよ。
中綱湖にワカサギ釣りに行った時も付いてきたよな。オマエ、ワカサギ釣りなんてロクにやったことないだろ。一匹も釣れないじゃないか。オマエが一匹も釣れない間に他の人たちはみんな、ホイホイ釣っているんだ。友達の親父さんと全然違う。オマエなんかに保護者面される俺の身にもなれ。
今日だってそうだ。なんでオマエが一緒にいるんだ。
この道は、母さんと俺が二人で歩くつもりだったんだ。母さんが前から言っていたんだ。松本から糸魚川までの昔の街道を歩いてみたいって。きっと、近所の誰かからそんな話を聞いて、自分も歩いてみたいって母さんも思ったんだ。
松本から日本海側の糸魚川まで100km以上ある。それを、何回、いや何十回にも分けてちょっとずつちょっとずつ、歩いていくんだ。でも、平坦な道ばかりじゃない。険しい峠道だってたくさんある。
俺がもう少し大きくなったら・・。
って、思っていた。俺が母さんに付き沿ってやって、母さんがやりたいことをさせてあげようって、母さんを喜ばしてやろうって、そう思っていた。
それが、オマエが現れた途端、すんなりやることになった。不思議で不思議でしょうがなかった。でも我慢するしかない。母さんに悪いからな。
あれは、最初の日だ。あの日、松本駅から歩き始めたんだ。
ちょうど梅雨が始まろうとしていた。朝からジメジメしていた。今にも降り出しそうだった。前の晩にテレビで確認した天気予報でも、そういっていた。
家から白馬駅へ向かう間も、松本へ向かう大糸線の電車の中でも、ずっと思っていた。
なんでこんな日に、バカじゃないのか。
空は低く、どす黒い重りが垂れこめている。お先真っ暗な、嫌な予感しかしない。
市街を抜け、松本城をまわった。母さんはいつになく上機嫌だ。どうやら天守に上ったのは初めてのようだ。あっちを見てみろ、こっちに何が見えると、いちいち言ってくる。
車が行きかう道を歩いていく。緩やかな上り坂が続いている。俺は、ずっと母さんと一緒に歩いた。少し遅れて、オマエが俺たちの後をついてきた。
大きな池の近くを通りすぎ、さらに上って行く。車の数は少なくなっていった。
大きな公園の入口を過ぎたあたりだった。車も通らないような細い道へ入った。
右も左も無造作に成長した雑木に囲まれた。そのうちのいくつかは途中で折れ、倒れ掛かっている。さらにそのうちのいくつかは、根元から朽ちようとしている。
何処へ向かっているのか? 母さんが歩いてみたかったのは、こんな道なのか?
木製の小さな道標があった。その一方は下り坂だ。と言っても、ちゃんとした道があるわけではない。道標がなかったら、きっとわからなかっただろう。
雨がぱらついてきた。母さんがカッパを取り出し、着せてくれた。急な坂道を下っていく。滑らないように気をつけろと母さんが言う。
地元の人でも通らないような道だ。誰ともすれ違わない。松本の市街からそれほど離れていないというのに、こんなところがあるのか。長い年月をかけ、人が通ったところだけが削られ、かろうじて道になっている。その坂は養老坂という。母さんが教えてくれた。
(養老坂)
急な坂道を下りきると、ほんの少し視界が開けた。
そこには、安曇野の平野が拡がっていた。といっても、目の前の木々が邪魔をし、空を覆った厚い雲が北アルプスの山々を隠している。
なんてつまらない景色なんだ。こんな面白くない景色のためにここまで歩いたのか。こまでかかった時間も、ここまで歩いてきた労力も、みんな無駄じゃないか。
母さんは何も言わない。だが、顔は笑っている。いつの間にか雨はやみ、やけに蒸し暑い。
なんだ、この違和感は。気分が悪い。吐き気がする。でも、声には出さない。 母さんに・・、悪いからな。
【参考】松本駅 → 養老坂(地図A)
(国土地理院発行5万分の1地形図「松本」を使用)
◇◇◇
あれは、何回目だったでしょうか。
あの日は、大糸線の安曇沓掛駅から歩き始めました。
彼女には、小学生の息子がいました。当時、私たち三人は、時間を見つけては昔の道を歩いていました。松本から日本海側の糸魚川までの昔の街道を、何回、いや何十回にも分けてちょっとずつちょっとずつ、歩いて行くのです。
それは、彼女の発案でした。彼と私の間に接点を作り、少しずつでも打ち解けてもらいたい、という彼女の願いでした。
母が亡くなると、私は天涯孤独の身になってしまいました。そんな時に彼女に出会いました。彼女には息子がいましたが、彼女もどこかで孤独や不安を抱えていたのかもしれません。
駅から東へ向かい、高瀬川を渡りました。高瀬川はこの辺りでは大きな川で、南へ、つまり松本の方へ向かって流れています。
さらに進んで坂道を上り、仁科神明宮に着きました。仁科神明宮はこの辺りでは大きなお社で、その昔、この地方を治めていた豪族が勧進したと言われています。
神明宮を出て、今度は北へ向かって歩き始めました。田舎の平凡な道ではありますが、この道が昔の街道なのです。
「塩の道」と呼ばれるこの道は、その昔、まだ車も鉄道もなかったころ、人々の生活に必要な物資を運ぶための重要な街道でした。上りの荷、つまり日本海側の糸魚川から内陸の松本へは塩や魚介類が、逆に下りの荷には、麻や莨(たばこ)といった物資が、暖かい季節には牛馬の背に、雪の積もる季節には人の背によって運ばれたそうです。私たちが何回にも分けて歩いているのは、この塩の道という昔の街道なのです。
西側の県道に比べれば車の数も少なく、歩くにはちょうどよい道です。水路を流れる水の音が聞こえてきます。虫たちの声も聞こえてきました。あっ、西の空の晴れ間に陽がさし、北アルプスの山々を照らしています、
(塩の道より北アルプスを望む)
私たちは寄り道をすることにしました。塩の道から少し逸れたところに滝があると、何かで読んだことがあります。その話を思い出し、せっかくなので寄ってみようと、私が言いだしたのです。
本来なら信濃大町駅へ向かうべく左へ折れるところを、あえて直進し、東へ向かう県道に行きあたりました。その県道がなかなかの上り坂で、車は何台も通り過ぎて行きますが、歩いているのは私たちぐらいです。ですが、そう遠くはないはずです。「もう少し、もう少し」と彼女と彼に声をかけながら、私が先頭を切って坂道を上っていきます。
でも・・、あれっ、おかしいな。滝らしきものなんて見当たりません。多分、滝はこっち、とか、滝まで○○m、とか、そういった看板か何かあってもいいですよね。しかし、どれだけ歩いても、そんなものはありません。
私たちはさらに上って行きました。1km、2km、いや、もっとかもしれません。明らかにおかしい、どこでどう間違えてしまったのか。滝があるという話自体が私の記憶違いだったのか、それとも道が違ったのか・・。
私は迷いました。どうすべきか。もし私だけなら、どれだけ迷ったとしても、それでもよいかもしれません。しかし、こうして迷っている間にも、あっという間に時間は流れていってしまいます。私の迷いに、彼女と彼を付き合わせるにはいきません。
私は、彼女と彼に詫び、坂道を引き返すことにしました。
せっかく上ってきた道を、今度は下っていきます。背中に、非難するような彼の視線を感じます。でも仕方ありません。言えることは何もありません。
誰も何も話さないと、静かなものですね。こんな時は困ってしまいます。引き返す下り坂が、とても長い道のりのように感じます。時間が、とてもゆっくり流れていきます。
どれだけ引き返したでしょうか。不思議なことが起きました。静けさの中で、ふと気づいたのです。私たちの左側、ガードレールの向こうは崖のようになっています。その先から、水の流れる音、流れ落ちていくような音が聞こえてきたのです。いや・・、違う。私たちは、ついさっきこの道を上っていたときにも、きっと同じ音を聞いていた・・。
私は探しました。しかし、崖には木々が生い茂り、それらしいものは何も見えません。
私はさらに探しました。そして気づきました。あるガードレールとその隣のガードレールの間に、少し隙間が開いています。その隙間から下の方を覗いてみると、明らかに土が削られ、それは薄暗い木々の根元を縫うように、そこに一歩一歩足を置いていけるように、そしてそれをたどれば下っていけるように、どこの誰がしてくれたのか分かりませんが、そう思えるのです。
私は、その隙間から崖を下ってみることにしました。足を滑らさないように、気をつけながら下っていきます。すると、そこには幾筋かの小さな水の流れがありました。私は声をあげ、彼女と彼を呼びました。
彼女が下ってきます。一歩一歩たどたどしい足取りではありますが、彼女の表情には笑みがこぼれています。そしてその後を彼も下ってきます。
彼女と彼が合流すると、私は先陣を切って、石伝いに小さな水の流れを飛び越えようとしました。しかし、勢いをつけて飛びあがってはみたものの、あろうことか、私の右足は水の中に落ち、ずぶ濡れになってしまいました。思わず笑ってしまいました。そんな私を見て、彼女も笑っています。
私は手を伸ばし、同じように飛び越えようとする彼女をサポートしました。そして、同じように彼にも手を伸ばしました。ですが、彼にはそんな助けは必要なく、自分の力で飛び越えてしまいました。
私たちの目の前には、小さな滝がありました。それは、思い描いていたよりも、とても小さな滝でした。少なくとも、私にはそうでした。彼女にはどうだったでしょうか。彼には、どうだったでしょうか。
【参考】安曇沓掛駅 → 仁科神明宮 → 清音の滝(地図B)
(国土地理院発行5万分の1地形図「信濃池田」を使用)
◇◇◇
今日で何回目だ?
ここまでどれだけ歩いたか? こんなことをどれだけ続けていくというのか?
大糸線の簗場駅で降りたのは、俺たち三人だけだった。
小さな駅舎を背にし、駅前の道をまっすぐ行く。右手に中綱湖が拡がる。湖面に沿って西側にまわり、細い道を歩く。大糸線の線路や車が走る道は、湖の東側を通っている。いつもとは違う景色の中を行く。
そう言えば、中綱湖には主がいて、たしかどこかの寺の釣鐘じゃなかったか。母さんが昔聞かせてくれた話にあった。どんな話だったか。
中綱湖の北端を過ぎると、すぐに青木湖が現れる。同じように西側の道を行く。
青木湖にも主がいる。その話は覚えている。青木湖の主は「赤い牛」だ。
青木湖の西岸、ちょうどこの辺りなのだろう。
昔、ある百姓の家に赤い雌牛が飼われていた。ある時、その雌牛が子牛を産み、その子牛は対岸の部落に貰われていった。
子牛は母牛が恋しく、昼も夜も鳴き続けた。子牛の鳴く声が聞こえてくるたびに、母牛はいたたまれなくなった。そしてある晩、とうとう牛小屋を逃げ出し、青木湖へ飛び込んだ。
母牛は対岸を目指し、必死に泳いだ。だが、その半ばで力尽き、母牛は青木湖の底へ沈んでいった。
湖面に沿うように、急な坂道を上っていく。木々の隙間から湖面を見下ろす。濃い青が際立つ。きっと、深いのだろう。
さらに進んでいく。キャンプ場やホテルが目に入る。昔話から今に引き戻される。
オマエが路傍の木々を指差しながら、母さんに話している。カラマツとスギの違いを説明している。どちらも針葉樹だが、カラマツは寒くなると葉が落ちる。漢字で書けば、唐松とも書くが、落葉松とも書く。この青木湖のあたりからはスギの方が多くなるのだという。そんなことをオマエが語り、それを母さんが聞いている。これが現実の世界だ。
「あれ見て」
オマエが指を差し、今度は石仏があると言いだした。しかも、全部で三十三体、佐野坂と呼ばれるこの道に沿って点々と並んでいて、今、俺たちの目の前にあるあの石仏がその一体目なのだという。
一つ見つけるたびに、母さんが数えていく。すぐ近く見つけやすいところにあるものもあれば、少し離れて樹木の根元や叢に隠れるようにしているものもある。
「ねえ、あれそうじゃない?」
楽しそうに母さんが言う。
「ねえ、今いくつ目だっけ?」
甘えるように母さんが訊く。俺は数えていない。
「あれで十体目だよ」
これみよがしにオマエが答える。
三十三体の石仏には、一つとして同じものはないという。昔の人たちの信仰を表しているのか、道標を兼ねているのか。それとも、かつてこの道で行き倒れた人たちの供養なのか。そこには、人々のどんな願いや思いが込められているのか。そうやって、オマエがトクトクとウンチクを語る。そんなにいいところを見せたいか。そんなに母さんに気に入られたいか。
いつの間にか青木湖は終わっていた。杉林に囲まれ、坂道を下っていく。
この峠道は、南北の分水嶺だ。気候も風土も、ここが太平洋側と日本海側の境界だ。植物も変わる。流れる水も変わる。ここまでは青木湖から中綱湖へ、そして高瀬川となって南へ南へと流れていた。だが、この坂を越えると新たな水がわき出し、それが姫川となって北へ北へと流れていく。どちらも、北アルプスの山々から染み出した水だ。
(佐野坂)
いつの頃からだろう。俺は、一歩引いて母さんたちの後を歩くようになっていた。最初の頃は、俺が母さんと一緒に歩いていた。
勘違いするな、オマエを認めたわけじゃない。むしろ、オマエなんかと一緒にいようとする母さんの方がどうかしているんじゃないか。
でも・・、母さん、最近、生き生きしてるな。前は、もっと苛々してたよな。訳も分からず、怒鳴られたこともあったもんな。俺の・・、俺のせいだっていうのか。
じゃあオマエは、母さんにとって癒しなのか。ふざけんな! オマエみたいにドンくさいやつが、そんなわけないだろうが!
木々の隙間から、眼下に景色が拡がった。四ヶ庄平と呼ばれる、あれが俺たちの白馬村の景色だ。
俺たちは今、自分の家の方に向かって歩いている。これだけ歩いて、これだけ時間も労力も使って、それでいて自分の家へ向かっている。そして今、たった今、分水嶺を越えた。
もういい、 好きなようにやってくれ。
俺は、もう歩かない。 俺は、もう行かない。
決めた。俺は別の道を行く。
俺は・・、オマエが嫌いだ。
【参考】簗場駅 → 佐野坂 → 姫川源流(地図C)
(国土地理院発行5万分の1地形図「大町」を使用)
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(4)へ続きます。
本章は、年表はありません。
《補足》
本章の内容について、一部、地図と写真を利用して補足させていただきます。
① 塩の道(千国街道)
千国街道は、かつて松本と糸魚川を結ぶ重要な街道でした。
本文中にも記載しましたが、上りの荷、つまり日本海側の糸魚川から内陸の松本へは塩や魚介類が、逆に下りの荷には、麻や莨(たばこ)といった物資が、暖かい季節には牛馬の背に、雪の積もる季節には人の背によって運ばれました。
「牛馬の背に・・」と記載しましたが、主に千国宿を境にして、北は牛で南は馬だったそうです。また、物資の運搬に従事していた人たちは「ボッカ」と呼ばれていたそうです。
千国街道は、俗に「塩の道」とも呼ばれています。行き来していた物資の中でも、当時の人々にとって、日本海側から内陸へ運ばれていく「塩」が、特に重要であったのでしょう。
なお、「千国(ちくに)」は地名で、当時は番所が置かれ宿場町としても賑わったそうです。今でも白馬村の北側の小谷村に地名が残っており、大糸線にも千国駅があります。といっても、千国駅は無人駅でとても寂しく、かつ、千国の集落は少々離れていますので、千国駅で降りたっても、当時を偲ぶのは難しいです。
本文中に掲載した、地図A,B,Cは、それぞれ物語の中で三人が歩いた道を表しています。基本的には「塩の道」を辿っていますが、全てを忠実にトレースしたわけではありません。
こちら↓↓に、塩の道を大まかにトレースした地図を掲載させていただきます。
(国土地理院発行20万分の1地形図「富山」を使用)
(国土地理院発行20万分の1地形図「高山」を使用)
このルートは、これらの書籍を参考にさせていただきました。
と言いましても、私が地図上にトレースしたものですので、あくまで大まかなものとお考えください。
「塩の道500景 千国街道を歩く」 田中欣一、田中省三 信濃毎日新聞社
「塩の道を歩く」 文=田中欣一、写真=田北圭一 信濃毎日新聞社
② 養老坂
「養老坂」は、松本駅から北へ進み、塩倉池の近くを通り過ぎ、さらにアルプス公園の入口を少し過ぎたあたりから左へ折れて進んでいった先にあります。寂れた小道で、昔の人たちは本当にこの道を行き来したのかと不思議に思うほどです。
東側から西側へつまり坂道を下る側へ進むと、条件が合えば北アルプスの大パノラマを楽しむことができるようですが、私が訪れた時は、まさに本文中のように雨がぱらつくような日でしたので、こんな↓↓感じでした。
ですが、「養老坂」そのものはとても趣があり、私自身は、そんな天気の日に訪れてむしろよかったのではないかと思っています。
③ 清音の滝
本文中に出てきた滝は、「清音の滝」と呼ばれています。清音は「きよと」と呼びます。
私がこの滝を訪れた時は、本当に入口が分かりませんでした。かなり先まで行ってしまい、諦めて戻る最中にふと気が付いて入口を見つけることができたのでした。
ちなみに、その入口はこちら↓↓の写真で、このガードレールの隙間が滝への入口なのです。この隙間から下って行けるようになっています。
やっとの思いでたどり着いた滝ではありましたが、実際の滝はこんな↓↓もので、思っていたよりも小さく拍子抜けしてしまうほどでした。ですが、この時は、たどり着くことができた喜びの方が大きかったです。
④ 佐野坂
「佐野坂」は、大町市と白馬村の境界を貫いている峠道です。坂と言いましても、ゆるやかで無理なく歩くことができます。
ですが、冬の間は青木湖の北端あたりから佐野坂のスキー場のあたりまでは除雪されず、通行止めになってしまいます。
本文中に出てくる石仏は、「西国三十三番観音」と呼ばれているもので、文政十二年(1829年)に高遠(現・伊那市の一部)の石工の手によって彫られたものです。この石仏を一つ一つ巡っていくのも、佐野坂を歩く上で大きな楽しみになっているようです。
佐野坂を大町市側から白馬村へ通りぬけると、大糸線の線路と合流する辺りで白馬村の景色が拡がります。と言いましても、私はこんな↓↓写真しかなく、恐縮です。
佐野坂を超え、佐野の集落に入ると、すぐ近くに姫川の源流があります。まさに水が湧き出ており、そこから姫川となって北へ北へと流れて行きます。
《参考にさせていただいた書籍等》
最後にまとめて掲載する予定です。
ときひろ.ねっと